第43話:対面のとき
「……わたし、どこへ行くんだろう」
輿に揺られること、およそ一刻。御簾に透けた景色から目を背け、呟いてみる。
歌会の日取りは聞いても、どこでとは聞いていないのに気が付いた。担ぐ人形に聞けば、教えてくれるだろう。雑談こそしないが、人間と変わらず達者に喋る。
空を歩みでもするのかと思えば、普通に山道を下っていく。行く先の枝がひとりでに避けるのは気のせいとして。
しかし詳しい場所を知ったところで、胸を襲う息苦しさはきっと晴れまい。菫の行き先は、菫自身が決めるしかないのだ。
それはあの祠に捧げられて、狗狼が最初に言った通り。俯きたくなるのを堪え、天を見上げ続けた。
両手を合わせ、間に折り畳んだ短冊を挟む。狗狼の詠んだ、歌の書かれた物だ。
結局、二人に感謝を伝えることは出来なかった。だからやはり、今日という日を成功に終わらせなければならない。
「
やがて輿は止まり、輿立てに据えられる。この歌会では菫でなく、賀茂宮の親戚筋に当たる藤姫と。道中、何度となく呼ばれ、ようやく耳に慣れてきた。
――どうして狗狼は、人形に言わせたんだろう。
菫と藤で、色が似ているということか。狗神とて、完璧ではない。言い忘れただけとは思う。だが、彼から伝えてほしかった。
「ええと、檜扇で顔を隠す。歩くのはゆっくり、きょろきょろしない。なるべく喋らない」
するすると御簾が上げられ、景色が広がる。悩む暇はなくなった。短く刈り揃えられた草原は随分と前から雪を退けていたらしく、湿った様子はない。
顔を隠しながら、踏み台を下りる。容易と思ったが、意外に難しい。よろけそうになるのを、どうにか踏ん張った。
聞いた通り行く先に向け、緋色の布が細く伸びる。草原の最奥に建つ大きな建物の、手前に張られた幕の中へ。
道々の左右には、既にあちこち人の姿があった。緋の布でなく薦を敷いた上に座り、酒や茶を飲んでいるらしい。
――ここを歩くって、もの凄く目立つように思うんだけど。きっと気のせいよね。
と、自らに言い聞かせる。お忍びの東宮と偶然に会う運びと聞いたはずだが、それも気のせいに決まっている。
そうだ、嘘吐きと紹介されたのだった。余計なことを思い出したが、やはり彼が前に立つと、ほうっと安堵の息が出る。
「行くぞ」
声を掛けられ、危うく「うん」と答えそうになった。喉を引き締め、頷いて答える。
ゆっくりと、足を出しては揃え。檜扇越しに生の色の幕を睨み付けた。進むのに合わせ、誰かが後退させているかと思うほど近付かない。
一斉にこちらを向く人々の顔が、視界の端へ映り込む。
なんと朗らかな衣だ。
扇を持つ指も、あれほどきめ細やかなのは見たことがない。
好き勝手な批評が、耳へ注がれる。褒め言葉ばかりなのが、こそばゆくて気持ち悪い。
「顔を隠す。ゆっくり。喋らない。隠す。ゆっくり。喋らない」
まじないのように、ぼそぼそと繰り返す。足を動かすことに意識を向けすぎ、どちらが前に出ているか分からなくなりそうだ。
「隠す。ゆっくり。喋らない――」
「やあ、お美しい。どちらの姫君やら」
十歩ほど先から、聞き覚えのある声がした。僅かに檜扇をずらし、人相をたしかめる。思った通り、南里の乙名だ。
ここがどこだか分からぬものの、進んだ距離と方向で見当は付けられる。おそらく南里から東谷へ少し戻った辺り。
ならば近隣の民が幾らか居ても、不思議はあるまい。
――でも、乙名が居るってことは……。
思わず周囲に視線を走らせ、後悔した。まさに乙名へ声を掛けようとする、東谷の纏め役を見つけてしまった。
「これは南里の。先日は大変な迷惑をおかけした」
「なんのなんの。それよりも、あれから加減はいかがでしょう」
「いや、もう全く。飯を口に運んでも食わぬような有り様で。本当に生きておるのやら疑わしいほどですわ……」
誰か村の者が、重い病でも患っているらしい。気にはなったが、もう戻ること叶わぬ身だ。歯を食いしばり、聞かぬふりを貫いた。
「原因の見当もつかぬでは、難儀をしますなあ」
――もうやめて。声を聞かせないで。
乙名が言ったのを最後に、二人の声は幕の向こうへ遠ざかった。
「さて、我はここまでだ」
幕の内側は、貴族だけに許された空間らしい。緋の布の左右が細かく幕で仕切られ、少ない人数で対面出来るようにされていた。
どこを向いても狩衣や女房装束ばかりで、外とは明らかに身分が違う。
「えっ、ここまでってどういうこと?」
ほんの二十歩も進んだところで、狗狼が振り向いた。問い返しはしたものの、東宮と会うのは一人でと察した。
「東宮は、最も奥の幕に居る。
やはりお忍びとは嘘でないらしく、東宮の名が漏れぬように声が潜められた。おまけに腰を屈め、菫の耳元へ狗狼の口がある。
ぞわぞわと、背すじが震えた。が、これは嫌だと感じない。
「うん、頑張る」
「……ああ」
見送ってくれる狗狼の声は、小さく窄んだ。東宮とさえ口にしなければ、そんな必要はないだろうに。
――ううん。貴族って、きっとそういうものなんだ。
菫は再び、まじないを唱えて歩く。独りとは、なるべく考えぬように。
言われた幕の前には、三十前と見える男が立っていた。何気ない風に見せて、近寄る菫から一瞬も視線を外さない。
「あ、あの。賀茂宮さまの――」
「賜っております。どうぞ中へ」
喉が絡み、はっきりと言えなかった。男は気にした様子を見せず、幕の裾を取って捲った。
「藤姫さまのお越しでございます」
すぐそこへ届くくらいの声で、菫の来訪が伝えられた。答えは誰からも無かったが、男は動じない。そういうものなのだろう。
入った中へ、また幕が目隠しに張られている。敷かれた布に従い、脇を進む。輿からもまあまあの距離があると思ったが、倍も歩かされた気がした。
けれどもとうとう、対面の場へ辿り着いたようだ。十歩ほどの広さに、四角く囲われた空間。地面には隙間なく緋が敷かれ、中央には
その向こう。梔子色の狩衣を着た、若人が座る。帝の子という立場から、相当の偉丈夫を想像したが少し違った。
「藤でございます」
「うむ、お初にお目にかかる。まずはこちらへ」
立ち上がれば、すらと背は高かろう。対して線は細いように思える。どうしても狗狼と比較するせいかもしれないが。
しかしそんなことより、気がかりがあった。檜扇越しに聞いた声に、覚えがある。
好奇心に勝てず、そっと視線を通してみた。するとやはり、東宮と会うべき場所へ居たのは、記憶に違わぬ人物だった。
「ええと椿彦、なの?」
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