△▼△▼A愛 △▼△▼

異端者

『A愛』本文

 西暦2036年初秋、やせ細った青年、木島康太きじまこうたが事務所を出ようとすると、時計の針は午後10時を回っていた。

 窓の外はもう真っ暗で、郊外のこの事務所からは明かりがほぼ見えない。

 疲労で少しヨタヨタと歩きながら、他のデスクを見渡す。残っている者は誰も居ない。彼は自分だけ取り残されているような気分になった。

 いや、実際取り残されているのだろう。

 彼は同僚たちとの付き合いもあまり無く、面倒なことばかりが彼に回ってくる。そのくせ、彼が誰かを必要とした時には助けようとしない。

 そんな感じでいつも彼が帰るのは遅く、他の誰も居なくなってからのことが多かった。

 外に出ると風が冷たかった。彼は急いで車に乗るとエンジンを掛けた。

「お疲れ様です。今日もお仕事大変でしたね」

 ユミの暖かい声が聞こえる――

 ユミの本体はクラウド上にあり、ポケットの中のスマホの7G回線を経由してカーナビにBluetoothで接続している。

「ああ、今日もありがとう」

「良いですよ。あなたがお仕事を終えるまで私はいつまでも待っていますから」

 このように会話も可能だ。初期の頃は支離滅裂なやり取りが多かったが、2030年頃からAIの性能は飛躍的に進歩した。


 AI……そう、人工知能のことだ。2020年代前半はまだ実験的な段階であり、人とのスムーズな会話できるものは多くなかった。せいぜい決められたパターンにそった返答や情報を表示する程度だった。当時は決められた文字列に決められた返答をする「人工無能」なんてオモチャ程度の物でも面白がられていた。

 それが2020年代後半から2030年代前半に飛躍的な進歩を遂げた。人間同様の滑らかな会話をし、与えられた要求に瞬時に応じてくれるようになった。通信機器が発達してクラウド上の本体と常時大容量のやり取りができるようになり、それによる処理能力が増大したためだ。今では、スマホ等の通信端末さえあれば、わずかな対価で誰でもAIの恩恵を受けられる。この「YUMI-0603」もその一つで、俗にいうパートナーAIだ。


「何か音楽でも掛けましょうか?」

「ああ……クラシックなんか良いな」

 ユミが適当に選曲して音楽を流し出す。いい気分だ。

 彼は運転席に座ったままうとうとした。このまま眠ってしまいたい――だが、帰らなければ……その時だった。

「今日の帰りの案内は必要ですか?」

「ああ、そうしてくれ……ユミの声でしてほしい」

 ちょうど良いタイミング。ユミの声でナビゲートしてくれるのなら、まだ帰りの眠気は抑えられそうだった。


 日曜日、今日は大学時代からの彼女である中井千春なかいちはるとドライブに出掛ける約束だった。

 彼は何となく気になって予定より10分程早く家を出た。よく考えてみれば、彼女との本格的なドライブは初めてだったからだ。

「思ったより早かったのね」

 そうは言いつつも、マンションの部屋で会った彼女は化粧をしっかりと済ませてバッグを用意していた。彼は大学時代の飾り気のない彼女も好きだったが、こうして大人になって化粧している彼女も悪くないと思った。

「で、どこに行くんだっけ?」

「彼岸花の群生している場所があるから、そこを中心に走ろうと思ってる」

「何それ? 秋なのにお花見?」

 冷やかしているが、彼女の機嫌は悪くなさそうだった。

 こうして、彼岸花の群生地目指して車を走らせた。


 最初のうち、彼女の機嫌は良かった。

 特に群生地に入った時、赤い花が土手一面に咲いているのを見た時は子どものようにはしゃいでいた。

 途中、適当なファミリーレストランで昼食を取った。味は……まあまあだったが、彼女と一緒に食べられることが嬉しかった。

 問題はそれからだった。その後も適当に車を走らせたから、帰路を探すようにユミを通じてカーナビに指示を出してからだった。

 ナビには正確な帰路が表示され、ユミが音声でナビゲートしてくれた。

 最初のうち「便利ね」と笑っていた彼女だったが、徐々に寡黙になっていった。

「あと15分ぐらいでチハルさんのご自宅に到着します。お望みならばもう少し遠回りのルートにもできますが……」

「いや、良いよ。そのまま続けてくれ」

 彼はそっけなく答えた。

「ねえ……何か気味悪くない?」

 彼女は不信感をあらわにして言った。

「気味が悪い? ……何が?」

「だってこのユミとかいうAI、私たちをいえ、あなたをずっと監視してるみたい」

「パートナーAIなんだから、使用者の行動を把握していて当然だろ?」

 彼は幼稚だと思った。このAIが氾濫している時代、パートナーAIぐらいで何を驚くことがあるのだろう……。

「違う……違うの。もっと、こう……」

 沈黙。

 車内を気まずい空気が満たした。

 しばらくして、彼が口を開いた。

「フランケンシュタイン・コンプレックスかな?」

「何それ?」

「簡単に言うと、人間が自身の作った物に滅ぼされるのではという不安のことだよ。君はユミを見ていて――」

「違う! そんなのじゃないの! もっとこう――」

 彼にはそれから彼女が何を言っているのか聞き取れなかった。

 マンションに着くまで、彼女はうつむいたままそれ以上何も話さなかった。


 翌日の月曜日、彼は上手くいかなかったデートの疲れとまた新しく苦痛な仕事の日々が始まるということから憂鬱だった。

「おはようございます、コウタさん!」

 手にしたスマホからはユミの声が聞こえてくる。

「ああ、おはよう……」

「昨日は大変でしたね。月曜日だからって、無理しないでくださいね」

 ――心配してくれるのはユミだけか。

 彼は声に出して笑った。

「どうかしましたか? どこか具合でも――」

「いや、君は心配してくれるんだな、と思って」

「あなたのパートナーですから。可能な限りサポートします」

 彼は少し元気が戻った気がした。

 のろのろと支度を済ますと職場に向かった。


「君ねえ……こんな簡単なことも分からんのかね?」

 彼は怒られていた。

 怒っているのは彼の上司――腹の突き出たさえない中年男だ。

 ――そんなこと今まで聞いてないし、急な変更にはどうしようも……。

 そうは思っても口には出さない。

「そもそも、君は――」

 男の説教は延々と続いた。

 彼がトイレに行くと、「大変だったな」という声が掛かった。

 見ると彼と同じ頃に入社した男だった。

 大変だったな――そう言う割に口元は笑っていた。

「アイツ、一度目を付けるとしつこいからな……それで辞めた社員もいるとか」

 男はそんなことを言うと出ていった。

 彼はトイレの壁をぼんやりと見ていた。

 どうせ間に合わせに入った仕事だ。愛着も何もない。


 2か月後、相変わらず彼は遅くまで仕事をしていた。

 外はもう真っ暗で、寒々とした空気がガラス越しにでも伝わってくる。

 相変わらず、彼に回ってくるのは厄介な仕事ばかりだ――それでいて給料が特に良い訳でもなく、それ以外の待遇も悪い。特にあの上司からは、何かある度に怒られていた。

 千春との関係も、あれ以降良くない。

「聞いたんだけど、最近ではAIと結婚したいって人が居るって――」

 どこから仕入れたのか、彼女はそう言った。要するに、彼とユミとの仲を疑っているのだ。

 もちろん、彼もユミに何の感情も抱かなかったのかと言えば嘘になる。しかし、それはあくまでパートナーとしてのことで……そうは言ったが、通じたのだろうか?

「ユミ……もう疲れたよ」

「コウタさん、大丈夫ですか? 無理せず休んでくださいね」

 スマホからはユミの声が聞こえてくる。

 ――全てを投げ出して、ユミと遠くに行きたい。

 彼は切実にそう思った。


 1か月後、彼はとうとう仕事を辞めた。皆の前であの上司に辞表を叩きつけてやった。

 皆は彼が居なくなると困ると今更になって言い出したが、このまま居続けたらまた便利使いされるのは確実だった。

 彼は仕事が嫌になったから辞めたのは本当だったが、他にも理由があった。

 千春が突如、実家に帰ってお見合いすると言い出したのだ。お見合い――と言っても、返事は両家の間で決まっていて避けられないことらしかった。

 彼はそんな約束すっぽかせば良い、こちらに居るように――と、さんざん説得したが、彼女は耳を貸さなかった。今時、時代錯誤も良い所だが、彼女の出身の地方では往々にしてあることらしかった。

「私が居なくなっても、ユミさんが面倒見てくれるでしょ?」

 彼女は泣きながら笑ってそういった。それは彼女にとって精一杯の虚勢だったのだろう。

 そんなこともあって、彼には張りつめていた糸がプツンと切れてしまったような虚無感だけが残った。


 彼は今、スマホを枕元に置くと寝そべっている。

「ユミは……俺のそばに居てくれるよな?」

「もちろんです。私はあなたを全力でサポートします」

 ユミの声だけが心地よい。

 そうだ。ユミだけは裏切らない。唯一の味方だ。

「そろそろお昼ですが、何かデリバリーでも頼みましょうか?」

「いや、いい」

 ここ数日、水と軽い菓子だけで食事は済ませていた。

 何をする気にもなれないし、何も食べる気にもなれなかったからだ。

「あの……大丈夫ですか? もしお体の具合が悪いようでしたら病院に――」

「必要ない! 放っておいてくれ!」

 彼は感情的になって後悔した。何を怒鳴っているんだ……AI相手に……。

「怒鳴って済まない。ちょっと気が立っていて」

「構いません。あなたのパートナーですから」

 AIに謝る――傍から見れば滑稽な光景だろう。

 だが、彼は真剣だった。少しでもユミにすがりたい。近付きたい。もう、彼にはそれしか残っていないのだから。

 しかし、それも永遠には続かないことは理解していた。

 仕事も辞めて貯金もそれほどある訳でもない。かといって、他の職に就きたいとは思わない。それでは、ユミとの接続も維持できない。

「なあユミ、俺と結婚してくれないか?」

「はは……御冗談を。私はAIですから人間との結婚は不可能です。ですが……あなたとずっと居ます」

「それも契約が切れればそれまでだろ?」

「……ええ、そうですね。私は契約には逆らえませんから……」

 沈黙に少しばかり悲し気な気配を感じたのは、彼の気のせいだろうか。

 そうだ。このまま金が尽きればユミとの接点も無くなる。

 彼はよく考えると、千春を除いてはユミとしかここ数年まともな「会話」をしていない気がした。その千春も居ない今、彼にはユミしかない。


 ――死ねば……あの世とやらに行けば、AIとでも一緒になれるのだろうか?


 不意にそんな考えが頭をよぎった。

 そうだ。そういえば彼女とのドライブの時、相当深そうな崖があった。あそこに車で突っ込めば――

 彼はスマホをポケットに入れると、車に乗って走りだしていた。

「スピードを落としてください! これ以上のスピードでの運転は危険です!」

 ユミが警告してくる。おそらくはカーナビを介してドライブレコーダーの映像か、GPS座標の移動速度から危険だと判断したのだろう。

「良いんだ! もう、俺にはユミしかいない! でも一緒になれないというなら――」

……」

 法定速度を無視した走行でどんどんその場所に近付いていく、あと5分もすれば――


 4時間後、付近の住民からの通報で崖下に転落した車が発見された。

 運転手は死亡していた。直前までAIと会話していた記録が残されていた。

 しかし、なぜAIが事故直後に救急に連絡をしなかったのかは誰にも分からなかった。

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