私の死神、ありがとう、さようなら。

バルザック・カロン

第1話

 死神とは、現世で彷徨さまよう魂を冥府死後の世界まで導く者たちのことである。


***


「あっつぅー……」


 麦わら帽子、白いワンピース、ベージュのヒールサンダルを身につける、少し焼けた健康的な肌をした黒髪ストレートロングの女は、小さなビニール袋をゆらしながら緩やかな勾配こうばいうつろな目で一歩一歩と進み、うちへと足を急ぐ。


 しかし、今は葉月はづきの上旬。肌をさすような強い日差し、じめりと湿気を含んだぬるい風、目前のコンクリート上をゆらめく陽炎かげろうが女を襲い、歩く速度を妨害する。


 止めどなく肌をつたい続ける汗のせいで肌に白いワンピースがべとりと張り付き、その不快感で眉間にぐっとしわを寄せて女は顔を歪めた。


 体力を消耗したせいか、やや猫背になっている女の顔は下を向いている。顔が下に向けば自然と視線は下に向くわけで、視界に入るのは灰色のコンクリートばかりである。そんな中、異なる色が視界に入って女は足を止めた。見上げれば、自宅マンションがそこにあった。灰色とは異なる色、それは外出時に見つけた花萌葱みどりいろをした一本の四つ葉のクローバーである。


 女はポストに入っていた茶封筒を取り出した。差出人は書かれておらず、女の『夏風なつかぜ 幸子さちこ』という名前と住所だけが書かれていた。


 幸子さちこは自宅に入ってすぐ冷凍庫に手に持っていた小さなビニールごと突っ込んだ。リビングのフローリングに腰を下ろして冷房をつけると、先ほどの茶封筒を開封する。


 中に入っていたのは三つ折りにされた一枚の便箋びんせんであり、広げてみる。


────────────────────

夏風 幸子 21歳


あなたはもうすぐ死にます。

あなたが無事に成仏できるようにお手伝い致しますので、やりたいことを考えておいて下さい。


担当死神:坂部さかべ 優希ゆうき

────────────────────


「雑っ⁉︎ "もうすぐ"っていつ⁉︎」


 幸子は目を丸くして突っ込みを入れた。一般の人間であれば、そこ以外にも突っ込むべきところがあるはずなのに、幸子が気になったのはその点だけであった。


 幸子が便箋びんせんの文章を見つめているとピンポーンとインターフォンが自宅に響いた。リビングに設置してあるテレビドアフォンで外の人物を確認すれば、白百合色しらゆりいろの髪に薄浅葱みずいろの瞳をしたシミ一つない少女がそこにいた。小柄で可愛らしい女の子だ。


 幸子は、もしや手紙の差出人である死神の子ではないかと思いながらスピーカーのスイッチを入れた。


「どちらさまですか?」

「あなたの担当死神の坂部さかべ 優希ゆうきです。成仏のお手伝いに来ました」


 どうやら幸子の思っていたとおりだったらしい。幸子は特に警戒心を抱くこともなく、ドアを開けて、少女を中へと招き入れた。


「とりあえずお茶でも」と幸子は氷の入った麦茶を少女の前に置く。すると、少女は一気飲みしグラスをテーブルに置いた。麦茶が空になったグラスには氷のみが存在し、氷と氷が互いにぶつかりあってカランと音を立てた。


「あなたが、わたしの死神さん?」

「はい、坂部です。宜しくお願いします」


 淡白にそう答えた坂部という名の少女は、軽く頭を下げた。その拍子に明らかにサイズの合っていない藍墨茶くろいろのローブが肩からずれて、白い肌をのぞかせた。


「宜しくね。えっと……優希ちゃんって呼んでもいいかな?」

「別にいいですけど……お姉さん」

「はい?」

「受け入れるの早いっすね……こちらとしては仕事がはやく進むんでいいんですが」


 自称死神の見知らぬ少女を平然とした顔で自宅に招き入れてしまう時点ですでにおかしいのに、死神に名前呼びの許可を求めるという状況に優希は戸惑いを隠せずにいた。そのせいで、敬語が抜け出てしまう。


「いやぁ、現実味がないというか」

「まぁ、そうですよね」

「ところでわたしって、もうすぐ死ぬんだよね?」

「はい、だから私がここにいます」

「"もうすぐ"って具体的にいつ?」

「ちょっと待ってください」


 優希はそう言うとローブの内ポケットから手帳を取り出して暫くぺらぺらと音を立てながらページをめくると、手を止めた。


「明日の夜八時です」

「早っ⁉︎ そんなすぐ⁉︎」

「はい、私も驚いてます。通常は一ヶ月前くらいに告げに行くんですが、急遽きゅうきょ上司から頼まれまして……」

ちなみに告げるのが遅くなった理由、わかります?」

「忘れてた、と」

「そんなバカな⁉︎」


 幸子はフローリングに四つ這いになって大袈裟に項垂うなだれる。


「お姉さん、リアクションがわざとらしいですね……」

辛辣しんらつ⁉︎」


「気を取り直して、死神の役割について説明します。死神の役割とは、大まかに言えば現世で彷徨う様々な生き物の魂を回収して冥府へ運ぶことです。生き物が死んだ場合、肉体から魂が離れて現世を彷徨うことになります。そうすると、彷徨う魂を死神が探し出して回収しなければなりません。これが、手間になってしまうので死期が迫る人の側で死神が見守り、その人が死んだ瞬間に魂を回収することで魂が彷徨うのを防ぐというシステムになっています」


 幸子は成る程といった表情かおで首を縦に振ってうなずいた。


「へぇ〜、じゃあ死神が死期迫る人の前に目に見えるかたちで現れるのは?」

「見守る時間がもったいないので、なるべく未練なく冥府に行けるようにお手伝いする、という"ついで"のオプションです」

「ついでなの⁉︎ ないよりは有難いけども!」

「ということで、何かやりたいことありませんか?」


 しれっとした顔をして優希は話をすすめるが、幸子がすぐに思いつくはずもなく、「いやぁ〜急に言われてもねぇ」と首を傾げる。


「ですよね……」

「優希ちゃんは何かやりたいことないの?」

「何で、私?」


 まさか自分のことを聞かれるとは思っていなかったのか、優希は一驚する。


「正直、わたしやりたいことないから、この時間を利用して優希ちゃんの休暇代わりにできたらなぁって。そういえば死神って、休暇あるの?」

「休暇は……ありません。死神は疲労を感じることはありませんので、不眠不休で働きます」

「まさかのブラック企業……。じゃあ丁度いいじゃん! 何かやりたいことない?」

「でも……」


 優希は幸子の提案に戸惑うが、それだけではなく優希の瞳の奥には期待が見え隠れしていた。


「ほらほら言ってみなよ」

「友達みたいに遊んでみたい、です」


 幸子の悪魔の囁きに、ぽろりと優希が口からもらしたのだった。


 死神は幽霊同様に通常は人間に見えないらしく、外で死神に話しかけといると変な目で見られてしまう。なので、なるべく家でできることの方がいいという話を優希から聞いた幸子は、押し入れに仕舞い込んでほこりを被ってしまったトランプ、オセロ、テレビゲーム、将棋を出してきた。


 結果は、ほぼ幸子の勝ちだった。「接待用だから負けてやったんです」とむくれた顔で優希は言ったが、唯一、優希が幸子に将棋で勝ったときの喜ぶ表情かおを見れば、接待用ではなく本気で挑んで負けたのだとわかる。それに気がついていた幸子は口には出さなかったが、吹き出して笑っていた。


***


 就寝の時間になり、幸子と優希は寝室にいた。幸子は敷布団に、優希は幸子のシングルベッドを借りて寝ていた。


「お姉さん、起きてます?」


 しんと静まり返った寝室に小さな声がよく響く。


「起きてるよー。あと呼び捨てでいいよ、敬語もいらない。友達なんでしょ?」

「幸子、も、呼び捨てでいい」


 優希は照れたようで、後半の言葉は深く被り直した掛け布団によってくぐもったが、なんとか聞こえる。


「優希、どうしたの?」

「今日は有難う」

「いえいえ」


「幸子、私ね……」と優希の声のトーンが低くなり、語りはじめた。


「高校二年の時に末期癌で死んだの。治療ばっかりで友達もろくにできなくて。でも、そんな私を両親が気にかけてくれて、おしゃれはしてたんだ」

「じゃあその髪と目も?」

「うん。でも、おしゃれしても誰も見てくれる人はいないし、どこかに出かけるわけでもないから結局、意味なかったかな」

「おしゃれして、どこに行きたかったとこあるの?」

「遊園地、とか?」

「じゃあ明日、遊園地行こうか」

「え、でも」

「遠慮しない! わたしも久々に行ってみたかったし、行こうよ!」

「うん」



「幸子……」

「ん?」

「ありがとう」

「どういたしまして」



「幸子は死神、信じてるの?」

「うん、まあね。あぁ、そういえば聞きたいことあったんだけど、わたしの死因って何?」

「死因? 確か"不明"って書いてあったよ。普通は書いてあるんだけど何でだろう」

「不明⁉︎ わたしが聞きたいよ⁉︎ マジで寝れる気がしない!」

「おやすみ幸子」

「え、ちょっと寝ないでよ! ねぇ⁉︎」


 寝室には、幸子の悲痛な声が響いていた。


***


 現在時刻午前七時である。優希はジト目で幸子を見ていた。


「寝れないって言ってた割には、ぐーすか寝てたよね、幸子。目の下にもクマひとつ無し。随分と図太い神経してるんだね」

朝一あさいちから毒舌⁉︎ 否定はしないけども!」


 朝食を食べてすぐにふたりは遊園地に来た。はたから見れば一人で遊園地に遊びに来たひとりの痛い女であるが、幸子はあまり気にしていなかった。


 辛辣で毒舌を炸裂する優希にお仕置きだと言わんばかりに、優希の苦手とするお化け屋敷やジェットコースターといった絶叫系ばかりを選べば優希がすっかり不機嫌になってしまった。幸子がお詫びにパフェをご馳走すればその機嫌は元通りになり、優希は笑顔になった。楽しい時間というものはあっという間に過ぎてしまうもので、頭上にはいつのまにか星空が見えていた。


「幸子、もう……」


 優希を眉を下げて幸子の服の袖を引っ張った。午後八時まであと五分。


「わかってる。最後にあれに乗ろうよ」


 そう言って幸子が人差し指を向けた先を視線で優希がたどる。


「観覧車……うん」


 ふたりが乗るゴンドラはただただ静かだった。今までのことを思い返し、噛み締めているようなそんな時間が流れる。


 ゴンドラが一番上に差し掛かった時、「あれ?」と優希は首を傾げて自身の両手に視線を落として交互に見る。優希の手は透けていて、床が見えた。


「優希、楽しかった?」

「うん、すごく楽しかった……けど、なんで?」

「優希が死んで、死神になって今日でちょうど五年なんだ」

「あ、そっか……だからか……」


 優希の表情は嬉しそうな、けれど悲しそうな、そんな複雑な表情だった。


「幸子が……私の死神だったんだね」

「黙ってて、ごめん。でも、その方が優希が自然体で楽しんでくれるんじゃないかって思ったんだ」

「謝らなくていいよ。私のために、そこまで考えてくれて有難う。嬉しかったよ」

「うん……良かっ……た」

「恋愛なんてしたことなかったけど、私、幸子みたいな彼女がほしいな」

「なにそれ」


 冗談っぽく言った優希の目はいつになく真剣で、幸子ははっとし息を呑む。そして、幸子はふふふと笑いながら涙を浮かべて、がばりと優希に抱きつくと優希は一瞬身体をふらつかせながらも幸子の身体を受け止め、背に手を回した。抱きしめながら、透けて段々と人の感触を失いつつある優希の身体を幸子が感じとると、どちらからともなく身体が離れる。


「ありがとう、わたしも優希が好きだよ。親愛的な意味で」


 優希はそう言うと、一筋の涙が頬を顎をつたい落ちてゆく。


「こりゃ、手厳しい」


 そして、優希は幸せそうにふわりと柔らかな笑みをこぼした。それは、幸子が優希と出会ってから一番の笑顔だった。


「さようなら……」


 優希は夜のゴンドラに溶け込むように消えていった。


「こんばんはー! 坂部優希の回収にきました」


 藍墨茶くろいろのローブを身に纏う青年が突如とつじょ、ゴンドラ内に現れた。


「お疲れさまです」


 青年が何かを掴む動作をした後、麻袋に手を入れた。刹那、麻袋あさぶくろがきらりと蒼く光った。


***


 遊園地の帰り道、幸子はひとり歩いて帰っていた。ふと自宅マンションの四つ葉のクローバーに視線を移すと、それは二つに増えていた。


 自宅に帰ってきた幸子は、缶ビール片手にローテーブルに顔を突っ伏して泣いていた。テレビのついていない部屋は、静まり返っていて、幸子の鼻を啜る音だけが響く。


「わたしも好きだよ、優希」


 幸子はビールを一気飲みして、大の字に寝転がると、両腕で目から流れ落ちる涙を塞き止める。


***


 死神とは、現世で彷徨う魂を冥府死後の世界まで導く者たちのことである。


 死神は神の采配さいはいにより、死んだ人間から抽選で選ばれてなり、任期は五年と決まっている。真面目に五年死神として働けば、生きているときに積み重ねてきた罪の軽減で天国に行けたり、転生先を優遇されたりするらしい。


 五年の任期を終えた死神は死神屋が成仏のサポートを行う。


 死神屋とは死神と人間との間に生まれた子たちのことである。死神が人間に寄り添う中で、情がうつり、恋心が芽生え、子をなすことが少なからずあるのだ。


 死神と人間との間に生まれる子は身体がとても弱く、死亡率が非常に高い。神は死神屋としての仕事をこなすならば丈夫な身体を授けると約束し、現在の死亡率は零である。


 今日も幸子のポストには差出人の不明な茶封筒が入っていた。自宅に入ってしばらくすればピンポーンとインターフォンが幸子の自宅に響く。


 死神と人間との間に生まれ、沢山の人々を幸福へと導く子になりますようにと願いを込めて名付けられたのが、幸子。






「あなたが、わたしの死神さん?」





 彼女は死神屋として成仏させるために、またうちに死神を招き入れる。



 幸子の家のリビングには、今、二本の四つ葉のクローバーが水の入ったグラスに飾られている。





















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