最終話:次のどこかへ

 それから。

 幾ばくかの月日が過ぎた。季節ごとに化身が舞い降り、菫は狗狼と共にそれを迎える。山神は変わらず多忙で、昼間のほとんどは祠に居つかない。夕暮れまでの短くない時間を、菫は彼女らそれぞれと楽しんだ。


 山神の妻として、表立った役目は無い。しかし願いに訪れた人間の感情を翻訳したり。獣や木々と、人間の間にある距離を考えたり。そういう意見を求められた。

 その結果、報われなかった者も居ただろう。滅んでしまった村もある。


「東谷は森に呑まれてしまったが、寂しくはないかな?」


 正月を過ぎた、ある冬の日。祠の前に緋毛を敷き、小さな茶会が催された。もてなす側は狗狼と雲、濃梅の襲を纏う菫。客人は、白髪ながら艶やかな老人がたった一人。紫の狩衣が、身分の高さを示している。

 翁の問いに、対面の菫は静かに答えた。そっと胸の真ん中へ、手を翳して。


「南里へ移った人も多いことだし、かたないことです。ここのところに、また一つ穴が空きましたけど」

「それは神の身内になったがゆえの、達観というものかな」


 そう言う割りに寂しそうには見えない、と。翁の言葉には虚飾無く、鋭い。

 しかし決して厭味ではなかった。長く知った者同士の、気安さというものだろう。


「そんな大物になどなってはいません。たった一つ、寄る辺を隣に持っているだけで」


 翳した手を、僅か隣へ動かす。翁の視線は遠慮なく、その位置を見据えた。


「寄る辺とは、その櫛のことかな?」

「あら、失礼しました。いえこれは母の形見ですが、この話とは関係がありません」


 いつも胸元へ忍ばせている櫛が、頭を飛び出している。手に取り、翁に裏表を示す。

 主座の狗狼を盗み見ると、堪え気味に苦笑していた。


「随分と古い物のようだ」

「ええ。母が祖母から、護りの品として受け取ったようです。その意味ではもう、必要ありませんが」


 煮染めたような濃い茶が、石英の艶に光る。

 ただ一ヶ所、丸く削られた跡だけは色が若い。九曜の紋は、いつの間にか失くなっていた。狗狼の目にも、櫛を通した景色は見えないらしい。


「菫どのは強くなったな。いや最初から芯の強さを感じたが、磨きをかけたと言うべきか」

「いいえ。わたしはなにも知らない小娘でしたよ。その為に多くの人へ、迷惑をかけもしました」


 胸に深く、櫛を納める。そうしてまた、真ん中に手を翳す。


「ほう。教えてもらえるのかな、大した持ち合わせも無いが」


 翁は袂を探る素振りをして、なにも持たない空の手を振って見せる。以前は清々しいだけだった微笑みに、おどけた仕草がよく似合う。


「いいえ。わたしが最も迷惑をおかけしたのは、きっとあなたです」

「んん?」


 隣の敷物へ控えていた雲が、わざとらしく声を上げる。意図するところを察して、思わず「ふふっ」と笑ってしまった。


「ああ、ごめんなさい。人間の中では、と訂正しますね」

「なんの。最初に会ったのと変わらぬ、その笑みだけで見返りは十分だ」


 それは翁こそだ。変わらぬどころか、深みを増した。素より素晴らしい人だと思っていたが、ごまかしの利かない実績が背後に透けて見える。


「なにも失わず生きることは出来ません。だから失くさぬよう、いつも懸命で居ること。失くしたなら、それを糧に次のなにかを求めること。埋める術はほかに無い、と教わりました」

「私たちのような凡人は、そういう人物を達観と評するんだよ」


 翁がここまで言ってくれるのは、素直にありがたいと思う。だが現実に、それほどの人間でない。

 菫の後も、祠に生け贄は捧げられた。荒れた時分には、毎年ということもあった。


 その誰ひとりに対しても、満足な言葉をかけてやれなかった。狗狼が道を示し、雲たちが支え、当人が決断する。

 菫はその周りで、あたふたとしていただけだ。


「わたしは今も、怖れて、悲しんで。事の流れに翻弄されています。偉そうに言いましたが、そうなりたいと願望に過ぎません」


 ひとり一人の顔を思い出し、誰か覚えていてくれるかと振り返る。

 狗狼に感謝する娘はほとんどだろう。しかし菫など、居たのかと疑問に思うのが関の山だ。


「それでもだよ。私など、そんな願いを抱くこともなかった。目の前の、足下の、勝手に現れる壁を崩し、穴を塞ぐのにかかりきりだった」

「そんな。海の向こうからの軍勢を相手にするなんて、わたしには無かったことです。しかも二度も」


 じっと合わせ続けた目を、翁は逸らした。どこへ向くかと思えば、正確に都の方角だった。ここからは枝葉が邪魔をして、見通せないというのに。

 ちょうどその方向。祠の敷地の一歩外には、四つの墓が見えた。菫には、それが目印となる。


「ああ、私などがよく勤まったものだ。もしも生まれ変わったとして、帝など二度と御免だ」

「お疲れさまでした。でもわたしは、素晴らしい御代だったと思いますよ。藤姫さまもきっと」


 翁の娘は、名を藤という。いつか菫が名乗ったのと同じに。この正月に代替わりをして、飛鳥で初めての女帝となった。


「菫どのにそう言ってもらえると、報われた気がする。立ち寄った甲斐があるというものだ。願わくば昔のように、ざっくばらんに話したかったが」


 そろそろ行かねばと、翁は立ち上がった。よっこらしょなどとも言わず、矍鑠かくしゃくとしたものだ。

 見上げた天が、澄み渡る。姿こそ見えないが、主上の気配が菫にも感じられた。


「では、これにて」


 軽く足踏みをした翁が、ふわと浮き上がる。苦難によって刻まれた皺が伸び、出会ったころの若々しい姿へと戻っていく。


「じゃあね。またいつか会いましょう、椿彦」


 あっと言う間に、翁は高い天に吸い込まれる。

 意識せずとも、菫の右手はひとりでに上がっていた。静かな心持ちで、大きく、大きく振った。


「いい男だねえ。選び損ねたんじゃないかい?」

「うん。もしも嫁いでいたら、大事にしてもらえた気がする」


 からかうつもりだったのだろうが、雲の言葉を否定する気にはなれなかった。言った当人も「おやまあ」と驚き、狗狼は意味ありげに咳をして黙る。


「たった二人。わたしを好いてくれた人の片方だもの、邪険には出来ないよ」


 くすくすと、笑声を堪えることはしなかった。素早く立ち上がり、嫉妬を隠そうとする夫の前へ向かう。


「妬きもちまで好物とは知らなかったよ?」


 両の腕を広げ、抱っこをせがむ。何年が経とうと、菫は彼に甘えるのが好きだ。


「嘘を吐かん約束だからな」


 不機嫌を装うのは、嘘に入らないだろうか。とは夫の可愛げに免じ、力強い毛むくじゃらの腕に身を任せる。

 抱きしめあったまま、狗狼はぐるぐると回った。


「尻が見えるよ」


 などと、あり得ぬ冗談で雲は冷やかす。

 しかしさすがに、十周近くなると気分が悪くなってきた。見た目に似合わず意地っ張りな狗狼が、やはり愛しい。


「ごめん。ごめんなさい狗狼。わたしが好きなのは、あなただけだから許して」

「知っている。だが許さん」


 回転を止めても、足を地に着けてはもらえなかった。どころかさらに高く、肩車をされる。


「先の話で思い出したが、菫の願いを一つ叶えていなかった」

「え、なに?」

「教えてやらん。これから向かうぞ」

「いいよ、狗狼と一緒なら」


 どこかへ連れ出すつもりらしい。狗狼は狼に姿を変え、菫を背に乗せた。


「雲も来い。でなければ望みを叶えたことにならん」

「祠は良いので?」

「良い、日常とは変わるものだ」


 見送る格好の雲だったが、狗狼が言えば断ることはない。「左様で」とひと言、姿をその名のままの形に転じた。

 冬の空へ浮かぶ雪雲と、菫を乗せた水墨色の狼が天高くへ舞い上がる。向かうは東。菫が椿彦から聞いたのとは逆の、海のある方向へ。



 ― 冬の菫と嘘吐き狼 完結 ―

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冬の菫と嘘吐き狼 須能 雪羽 @yuki_t

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