さんぼうし

上月くるを

さんぼうし





 わずか三歳にして信長の後継と目された三法師。

 必ず一度は登場するが、二度とは顧みられない。

 

 ものの本に同様な紹介のされ方をしてきたのが、この短い物語の主人公ですが、ここで注意すべきは、三歳は数え年なので、現代ならまだ二歳であるという事実。

 とつぜん天涯孤独となった赤子が、大人たちにいいように利用されたのです。

 

 天下統一を図った織田信長の嫡子の信忠の嫡子。

 つまり信長の嫡孫に生まれついたのが運の尽き。

 本能寺の変で忽然と消えた、祖父と生みの父母。


 いきなり孤児となった幼児は、信長随一の寵臣だった柴田勝家を蹴落とし天下人の座を狙う豊臣秀吉、いまこそ時機到来と画策に奔る叔父の信雄や信孝、それぞれに味方する大名たちの狭間で、政争の具にされた二歳児の身こそ哀れと思し召せ。


 

 

      *

 


 

 拙者、わし、それがし……などと言っても、この節の人びとにはピンと来ないであろうから、無難に、わたし、いや、自分、と名乗って話を始めようかと思う。


 自分が物心ついたときは、赤の他人に囲まれて、岐阜城に暮らしておった。

 生みの父母も伝説の祖父も記憶にないのだから、格別さびしくもなかった。

 

 ――清須会議。

 

 なるもので秀吉の肩に担ぎ上げられている場面は、のちに聞かされた話によって自分の脳裡に植え付けられたものに過ぎず、実際は片鱗すら覚えていなかった。


 ましてや。

 祖父の命を受けた秀吉によって夫の浅井長政が小谷城で討たれたあと、祖父の妹で当代随一の美貌を謳われたお市の方が、茶々、おはつ、お江の三姉妹とともに、同じ清州城内の一画にひっそり暮らしていようとは、まったく知る由もなかった。

 

 ちなみに。

 秀吉のことだが、万事において抜け目のないきゃつが強欲に分捕ったときどきの位階に応じ、関白さまとか太閤さまとか、自分も一応、口ではそう呼んでおった。

 だが、自分にとっての秀吉はあくまでも祖父の手下、使い勝手のいい猿に過ぎぬゆえ、生涯、肚の中では「秀吉」と呼び捨てにしておった事実を述べておきたい。


 

 話を清須会議にもどそう。

 先主の直系の孫であった自分の立場は、なにも知らないあいだに大人たちの利権争いに利用し尽くされ、事態の推移でもう利用価値がなくなったと判断されると、あとは付け足しの人生と見なされたとは、まことにもって遺憾な話ではないか。


 いや、これは決して自分のひがみや思い過ごしではござらぬ。

 見知らぬ人たちの手から手へ渡って育てられた自分も、やがて、自分という特別な人間が置かれたのっぴきならぬ立場がわかってくるようになり、織田家に関することがらには目や耳を尖らせておったが、周囲の大人たちは存外に鈍感であった。


 ひとり遊びを好み、駄々をこねて困らせるどころか、めったに泣くこともない。 そんな手がかからないみなしごの知性や感性を、見くびっておったのであろう。

 暇さえあれば生前の祖父や父母のうわさ話で、宮仕えの憂さを晴らしておった。


 さも見ていたかのようにおもしろおかしく語られる俗っぽい話を、素知らぬ顔で聞いているしかない口惜しさが、気性の激しい信長さまの血を引くとは信じがたいほどもの静かな若さま、そう評される自分の質を形成していったのかもしれない。


 

 九歳で元服すると、やがて秀吉は自分にも所領を分けてくれた。

 すなわち、大名として仕置き(政治)を行うようになったのだ。

 と言っても、本能寺の変より前に、父は祖父から家督をゆずり受けておった。

 したがって、本来の領地のほんの一部を取りもどしたに過ぎなかったのだが。


 それに、秀吉は、

 

 ――織田秀信。

 

 の名前もくれた。


 申すまでもなく、織田家の通字(とおりじ)は信である。

 本来ならば、秀の字は下に配して信秀とすべきところだ。

 それをあえて上下を反対にした、せずにおられなかった。

 そこに秀吉という男の本音があらわれておるではないか。


 信秀の名はすでに他の武士が名乗っているゆえ、まぎらわしいので。

 それが表向きの理由ではあったが、そんなことは如何様にもなろう。


 ――いまや旧主の上に立つに至った秀吉!


 そのことを、自分への命名を利用して、あまねく知らしめたかったのであろう。

 ことほどさように、秀吉という男の本質は姑息で抜け目のない小心者であった。


 

 

      *

 


 

 ところが。

 歴史の闇に吸いこまれそうな自分に、思いもよらぬ奇跡が待ちかまえておった。

 一人前の武将として認められるようになった自分は、鎧や兜の出陣支度をととのえながら、おのれの内にふつふつと湧き上がってくる強い欲求を感じたのである。


 

 ――傾奇者(かぶきもの)。


 

 斬新な装いで人びとの意表を突いた祖父のように、華やかにかぶいてみたい。

 いままでどこに隠れておったのか、そんな気持ちが抑えがたく盛り上がった。

 そのとき、自分の胸をよぎっていったのは、つぎのような出で立ちであった。



 ――桐の紋を描き出した水色の小袖に、青い花を浮き出させた紫色の袴。

 


 さっそく領下の染め師に丁寧に染めさせると、思いどおりの衣装が仕上がった。

 このころ、祖父の容貌への酷似を囁かれるようになっていた自分は、地味な若者から、艶やかな装束に身を包んだ堂々たる偉丈夫の若殿さまに変容を遂げたのだ。

 

 予想以上の周囲の反応からひそかに自信を深めた自分は、おのれの内にあふれる色彩や模様への思いをつぎつぎに図案に描き、ひとつひとつ丁寧に染めさせた。

 

 出来上がった衣装を身に着けてみると、自分でも陶然とするほどよく似合った。

 荒っぽい浮世をきらい、古きよき時代をなつかしむ武士や侍女どものなかには、


 ――なんとまあ、亡き大殿さまにそっくりでいらっしゃること!


 孫の自分に信長の再来を見て、涙を流しながら伏し拝む者どもまであらわれた。

 猿顔など膝下にも寄せぬ、織田家の貫禄と誇りを自分は隠そうともしなかった。

 

 秀吉に担ぎ出された清須会議よりこの方、古雑巾のごとく打ち捨てられたも同然だった身の生きる意味、喜びを、遅ればせながら自分は衣装に見出したのである。

 

 ――甚三紅、浅蘇芳、韓紅、臙脂、丁字染、朽葉色、琥珀色、紅鷲、弁柄色、葡萄色、金茶、丹色、黄檗色、芥子色、利休鼠、亜麻色、鶯色、若草色、青丹、山葵色、若緑、千歳緑、常盤色、青磁色、木賊色、翡翠色、藍鉄、藍白、勿忘草色、納戸色、浅葱色、縹色、瑠璃色、紺桔梗、菫色、竜胆色、古代紫、茄子紺、胡桃染。

 

 赴きのある伝統色を存分に駆使した華麗な衣装をつぎつぎに図案化していった。

 はじめのうちこそ、戦で手柄をあげられない軟弱な若殿さまの暇つぶしと軽んじておった染め職人どもの目の色も、しだいに真剣な様相を帯びるようになった。


 

 ――意匠図案家・織田信秀。


 

 その名は国内はもとより遠くポルトガルやオランダまで知られるようになった。

 武将として名を挙げるよりも、自分にとって、はるかに価値のあることだった。

 

 さようでござる。

 賢明なる読者諸君は、もうおわかりであろう。

 デザイナーと呼ばれる分野のアーティストの先駆、それがこの織田信秀である。

 滅びる直前の英雄の孫という悲運の星に生まれ、だれひとり頼る人もいない長い孤独に、運命という名の底知れぬ悪意に、いまこそ自分は打ち勝ったのである。


 

 

      *

 


 

 一方、武将としての自分の業績がほとんど知られていないことも事実である。

 十一歳の小田原征伐、十五歳の文禄の役はあまりに年少であったし、秀吉没後の天下分け目の関ヶ原合戦では、どうした番狂わせか、当初は徳川家康の東軍に味方する予定が、ちょっとした行き違いが生じて石田三成の西軍に就くことになった。


 敗戦後に送られた紀州の高野山では、思いもよらぬ仕打ちが待ち受けておった。

 かつて祖父が行った弾圧への遺恨が、孫の自分に向けられることになったのだ。

 容貌が祖父に酷似していたことも、ここではかえって裏目に出ることになった。


 同じく西軍に就いて高野山へ流された真田信繁のように、大坂の陣で武将として返り咲く機会を得ずに祖父や父母のもとに旅立ったことは、無念といえば無念ではあったが、先述のとおり、生来、自分は武事より文事に向いていたのであるから、この国の草創期の意匠図案家としての足跡を残せたことで、大いに満足しておる。                                 【完】


(意匠図案家の先駆のくだりはフィクションであり、作者の願望でもあります)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さんぼうし 上月くるを @kurutan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ