ちーママさん②

「先生、お待たせいたしました。妹が出掛ける前にいろいろやらかしたみたいで……」


 航の報告が『うんち』でなくてカナはほっとしつつも、先生は『やらかした』だけでわかるようで、にっこりと笑ってくれている。


「おまちしておりました。お母さん」


 お母さん! 先生に面と向かって言われたのは初めてだったため、カナはおもわず頬を染めてしまう。


「初めまして、航の、叔母……いえ、叔母で、母になりました倉重花南です。甥っ子が、いえ、息子がいつもお世話になっています」


 すんごいしどろもどろになってしまった。心の中では『息子だ』と覚悟していたのに、いざ他人様に告げようとするとはっきり言えない自分にまた情けなさが生まれる。


 だって。まだ航にとって立派な『母です』と言ってはいけない気がしたから……。それとも覚悟が足りない?? もうこれだけで帰りたくなってきた。


 教室にはいると、よくある光景、机が三つ向きあう形にしてあり、先生がすでに座って待っていた。


 耀平兄さんぐらいの年齢の、眼鏡を掛けている男性教諭。白いシャツにグレーのスラックスという先生らしい男性だった。


 その男性が、黒縁の眼鏡の奥にある目をにっこりと緩めてくれる。


「まだ小さな赤ちゃんを連れて大変でしたでしょう。うちも末っ子がまだ二歳なのでわかりますよ」

「そうでしたか。先生のお子様もまだ小さいのですね」

「そりゃあ、もう。四人もいると大変ですよ」


 四人!! カナは目を瞠る。すんごい子だくさん先生だった。


「湯沢先生だから、きっと妹を連れてくる叔母のことはわかってくれると思っていましたけれど、融通を利かせてくださって、有り難うございました」


 母親のカナではなく、航からまるで父親の耀平のようなお礼をしたので、カナはびっくりして固まってしまう。また情けなくなって、追ってお辞儀をする始末。


「先生、有り難うございました。わたしからもお礼を申し上げます」


「ええっと。あの、花南さんとお呼びしてもよろしいですか。倉重君からも、いまは母親になったけれど、叔母としてずっと側にいてくれた方だと聞かされていますが、叔母様なのかお母様なのかお互いに戸惑うならば、そうお呼びしてもよろしいですか」


「は、はい。もちろんです。その、母親として側にいるつもりなのですが、実際にここまで航を育てたのは実家の母と、義兄だった航の父親です。わたしは叔母として見守ってきただけに過ぎません」


「ですけれど。ずっと航君を見守ってきて、母親になる覚悟をされたのですよね」

「はい」

「充分だと思いますよ。どうぞ、おかけください」


 あ、こちらも耀平兄さんとおなじ。年上の男性の余裕を感じられた。それだけでカナはホッとすることができた。


 先生を正面に、航と並んで座る。その時にはもう千花はおでかけしただけで疲れたのか、カナの胸ですやすやと眠り始めていた。


 先生の手元には話し合うための資料らしきものがあるけれど、先生はまだそれをこちらに見せようとしない。


「ガラス職人だとお聞きしております」

「はい。学生時代からずっと吹きガラスをしてまいりました」


「一筋でこられたのですね。いや、航君から聞いて一の坂川のショップを覗いたことがあります。冷酒用の酒器とお揃いのお猪口をいただきました。いま使うのに良い季節ですね。大活躍です」


 カナも驚いたが、航も驚いている。


「知らなかった。先生が、父の工房の、叔母のガラスを買っていただなんて」

「うん、最近なんだ。花南さんに直接伝えようと思って」

「ありがとうございます。冷酒器なら、わたしが吹いたものです」

「夏らしい、さざ波の螺旋が涼しげで気に入っています」


 その先生がカナを見て、ふと呟いた。


「ガラスに先に会ってしまったので、それを作られた職人さんはどのような方かと、緊張しておりました」


 今度は先生が気恥ずかしそうに俯き、黒髪をかいて照れている。


「職人さんとして生きてきた方がどのような方なのかイメージができなくて……」


 それはカナも一緒――。


「わたしもおなじです。十七歳の男の子のほんとうの母親とは言えません。学校で自分がどうすればいいのかわからなくて緊張しております」


 もう隣で航が肩を揺らして笑いを堪えているのに気が付いた。いつもガラスだけの叔母が、自分の母親として四苦八苦、しどろもどろ、大人しくなってしかもあたふたしている姿が面白いのだろう?


「航」

「ご、ごめん。だって……、こんな緊張しているカナちゃん、見られるだなんて……、父さんも見たいだろうなって」


 そんな耀平兄さんの顔も一緒に浮かんでしまったため、カナは思わず顔をしかめてしまう。


 今度は先生がクスクス笑っている。


「仲良く過ごされてきたことがよくわかりました。では、本題に行きましょうか」


 先生と打ち解けることができ、カナも幾分か緊張がとけていた。


 だけれど今から先生が言うことは、きちんとお兄さんに報告しなくちゃ。カナは手帳を開いて、真顔になった先生の説明に耳を傾けた。


 そこで先生が資料を指さし困った顔で告げたのは――。


「お父さんの意見と、航君の意見が揃っていません。航君は昨年度にお父さんと決めた志望校よりもう少し偏差値が上のこちらの大学を。お父さんはこれまで通してきた志望校のままでと望んでいます」


 航と耀平がひとまず決めた志望校は、関西でよく聞く有名私立大学。だが航が行きたいと望んだのは、さらに偏差値が上の耀平の出身大学。


 どちらも関西にあり有名私立大学だが、特色が異なる。

 知名度でいえば耀平の出身校のほうが全国的に知られている大学だった。


「花南さんは、お父さんから大学についてなにか聞いておりますか」


「主人がこの子にと望んでいる大学は……。学歴というよりも卒業後、関西で仕事をする上で優位だと聞かされています」


「そうですね。学歴となれば、航君が望んでいるお父さんの出身校が有名です。関東にでられるならその名で有利といえば、有利です。ですが、倉重さんはご実家がリゾート観光業。お父さんがお仕事をされてきて、その学校の出身であればお仕事的に関西では有利と考えているようですね」


 カナにはさっぱりわからない。学歴で決まるとか、出身校で仕事が左右されるとか。どっちであっても同じ、なにをするにも自分次第ではないかと思う。


 それでも。倉重の家業を必死で支えてくれた耀平がそれまでどんな苦労を積んできたか。カナは知り尽くしてはいない。出身校が上であっても、関西圏寄りで仕事をするならば、その出身校の横つながりの強さもあるのかもしれない。


「あの、航がもし、父親とおなじ大学を受けるのならば。それはそれでまったく学力的には問題がないのですか」

「偏差値的に問題はないのですが、お父さんがご希望されている大学の方が確実ですね」

「わかりました」


 カナはそれだけ聞いて、先生が言わんとしていること。耀平に伝えて欲しいことがなんなのかわかったような気がした。


「航と主人にもう少し話し合ってもらいます」

「そうですね。早く定めた方がよろしいと思います。とくに、お父さんの出身校を受けられるのならば」


 再度、カナは『わかりました』と頷いた。


 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―



「ちーちゃん、ねんねしたままおりこうさんだったね」


 暑いのに、ママの胸にぴったりくっついたままスヤスヤ。泣きもせず大人しくしてくれていて助かったから、カナは眠っている娘の頭を撫でた。


 だけれど学校を出て、一緒に自宅へと歩いて帰る航は悶々とした顔。


「航。どうしてお父さんの大学に行きたいの」


 航は答えなかった。でも、カナもわかっている。息子として父親と同じになりたいか、越えたいかなのだろう。


 でも耀平は父親として、息子の将来が少しでも安泰であるような指標をと考えているのだろう。


「跡は継ぐと決めている。でも、だからって……。倉重の商売をするのに、こっちの学校が、しかも父さんの出身校より商売に有利なんて漠然とし過ぎているよ」


「だよねえ。わたしもそう思う。でも、もしかすると、兄さんはその大学の出身ではないことで苦労したのかもね」


「でも。父さんは、もう祖父ちゃんの後継者だって決まっているし、これまで倉重をちゃんと守ってきたよ」


「お父さんと同じ苦労をしてでも、お父さんと同じ大学に行きたいってことなの?」


 また。航が黙った。そしてカナもここで違和感を持った。やっぱり……。お父さんとおなじではないと、息子ではないと思っている? そんな気もしてきた。


「たとえば、なんだけれど。広島大学とか考えたことない?」


 航が唖然とした。はあ? なんでそこで広大?? と。


「広大じゃないけれど、大学時代はわたしも広島だったから。芸術学部があるってだけで行ったんだけれどね」

「はあ? カナちゃんと同じになれってこと? んー、……、俺ももう少し遠いところで、独り立ちてやってみたいんだよね」


 それが本音? それならそれでいいのだけれど。と、カナはひとまず安心する。なのについ。彼の本当の父親である金子氏の出身大学を口にしてしまっていた。


 でもあの顔なら。まだ気が付いてないかと胸を撫で下ろす。


「わたし。正直いって、航が決めた大学でいいと思う。もちろん、合格できることが前提だよ」


「わかってる」


 そしてカナは……、航の向こうに久しぶりに優美な姉を見ている。


「姉さんなら、自分が決めた『上』へ行けって言うと思う。兄さんと喧嘩してね。兄さんも言っていたよ。美月は気が強くて引かない時もあったって。生きていたら、兄さんと喧嘩して『絶対に、あなたの行った大学に航も合格させてみせる』と言いきっていたと思う……」


「カナちゃん……」


 住宅地の古い裏道で人もいなかったせいか、航がそっと寄り添ってきた。もうカナより高くなった頭を、カナの頭のてっぺんにこつんとあててきた。


「やっぱりカナちゃんが、お母さんだよ。カナちゃんの中にちゃんと、俺の母さんがいる。時々、カナちゃんと一緒に母さんがいるって感じられる。カナちゃんはずっとそうしてきてくれたんだよね」


 そうかな。意識したことはないけれど。航がお姉さんを欲したら、それは姉をよく知っている妹のわたしが伝えられるとは思ってきたから。


「さっき。カナちゃんの向こうに、母さんがいたよ。ちょっとしか覚えていないけれど覚えている母さんが」


 綺麗な姿で消えた姉。ちいさな航を慈しんでいた母の姿も姉の真実。航にはそれだけが残っている。それでいい……。カナはそっと目をつむり、緑の匂いを吸い込んだ。


「帰ったらお父さんと真剣勝負だね」

「うん。母さんがきっとそう言ってくれていたなら、俺も父さんと喧嘩する」


 大丈夫。きっと航が行くというなら、お父さんも行かせてくれるよ。

 カナは義妹としても、妻としても、そう思っている。


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