望郷のウィオラ

長谷川ルイ

第1話

 仕事を終え、池田は九時過ぎに自宅に戻った。妻の和子の姿がない。そういえば出がけに町内の婦人会があるとか言っていたのを思い出す。帰ってくるのは十時頃、それを待っていてもいいのだが、結局は自分で食事の用意をする。肉ジャガを皿に盛り、電子レンジにかける。冷蔵庫から発泡酒を取り出し、ダイニングのテーブルに腰掛けると、プルトップを開けて缶のまま喉に流し込んだ。こんなに上手い酒は久しぶりだった。仕事の後、家で、しかも一人で飲んでいるからだ、と池田はしみじみと思った。深く息を吐く。大手電機メーカーの工場で工場長をしている池田も、家に帰れば妻にこき使われるただの中年だ。妻のいない時間が、池田にとっては唯一の安息だった。


 一続きになっているリビングのテレビをつける。ニュース番組にチャンネルを合わせ、リモコンをテーブルに戻す。ちょうど何かのインタビュー映像が終わり、スタジオに切り替わったところだった。

「次のニュースです」テレビのアナウンサーが、引き締まった表情でこちらに視線を向けた。「奥多摩湖の水位が異常に低下している問題で、地元の多摩地方気象台が本日午後会見を開きました」


 映像はそこで会見の模様に替わり、「過去三ヶ月間の降水量は平年並みであることから、地殻変動の可能性も視野に、引き続き調査を進めていきます」と作業服を着た気象台の職員の説明が流れ、続いて湖の様子が映し出される。映像を見る限り、確かに水位が低そうだ。


 池田は休日になると、ウォーキングがてら奥多摩湖外周をぶらぶらとしていたが、そういえば対岸の崖は普段見えない黄土色の土砂を露出させていた。災害の前触れかもしれない。普段と様子が違うと恐れるのは人の常だ。専門家がわからないことを一般人がとやかく言っても始まらないが、ともかく、しばらくはニュースを注意深く見ていく必要がありそうだ。


 電子レンジのベルが鳴る。池田は考えるのを中断し、鍋つかみを右手にはめて皿を取り出す。湯気が上がっていかにも美味しそうだ。端を取り、再びダイニングにつく。テレビでは、すでに奥多摩湖の話題は終わり、最近見つかった珍しい植物の特集をやっていた。最後に紹介されたのは東京都心で発見された新種の植物だそうで、あんなビルばかりの場所でも自然が残っていて、まだまだ新しい発見があるのだと感心した。これは明日の朝礼で話すネタになりそうだ、と池田は考えていた。


 そうやってニュースを観ながら、二本目の発泡酒に手をかけた時、細かな振動を足元に感じた。池田がおやっと缶をテーブルに置いた途端、激しい横揺れが池田の体を翻弄した。咄嗟にテーブルの端を掴み、視線を彷徨わせる。戸棚から皿やカップが幾つか転げ落ちる。テレビも前後に揺れ、今にも台から落ちそうだった。地震には慣れているつもりでいたが、一人でいる時に出くわすと面食らう。揺れが収まるまで、池田はその姿勢を崩すことができなかった。


 振動は徐々に緩慢になり、やがて消えた。部屋のカーテンや壁にかかったカレンダーがゆらゆらと余韻を残していた。池田は戸棚の下に散らばった食器の残骸を見てため息を漏らす。妻が帰ってくるまでに片付けておかないと、また何を言われるか分からない。箒と塵取りを持ってこようと立ち上がった時、不意に明かりが消えた。途端にダイニングは真っ暗になる。停電とは珍しい。やれやれ、と思った。残業明けに地震と停電とは踏んだり蹴ったりだ。


 池田は手探りでキッチンに入り、非常用の懐中電灯を弄る。普段から防災意識の強い妻は、冷蔵庫の脇、床面に近いところにあるコンセントに小型の懐中電灯を常に接続していた。センサーが付いていて、普段も暗くなるとわずかに光を発して、池田が夜中に冷蔵庫をこっそりと漁るのを助けてくれる。常に充電されているから、非常時に電池切れになることもない。やりすぎだと揶揄していたが、それもこれから先は言えない。


 懐中電灯をつけ、ブレーカーの扉を開ける。漏電もしていないし、ブレーカーが落ちたわけでもない。

 玄関の扉を開けて庭を抜け、通りに出る。街灯の明かりも消えている。やはり停電だ。向かいの家も状況は同じらしく、玄関から住人の金子が顔を覗かせている。

「停電ですね」金子は池田に気づくとそう言った。金子も同じ町内会で、池田と同じように一人妻の帰りを待っている口だろう。

「そうみたいですね」池田は話を合わせる。妻同士は仲がいいようだが、金子とはどうも馬が合わなかった。揺れはそこそこだったが、避難するほどではないし、しばらくすれば明かりもつくだろう。妻に電話をして、あとは家で待っていればいい。


 池田は金子に会釈をして踵を返した。

 門扉に手をかけた時、再び足元が揺れた。先ほどよりもかなり大きな衝撃が体を貫く。突き上げるような振動に、思わず池田は尻餅をついた。揺れに翻弄され、目に入る光景が上下左右に分断される。家の石垣が軋み、耐え切れず崩壊した。家の中からも何かが倒れるような音が断続的に響いてくる。


 胸の奥から恐怖心が迫り上がってくる。普段なら揺れが収まる頃合いだろうが、揺れは収まるどころか勢いを増しているように思えた。池田の座る道路のアスファルトが不気味な音を立てて裂けた。ひゅんひゅんと何かが空気を揺らしている。電線が引き延ばされる音だろうか。心臓がきゅうっと縮み、呼吸もままならない。電柱が傾き始める。地響きが轟く。その轟音に混ざって、まるで獣が叫んでいるような、何とも恐ろしく、それでいて悲痛な叫び声が聞こえた気がした。




「引き続き、昨晩の地震に関する情報です。東京都多摩地方については、多くの集落が消滅または崩壊するほどの被害となっており、死傷者の数は今後更に増える見込みです。芹沢官房長官は、今朝の緊急閣議後の記者会見において、東京都多摩地方に災害緊急事態を宣言するとともに、東京都からの要請に基づき自衛隊に対して災害派遣を指示した、と発表しました。


 今回の地震の規模やメカニズムについて、気象庁は現在も不明とし、最大震度も明らかにしておりません。被害が奥多摩郡西明野町中央の奥多摩湖東方を中心とする半径五キロ圏内に集中していることから、ごく浅い場所で激しい地殻変動が起こったとの見解を示していますが、詳細については調査中との言葉を繰り返すばかりです。新しい情報が入り次第、随時お伝えしていきます。続いて、被害にあわれた方の——」

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