花の夢、咲くころ④

 お祖父ちゃんの華やかなお誕生日会がお開きになり、三代目耀平さん一家は、帰りのタクシーで一の坂川で降ろしてもらい、そこから歩いて帰る。

 もうすぐ『ほたる祭り』。川沿いには少しずつ、美しい翡翠の玉のような光が飛び始めていた。


「わあ、ほたる。もう飛んでいるね」


 家族四人で歩いていると、娘の千花が子供らしくほたるを追いかけ始めた。

 カナも、夫と航と一緒に、その美しい玉の光を目で追い見つめる。


 古い石橋を渡るときに、カナはそこで立ち止まる。

 一の坂川は緑と優しいせせらぎに包まれている。橋からむこうまでを見渡すと、翡翠の光がすうっと幾つも飛び交っていた。


「古くて小さな川だけれど、やっぱりこのままでいいわね、ここは」

「そうだな。変わらなくてもいいものはある。この街にはそうして敢えて変えなかったものがたくさんあるな。変えていたらこの蛍もいなくなっていただろう」


 隣に寄り添ってくれた夫が一緒にその光を見つめてくれる。

 そして夫の隣に並んだ航も。


「ちょっと感傷的かもしれないけれど。蛍って、亡くなった人の化身とかいうだろ。いるのかな、ここに」


 航が言いたいことがなにかわかったカナも耀平も驚き、言葉を失っていた。


 それでも航はやめなかった。


「いまさら、来られてもね。父さんとカナちゃんに謝って欲しい」

「いや、航――それは、」

 

 耀平が育ててきた父親として、その気持ちをなだめようと言葉を挟もうとしたのだが。


「わかってる。お母さんは俺を死ぬまで愛して育ててくれていたし、金子の父は倉重のために死んだってね。だから、なんだよ。父さんがどれだけ傷ついて、カナちゃんが秘密を背負って苦しんで、俺と父さんが倉重の家にいられるようにと、ひとりで出て行っちゃったり、父さんと破局することになって――。その間、子供だった俺の揺れる気持ちは、普通の子供が味わわなくていいものでもあった」


 カナも言葉を挟もうとした。そんな勝手に死んでいった両親を憎んで、航は大学生時代の一時、山中湖へと飛び出していったのだ。

 そんな憎む気持ちでこれからも生きて欲しくない。そうカナはいまでも願っている。


 でも。そんな耀平とカナの心配は杞憂で終わる。


「だからこそ。俺は、傷つきながらも俺を守ってくれたふたりのこと、耀平父さんと花南お母さんのことを、俺の本当の両親だと思っているよ。特に父さん。ありがとう」


 義兄の目に、涙が光ったのを花南は見てしまった。

 そしてそんな義兄がそっと顔を背けて、父親として涙は見せまいと意地を張ったのもわかった。


「これからも、そんな父さんと母さんのために、無駄な憎しみで時間を費やしたりしない。はやく倉重を支える跡取りになるよ。父さんと母さんと千花を守れるようにいきていく」


 それが航が選んだ『いきていく』なんだと、花南も知る。


 大人たちが橋の上に立ち止まったまま、しんみりとして様子がおかしいことに気がついた千花が、ほたるを追いかけるのをやめて戻って来た。


「どうしたの? ……お父さん? 泣いているの」


 娘にも泣いた顔は見せたくないようで、夫の耀平が懸命に顔を伏せているのに、娘が訝しそうに何度も下から覗き込むので困っているようだった。


「千花、お母さんと手を繋いで。お父さんとも」

「え? なんで……」

「いいから、いいから」


 着物姿のままのカナは娘の柔らかい手をとって握る。娘も訝しみながら、お父さんの手を握った。


「お父さんと千花とカナちゃんは、血で繋がっています」


 変なことを言い出したカナに、航も夫もきょとんとした顔になる。耀平も涙が止まってしまったようだった。

 そしてカナは、そばにいる航の手を取って、しっかりと握りしめる。


「千花とカナちゃんと航も血が繋がっています」


 耀平、千花、カナ、航の順で手を繋いでいた。

 まだなにも知らない千花が不思議そうに、カナを見上げて尋ねてくる。


「お父さんとお兄ちゃんもだよね。そこ、手を繋いで」


 娘はまだ知らないから。お父さんとお兄ちゃんが手を繋いで、わたしたちは血の繋がった家族としてそこは仕上げだと思ったのだろう。


 なのに。子供の目の前だから、そうすればいいのに。

 耀平も航も、手を差し伸べたものの。躊躇っていた。


 嘘がつけないのだ。カナもわかっている。

 千花のためにつけばいい嘘なのに。

 そう、星の数ほどついてきた嘘のはじまりになるのだ。


 それでも、男二人の指先が近づいていく。

 繋ぐのかな。それが貴方たちの答えなの? カナはそっと見守る。


 すると。手を繋ごうとした男ふたりの指先と指先の間に、ほたるがすうっとすり抜けていった。


 そこで男二人がハッとした顔になり、繋がりそうだった指先と指先が離れていく。


 耀平から、航に向かって微笑んだ。


「負けないぞ。父親だからな。そうそうに全ては譲るものか。ガラス工房もへたな経営をしたらすぐに返してもらう。必死に守ってきた俺の俺だけの会社だったんだからな」


 航も耀平にむかって、眼鏡の顔でにやっと笑った。


「俺、やりたいことがあるから見てろよ。父さんがやらなかったことで職人を守っていくからな。ホテルを守っていくからな。倉重の家もだ」


 そこで、父と息子が息が合ったように、手と手を掲げた。

 手を繋ぐのではない。ふたりが若い父と小さな子供だったときからやってきたハイタッチだった。

 最後は男二人で笑って、肩と肩を組んだ。


「もう、なんで手を繋がないの。それでわたしたち家族の輪ができあがるところだったのに。男の人ってわかんない」


 千花のませた言葉に、また大人三人面食らって、でも次には笑い出していた。


「いいんだよ。千花。父さんと兄ちゃんは男同士。手は繋がない」

「そうそう。それが男同士ってもんなんだよ。千花」

「やっぱりわかんない。へんっ!」


 偽るように手を繋がない。それなら手を繋がなくても、繋がる方法はいくらでもある。

 それが、この父子の答えだとカナは思った。


 夫と息子のまわりに、ほたるがすいすいと飛び交っている。


 カナは思う。やっぱり、そこにいるのではないかと。

 今日はあなたたちの息子が、あなたたちが願ったように、倉重の男として歩み出した日だもの。



✿ ✿ ✿



 その夜――。

 いつものベッドルームで、夫の耀平は疲れたのか早々に眠りについていた。

 カナも着物を着たうえに、母親としての緊張、そして様々な人に会ったり、懐かしいことをたくさん思い出して疲れてしまった。

 夫と一緒にすぐに微睡んだ――。


 だが、それは一時。


 カナは深夜にふっと目を覚ました。

 心から湧き上がってくるものがある。

 わかる。あれが来ている。


 若いときは隣にいる夫と愛しあって、余計なものをそぎ落とすことも多かった。


 でも今日は違う。

 カナはひとりひっそり起き上がり、いつも工房で着ているシンプルな普段着に着替える。


 そのまま初夏の夜空の下、外へと出た。

 カリヨンの鐘も鳴らない、静かな静かな古都の真夜中。カナは家を離れ、一の坂川へ向かっている。



 家族四人で歩いて帰った道を、逆戻りするようにしてカナは川沿いを歩く。

 手を繋いだ古い石橋に辿り着く。人気のない深夜の川沿い、そこはさらに無数のホタルが飛び交っていた。


「姉さん、忍お兄さん」


 そこに立って、カナはもう泣いていた。

 今夜、カナがそぎ落とすのは、この涙だった。


 ほたるが飛ぶ数だけ、花南の中にいままでのことが浮かび上がる。

 秘密が運んできた哀しみも怒りも喜びも……。


 ほたるの数ほどに、たくさんのことが通り過ぎていった。

 もうお終い。あなたたちの秘密はもう終わったの。

 残っている秘密はわたしと耀平さんが守っていく。

 航は、わたしと耀平義兄さんと生きてきた息子なの。

 血じゃないの。長い長い歳月なの。わたしたちだけの濃密な歳月なの。

 それが、義兄と航とわたしの、『血』。


「花南」


 その声に驚き、カナは深夜の川沿いで振り返る。

 そこにワイシャツとスラックス姿の耀平がいた。


「兄さん、どうして」

「着替えている時に俺も目が覚めた。工房へ行くのかと思ったら、家を出て離れていったので慌てて追いかけてきた」


 そんな義兄が、優しく微笑みカナを見つめている。


「そんな予感がしていたんだ。おまえ、明日、ガラスを吹くんだろ」


 なにもかも。なにもかもわかってくれていて、そうあなたは、いつもわたしをわたしのままにして素知らぬ顔。

 カナはさらに涙を流した。


「うん。だから、泣かせて。ここで」

「そばに、いてもいいか」


 カナも頷く。

 カナの削ぎ落としの時間に、一緒に寄り添ってくれる。


「いつか、言ったわよね。姉さんをガラスにすると」

「言ったな。千花がお腹にいるとわかったころだったか……」

「ちっともできなかった。だよね、わだかまり、いっぱいあったもの」


 涙が止まってきた花南を、耀平がそっと抱き寄せてくれる。

 その胸元に花南も躊躇わずに頬を寄せ、寄りかかった。


「もう、ないよ。なにもない」

「俺もだ。なにもない。あるのは、花南と航と千花だ」


 おなじだったこの人も。

 夫と一緒に花南は、ほたるの光のなか、静かな古都の夜空の下で、そっと削ぎ落とし、それまでを手放した。




✿ ✿ ✿



 翌朝。工場用の職人エプロンの紐をきっちりと結び、カナは炎に向かう。



 工房へ行くと、既に夫の耀平とヒロ、そして新社長になった航の三人が向き合って話しているところだった。

 今日からカナが創作をすることを相談しているのだろう。


 そしてカナは待っている。その人が来るのを――。


 工房の始業時間が過ぎてしばらく、その人が緑の匂いがする風とともに現れた。


「昨夜はお疲れ様でした」

「お邪魔いたしますー」


 芹沢親方と勝俣先輩だった。

 山口に来たついでに、航が引き継いだガラス工房にも挨拶にくる予定だったのだ。

 ふたりはそれを終えたら、新幹線で山中湖まで帰るので、既に旅支度で来ている。


 それでも、カナは親方の目の前へと向かう。


「おはようございます。芹沢親方」

「おう……」


 気がついた。師匠はカナの顔が、いつかの顔とおなじだとすぐに気がついた顔をした。


「お願いがあります。わたしの、相棒をしてくれませんか」


 気がついただろうに。それでも芹沢親方が驚いた顔をする。

 勝俣先輩も唖然としていた。

 なのに、親方はすぐに笑ってくれたのだ。


「おう。いいぞ。いまからなのか」

「はい。図案から見てください」


 その親方が工房の奥へと目線を馳せ、誰かを探していた。

 その向こうで控えていた作務衣姿のヒロと、一緒にいる夫と航も、揃って頭を下げている。

 カナの創作につきあってください――という心積もりを、管理する親方と経営する社長たちは整えてくれたようだった。


「あとのことは、徳永と夫と、航……いえ、新社長が整えてくれます。お帰りのところ申し訳ありません……。もうしばらく滞在、大丈夫でしょうか」

「心配するな。いましかないだろ。勝俣いいな。俺はここに残る」

「え、先に帰れということですか。嫌ですよ。カナと親方が初めて組むんですよ。俺、見たいですから」


 夫とヒロのところで、そこから後はどうするか勝俣先輩が話し合ってくれることになった。


 航は就任するなり、いきなり予定外の行動をするカナに戸惑っている顔を、遠くに見せている。


 でも近づいてこない。新社長として、この工房からいつなにが生まれるのか。それがこのように突然であっても、肝を据えて待ち構える様子を見せてくれている。


 カナと芹沢親方は、初夏の風の中、向き合う。



「他のことは気にするな。集中しよう」

「はい。お願いいたします」


 カリヨンの鐘が鳴った。

 親方が緑の丘へと振りかえる。


「いい音だ」



 いつになく穏和な笑みを見せてくれていた。



✿ ✿ ✿



 工房の空気がすこしざわついている。

 カナと親方は、図案を確認し、手法と手順を決める。

 透明なガラスにのせる色ガラスの色も決める。


 銀賞受賞作家と、銀賞金賞受賞作家のふたりがタッグを組んで制作をする。

 しかもアシスタントは師匠の芹沢親方。


 なにが始まるのかと、山口工房の職人たちが固唾を呑んでいる空気が伝わってくる。

 それもおかまいなしに、カナと親方はガラスを吹く準備を始める。


 太い色ガラス棒を取り出し、模様にするための欠片を金槌で割り砕いて準備をする。

 その時、隣に並んで一緒に作業をしていた芹沢親方が話しかけてくる。


「俺なあ。あの時、ほんとうはがっかりしていたんだ」

「あの時? いつのことでしょう」

「相棒はどうすると聞いたときに、勝俣がいいと言っただろ」


 親方の工房で、瑠璃空を作り始める時のことだとカナも思い出す。


「おまえと一緒に造りたかったんだがな。でも、当時のおまえが言ったとおりだよ。俺が一緒にやると、おまえは俺の技術に頼っただろうし、俺は余計なことをしたかもしれない。技術がおなじで作品に口を出す気もない勝俣を選んで正解だった。そうでなければ、もしかすると……、瑠璃空は違う仕上がりになって、銀賞は取れなかったかもしれない」


「それは、わたしもおなじですよ。できれば、親方とやりたかった……」


 翡翠色と黄金色の棒ガラスの端を金槌で割り砕くカナを、親方が見下ろしている。


「やっと来たな。この時が。いつかと思っていた」

「わたしもです。いつか――と思っていました」


 黄金色の欠片をひとつ、親方が抓んで真上に掲げ、工房のライトに透かして眺めている。


「俺も見たよ。昨夜、いつか花南が話してくれた、山口、一の坂川の源氏螢を――」


 その欠片はいまから炎で溶けると命が吹き込まれる。蛍となって炎のなかで飛ぶのだ。


「螢川――と呼ぼうと思っています」

「うん。いいな。飛ばして、おまえの中から追い出して、手放すのだな」

「はい」


 やはり師匠、なにもかもが通じていた。


 カリヨンの鐘がまたひとつ鳴る。


 初夏の風が吹いてきても、工房の熱気が陽炎となって追い出していく。


 花南は吹き竿を握る。溶解炉へ、最初のひと巻き、ガラスを巻き取る。


「いきます」

「よっしゃ」


 師匠、親方とともに、時間との真剣勝負に挑む。

 溶けるガラスを思い描くものとして造り出す。

 心のなかにある、なにもかも、そこにある人の理のすべてから、純真な核を、竿の先に呼び出す。

 師匠とは確認も言葉もなくとも、流れるような作業を営んでいる。


 男と女にはなれなかったが、ここだけは、花南と芹沢という男性との心通う場所だった。


 それを遠くから夫が身動きもせずに見守っていることも花南はわかっている。

 航もじっと、父親と一緒に見守ってくれている。引き継いだ工房から生まれ出る作品を、今度は息子が見定めていくのだから。



 さよなら、お姉さん。忍お兄さん。


 ガラスの中にどこかへと飛んで消えていく蛍。流水の向こうへ。

 正午のカリヨンの鐘、アヴェマリアが聞こえてくる。



 ✿


 ✿


 ✿


 

 翌年、カナの『螢川』はガラス工芸展覧会にて金賞を受賞する。

 若い新社長となった工房主、息子の航と一緒に、授賞式へ出席した。



 カナは、これからも、ガラスの向こうの理を見つめていく。

 創るたびに、花南の夢の花が、咲いていく。

 いつまでも、その花を咲かせたいと思う。





🌸花はひとりでいきてゆく

🦋黒蝶はひとりでさがしてる

花は蝶とたわむれる🌸🦋

――――――【Fin】


また、いつか😉


🌸2023年11月 U-NEXTComicよりコミカライズにて配信開始しております。

タイトルは改題

■ 秘密の花~義兄と私の契約愛~

■ 石川なち先生


コミカライズ記念として、遠藤親方視点の新作番外編の連載を予定しています。もうしばらくお待ちください。よろしくお願いいたします😌

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花は蝶とたわむれる《花はひとりでいきてゆく 番外編集》 市來 茉莉 @marikadrug

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