第48話:奪われた記憶

「これからこの蝋燭の記憶を、あんたに見せようと思う。でもアタシは、見ないことを勧めるよ。どうする?」

「見る。お願い、見せて」


 間髪入れずの返答に、雲は驚いたようだ。だがすぐに「分かった」と、立ち上がって菫の背後へ回る。素早く座り、冷たい空気が首の辺りへ近付いた。

 つ、と。氷の感触が触れる。反対の手は菫の両目を塞ぐ。しとやかな指を眺め、惜しみながら瞼を閉じた。


 視界が闇に沈む。しかしすぐに、明るくなっていった。景色は白。雪に覆われた緩やかな斜面には、見覚えがある。

 御覚山でも、木々の薄い辺りだ。獣は居るが、猟をするのにこちらの身を隠す場所が無い。ほかに幾らでも狩り場はあるのだから、誰も好きこのんで訪れない。


 ――ここで、なにを?

 なぜ居るのか、想像もつかなかった。見ているものを思えば、当たり前だが。

 視界を共有する過去の菫は、しきりに周囲を気にした。誰かに見つからぬよう、忍んでいる風で。

 同時になにか探す様子もあった。離れた藪に目を凝らし、遂に大きな声を上げる。


夜風よるかぜ!」


 お天道さまはまだまだ高く、夜風とはなんのことやら。

 だが正体は、すぐに知れた。藪の奥から、真っ黒な塊が飛び出す。夜に吹く風でなく、夜が風となったように。

 百歩近い距離が、二つか三つを数える間に失われた。全力疾走の馬でさえ勝負にならぬ脚で、夜風は菫に襲いかかる。


 まずはすぐ脇を通り過ぎ、反転して背を擦り付けた。また正面に回り、今度は倒れ込んで体重を預けてくる。

 よく懐いた犬のようにじゃれるのは、その数倍の体格を持つ狼。狗狼よりももっと、黒に近い毛色をしていた。


「隠れて脅かそうとしていたの? 無理だよ、お前のことならお見通しなんだから」

「ウォフッ」


 雪原に倒れ、一人と一頭は絡まり合って転がる。全身を白く汚し、それでも足りず互いに浴びせ合った。


「この間はありがとうね。ええと、四日前だったかな。お前の仲間が通してくれなくて、困ってたの」

「ウォッ」

「都から、お公家さまが来てたの。歳の人は偉そうだったけど、椿彦って若い人は素敵だったよ」


 狩り遊びの四日後。そう聞いて、菫は息を詰まらせそうになった。それは山神の祠へ、生け贄に捧げられた日だ。


 菫と夜風は、仲の良い友であるらしい。逢い引きをした雪原から森の深いほうへ移動し、そこらじゅうを駆け回った。

 すぐに勝負が着いてしまうけれど、追いかけっこをしたり。すぐに見つかってしまうけれど、かくれんぼをしたり。喉が渇けば共に沢へ降り、身体が熱くなれば遠吠岩へ並んで冷ました。


「そろそろ夜になるね。冬になったから、なかなか会えないかもしれないけど。必ずまた来るからね」

「ウゥゥ」


 寂しげにする夜風の額に、くっきりと白い模様が目立つ。斜めへ真っ直ぐに降る、流星のような。狗狼の額と、なんとなく似ていた。


「じゃあ、またね」

「ウゥ」


 最初の雪原へ夜風を残し、菫は東谷への近道を下る。しかしおとなしく座って見送る狼が健気で、振り返ってしまう。十歩進んで振り返り、また十五歩進んで振り返り。何度も、何度も。

 不思議なことに、どれだけ進んでも距離が開かない。とは、なんと言うこともなく、夜風がこっそりと追いかけているのだ。


「駄目。村まで来たら、みんなが怖がるから」

「ウォウウォウ」

「大丈夫じゃないの」


 きつく言いつけても、また狼は後を追おうとする。


 ――じゃあ、下の森へ入るまでね。


「じゃあ、下の森へ入るまでね」

「ウォッ」


 思い出したわけでない。だがなんとなく、そう言う気がした。そしてこの後、木々の濃くなる辺りまで追いかけっこをする。

 自分のことなのに、直感めいた印象なのがむず痒い。喉の奥へなにか引っかかって、いっそ手を突っ込んで取りたいときのように。


「あはは、夜風!」

「ウォォッ!」


 呼びかけに答え、追う狼が吠える。その、次の瞬間だった。

 ドン。と、重苦しい低音が雪原を揺らす。


「ギャンッ!」


 懸命に逃げる菫の後ろで、友の悲鳴が聞こえた。なにごとがあったか、驚いて止まろうにも、粉雪が自由を許さない。

 無理やりに身体を転げさせ、勢いを止めた。ごろごろと三回転。すぐに立ち上がり、後へ戻る。


「夜風……?」


 返事はない。真っ白な中へ、黒い塊が脚を投げ出していた。


「夜風! どうしたの夜風!」

「菫!」


 駆け寄ろうとする菫を、誰かが止めた。叫び声のしたのは、東谷へ下りる別の道。


「母さん?」

「菫、こっちへおいで。狼に近付いちゃいけない、所詮は畜生さ」


 ――これが母さん? わたしの母さん?

 四十前に見える、濃い朱の小袖を着た女性。菫自身が母と呼ぶのだから、そうに違いあるまい。痩せた顔があまり健康的とは言えないが、似ていると思えば似ている。


「なに、してるの。ねえ、なんでそんな物持ってるの」

「その狼はね、あんたの父さんを殺したんだよ」


 母は問いに答えない。震える両手を突き出しながら、至極ゆっくりとこちらへ歩み寄る。

 握られるのは、拳も入りそうなほど太い金属の筒だ。手元に木の肩当てと、弾を撃ち出す為の引き紐がある。


「ええ……? なに言ってるの。父さんは足を滑らせて岩から落ちたって」


 間違いなく聞いた。過去を眺める菫は、たった今もそう認識している。

 けれども母は、歯を食いしばりながら首を横へ振った。


「あんたが山神さまを恨んじゃいけないと思って。村のみんなにも、黙ってもらってたんだ。それが、どうしてこんな……」

「どうしてって、夜風はわたしの友だちだよ。狼だけど、狼だから、危ないことなんかないよ」


 母と娘は、声を詰まらせながら話す。菫の喉が傷付いた夜風を憂うのに対し、母はおそらく違う。

 娘の庇う狼に、憎々しげな視線を向けた。


「ウ、ウウゥゥゥ」

「夜風!」


 夜風が目を覚ました。倒れた身体を素早く起こし、脚をもつれさせて転がる。

 しかしまた、よろめく足を滑らせ、死にものぐるいで立ち上がろうと。辺りの雪が、鮮烈な赤に染まっていった。


「夜風、駄目。怪我をしてるんだから、おとなしくして」

「ウウウッ!」


 駆け寄ろうとした菫に、夜風は牙を剥く。

 母は「いけない!」と叫び、その場へしゃがんだ。雪へ鉄砲を置き、次の弾を篭めようとしている。


「夜風、ごめん。わたしの母さんが、酷いことした。でも、でも……」


 自分はそんなつもりでないと、過去の菫は言いたいのだろう。だがそれは、傷付けられた者に取って、世迷い言だ。

 今の菫には、夜風の気持ちが痛いほど分かる気がした。


「菫、近付くんじゃない。今、とどめを刺すから」

「やめて! 母さんやめて!」


 母は鉄砲を構える。やはり震えてしまうのは、重量のせいか。

 狙いを定め、紐を引くだけで弾が出る。既に瀕死の夜風は、きっともう耐えられない。友を救うにはどうすれば良いか。考える間さえ無く、菫の身体は動いていた。


「あたしの娘を返せ、鬼め!」

「母さん、お願い!」

「ウウッ! ウォウッ!」


 叫び、急激に動く菫に驚いたのか。夜風は激しく威嚇する。しかし構わず駆けた。それを母もまた、「いけない!」と叫ぶ。

 今にも紐の引かれんとする、鉄砲の前へ飛び出した。母の視界から、友を隠す格好で。


「菫、そこをどきなさい!」

「ウガァッ!」

「母さん!」


 三者が同時に叫び、菫の手が鉄砲にかかった。母の手は、紐を引いた。

 ふらふらと、立っているだけでようやくの夜風は跳ぶ。狼が獲物を仕留める、狩人の動きで。


 再び。忌まわしい、あの音が響く。

 ともかく夜風のほうへ向けさせない。菫はきっと、それだけを考えて暴れた。その背に、狼の身体がのしかかる。

 菫はいとも簡単に倒され、鋭い爪に四肢を押さえられた。


「夜風、お前――」


 見下ろした狼は、だらだらと涎を垂らす。目眩をしているのか、焦点の定まらぬ視線で菫の頬を舐めた。

 そうして改めて、母の居る方向へ目を向ける。が、力尽きた。ふうっと、中身を抜かれたように。雪を巻き上げ、夜風は倒れた。


「夜風えっ!」


 声を限りに。喉の張り裂けそうなほど、菫は叫んだ。

 だが分かってしまう。猟師として、数多くの獲物を狩った菫には。友の魂が、生と死の境を越えたと。


「母さん、どうして? わたしの友だちなんだよ、どうして」


 込み上げていた涙も、引いてしまった。菫にも、菫の気持ちが分からない。怒りと悲しみと、信じたくない拒絶もあるだろう。

 混ぜ合わさった感情が、うわ言のように同じ言葉を繰り返さす。


「どうして? 母さん、どうして?」


 雪を握り締め、震える身体が揺り動く。母と対峙する為に。過去の菫は、ゆっくりと立ち上がった。

 けれどもなぜだろう。向かった視界に、母が居るはず。だのに、誰も居ない。


「母さん?」


 薄っすらと舞う雪の靄に、人ひとりが隠れようはずもなかった。しばらく見回し、やっと。雪へ沈んだ母を見つける。


「か、母さん!」


 菫よりも一回り小柄な身体。鉄砲を抱え、夫の仇を討ちに来た女。おそらく娘の危機と見えたのだろう。だというのに、菫は母を責めた。

 その母は顔の半分を真っ赤に染め、息絶えていた。

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