サボってスタジアム

真花

サボってスタジアム

 俺は彼女の言う、一体感、の意味を履き違えていた。

 夏は土曜日、朝から仕事をしているのは俺と渋井さんの二人だけで、それはつまり最初から残業をしているようなものだ。窓から射す光の強さが季節を主張していたけれども、俺は目を逸らして、いや背を向けて見ないように自分の位置を調整していた。希少な夏の一日を、休日の筈の一日を、こんなオフィスに吐き出していることが嫌だから。でもそっち側を向いていたのは渋井さんが視界の端に入るようにしたかったのもある。セクハラにならないギリギリの線で女性を盗み見るのは男性に残された最後の楽しみだけど、本当は線じゃなくてきしめんよりずっと太い帯で区切られていて、その帯の手前に爪先立って覗くか、帯に踏み込んで帯の向こうとの前線、正真正銘のアウトのラインにまで攻めるかはその男性の度胸とリスク管理と何より性欲によって異なる。帯の向こう側に踏み込んで人生を失うのは嫌だ。だから、俺は常に帯の手前までしか近寄らないし、頑張ってもそこから身を乗り出す程度だ。

 セクハラへの接近と恋愛感情はまるで別のものだ。一番の差異は、セクハラは自分本位であり相手は性欲の対象、言ってしまえば肉、命ある物質としてしか見ていないのに対して、恋愛は相手のことを想うことに、相手が人間であることが含まれる。

 俺は隠蔽されたセクハラがしたいのではない。

 そっちではない。

 そう、これはチャンスなのだ。一つの空間に男女が二人きり。彼女は俺の想いなんて知らない。チャンス。チャンスをどう活かすか分からなくて取り敢えず彼女を目の端に入れてみたけど、これは彼女とどうにかなることを期待させるような変化は生んでいない。ただの気持ち悪い座り方をする同僚だ。ショットガン式の視線のセクハラをしていると彼女が捉えてもおかしくない。つまり、自分でピンチを招いてないか?

 俺は席を元の方向に戻す。眩しい。

「ブラインドないと仕事にならん」

 閉めに立ち上がった。

「ねえ」

 後ろから声。跳ね上がる体。

 渋井さんしかいないけど、何故すぐ後ろに? 振り返る。

「びっくりした」

「ごめん。あのさ、サボらない?」

「サボるの? 誰もいないオフィスだよ?」

 言いながら、話が出来たことに俺の心は綻んでいる。きっと顔も。

 渋井さんは人差し指を立てて、ちっちっち、と昭和の探偵のような動きをする。

「サボるの。もちろん終わったら続きをやらなくちゃいけない。でも、一緒にサボろうよ」

「今?」

「今しかない。絶対に今なの」

「どうして俺を?」

 誘われたのは嬉しいけど、ただサボるならどうせ休日出勤、一人ですればいいことだと思う。

「応援は仲間と行った方が、いいからだよ!」

「応援?」

「神宮でデイゲーム。阪神対ヤクルト。もちろん私は阪神応援だから、古味くんも阪神を応援するの」

 プロ野球なんて行ったことがない。阪神、の名前くらいは知っているけど、誰が選手で誰が監督かも知らない。そんなんで応援に行ってもいいのか。渋井さんに訊くと、私がいるから大丈夫、と胸を叩いた。そう言う問題じゃないような気がする。

「応援グッズは現地で調達すればOK、チケットは、ムフフ、もうこの手の中に、あるんだな」

「この状況を予測したの!? どうやって!?」

「ネットで買ってそこのプリンターで出しただけだよ」

「おう、う」

「テレビで見るのと全然違うんだよ。一体感が、あるんだ」


 タクシーを飛ばして神宮球場へまっしぐら。

「古味くんは野球以外では応援行くの?」

「いや、スポーツ観戦は、国際試合とかオリンピックとかをテレビでちょろっと見るくらい」

「じゃあ、今日は処女航海だね」

 どちらかと言うと筆下ろしだ。でも言えない。

「食べたりするの?」

「もちろん。ビールもあるよ」

「仕事が残ってるからなぁ」

「硬いこと言わないの。下戸じゃないんでしょ?」

「まあ、毎日家に帰れば飲むけど」

「じゃあ、私と一緒だ。一杯くらいは乾杯しようよ」

 数時間もすればアルコールなんて飛んでいくから試合開始時に飲んで、抜けた頃に帰る、でいいか。一方的に想いを隠した状態であるせいだ、あらゆることが彼女の主張の通りになっている。

 準備万端で球場の、レフトスタンド、外野自由席に陣取る。まだお客さんはちらほらしかいなくて、球場の中では選手らしき人が練習? をしている。まだ何も始まっていないのに彼女が乾杯しようと言うから、気が早くない? と返したら、今が一番美味しく飲めるタイミングだよ、と笑うので、素人だから先輩の言うことを聞いた。


 飲みながら雑談をしている内に席が殆ど埋まって、試合が始まった。

 阪神の選手が打つときに、歌を歌う。右も左も前も後ろも、全員が声を揃えて、俺はこれが彼女の言う一体感なのだと理解した。全体で一つ。そう言う感覚は悪くはないけど、どっちかと言うとこれは連帯感なんじゃないのかな。でもね渋井さん、歌が歌えない俺はむしろ疎外感を感じるんだよ。君は、めっちゃ歌ってるけど。

 守備のときは割と静かだ。喫煙所に行く人も大体このタイミングらしい。

 その回、阪神はピンチを迎えていた。

 ランナーは二、三塁、一打逆転の窮状に、相手は四番。言わずと知れた強打者だ。

 守備なので歌わない。

 渋井さんも何も言わない。

 でも、今が重要な、恐らく試合を決する局面であることは分かる。

 俺も何も言わない。

 周囲の阪神ファンも、静かに、いや、静まり返っている。

 反対側のスタンドからは強打者を応援する歌。でもそれは遠くて、俺達はスタンド全部で固唾を飲んでピッチャーとバッターの勝負を見守る。

 一球目。

 どうだ。

 ボール。

 ちょっと息を吐く。

 また集中が増す。

 二球目。

 振った!

 ストライク!

 拳を握り締める。

 息をまた詰める。

 三球目。

 振らない。

 ストライク。

 じりじりする。

 ピッチャーがちょっと間を取る。

 四球目。

 振っ

 カーン。

 え。

 打たれた。

 球がこっちに向かってくる。

 どんどん大きくなる。

「あー!」

 叫ぶ。俺、いや、全員が叫んでいる!

 球が来る。

 叫びが大きく、極大に向かう。

 パァン!

 僅かに逸れた白球は渋井さんのグローブの中へ。

 叫びから返った周囲の人々が彼女のファインプレーを讃えて拍手する。

 でも、ヤクルト四番のスリーランホームランである。

 渋井さんは照れながら前後左右に礼をして、俺の横にストンと座った。


 オフィスに二人で戻って、仕事。

 渋井さんにでも一つだけ伝えたくて、彼女のところに向かう。

「あのホームラン。一体感はあの瞬間にあった。それは全体で一つでもなくて、自分が全体に属するのでもないものだった」

「うん。古味くんの感じたのは?」

「叫ぶ俺が、スタンド全員になった。自分の拡張としての一体感。渋井さんが言っていたの、これでしょ?」

「また感じたくなったでしょ?」

「臨場しないと感じ得ないもの、その意味がよく分かったよ。また誘って欲しい」

 もちろん、下心に想いがある。

 多分、彼女はそう言うの全部見抜いているのだ。今日見た何よりも眩しく、彼女は笑う。

「弟子入りだね」

 俺も、笑ってしまった。

 窓の外はもうどっぷり暗くて、そりゃサボった分の時間は進む、でも、それ以上に満たされているから、いい。



(了)

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