【7】ちーママさん(カナ視点)

ちーママさん①

 子供とのおでかけは早めにお支度を。


「ちーちゃんの帽子、帽子どこ?」


 昨日、聖堂の丘までおさんぽに行った時にかぶせたかわいいの、カナもお気に入りの帽子がない。


「花南さん、耀平さんのお部屋にありましたよ」

「ありましたか、ありがとうございます。でも、どうして兄さんのお部屋に? もう、間に合わないよ」


 ハウスキーパーさんがみつけてくれ、カナはそれを受け取って、抱っこバンドにおさまって胸元できょとんとしている娘にかぶせた。


「タクシー呼びますね」

「お願いします」


 時計を見る。ギリギリだった。

 カナはおめかしをした娘を胸に抱いて、ふっと溜め息。


「お兄ちゃんに怒られちゃうね。ちゃんと余裕を持って準備しないとだめってきっというよ」


 もうすぐ夏休み。今日は航の高校へ行くことになっていた。

 しかも『倉重航の母親として』。


 話は半月前に戻る。

 工房の仕事を終えた夕方、カナが自宅リビングへと戻った時だった。

 耀平と息子の航が、向きあってなにやら話し込んでいる。しかも二人とも難しい顔。


 耀平兄さんはまだ黒いスーツ姿のままで、航も夏の制服姿のまま。互いにちょうど帰宅したところで出会ったのか、そのまま話し込んでいるようだった。


 ただいま――と声を掛けたいのに、掛けられない。


「どうしてもだめなのかよ、父さん」

「悪い。どうしてもだめだ。関西に出張が決まっている。日程もずらせない」


「じゃあ、祖母ちゃんは……」

「もうノータッチと決めているようだ」


 父親に仕事の予定があり、航はなにか頼みたいのに頼めないようだった。


「ただいま」


 やっと声を掛けると、男二人がダイニングテーブルの側に立ちつくしたままの姿で振り返った。とてもびっくりした顔を揃えてカナを見ている。


「どうしたの。なにかあったの」


 カナの顔を見て、二人がちょっと焦って、でも……、息があったようにして目と目を合わせその視線で会話をしているようだった。しかもなんだか通じあっているように頷きあっている?


「カナ。航のことで頼みたいことがあるんだが」

「え、なに。わたしにできること?」


 父親のお兄さんが、カナに航のことを任せてくれるとなるとカナは身構えるが、そこは受けたい気持ちが湧いてくる。


「夏休みの前に航の学校で、三者面談があるんだが、その時期どうしても日程がずらせず、担任の先生のご厚意で『お父さんが空いている日の夏休みでもかまいませんよ』と言ってくれたんだ。ただな、その後もこの日がいいと先生と日程が合わずに困っている。できれば先生の意見を早めに知っておきたい」


 三者面談。航はもう高校三年生。受験生だった。ただ志望校はほぼ絞ったが、航がまだ迷っているとは聞いていた。


「その三者面談に、おまえが行ってくれないか」


 え!? カナは面食らった。


「わたし、航の受験に関しては一般的な受験の雰囲気しかわからなくて、お母さん知識と感覚ゼロだよ!」


「先生の話を聞いて、俺に報告してくれたらそれでいいから」

「せ、先生の話聞いて、わたし、わかるの?」


 すでにカナはパニックに陥っていた。そのせいか、航がにやっと楽しそうに笑っている。


「おねがい、カナちゃん。そうだ。先生もカナちゃんに一度、会いたいと言っていたからさ。俺の母親紹介で来てよ」


「おお、そうだな。一度、先生にも会っておいた方がいいと俺も思うな」


 うん、ちょうどいいね。うん、ちょうどいい。と、父子が微笑みあった。

 血は繋がっていないけれど、やっぱり育ての親と子としての絆はしっかり目に見えてきている。


 それでもカナは首を振る。


「む、むり。十七歳の、本当のお母さんとは違うもの。う、うちのお母さんは? お母さんは航の成績をずっとみてきたじゃない」


「そのお母さんがな。もうカナにさせなさい――ときっぱり言うんだ。できなくてもやらせなさい。耀平さんも甘やかしすぎと逆に怒られたぐらいだ」


 確かに。カナ自身も『お母さん、任せて』と航を引き取ったのだ。ついうっかり、情けなく頼ってしまうところだった。しかも耀平兄さんを『だめな夫』にしてしまうところ……。


「うん、わかった。行くよ……、わたしなんかでよければ」


 意外だったのか、目の前で父子が揃ってとてつもなく驚いた顔を再び揃える。


「ほんとうか、カナ」

「カナちゃん、ほんとに!?」


 え、なに。その反応? でもカナもすぐにわかった。カナにお願いして、すぐに了承してくれるとは思わなかったのだろう? 

 気難しいカナがそっぽを向き、ではどうしようかと父子で話し合っていたような気もしてきた。


 それならなおさら!


「いちおう、航のお母さんだもん。こんな時にちょっとでも役に立たないとね……」


 自信なさげに、でもそれを悟られないよう強がって言ってみた。


 よく言ったカナ! カナちゃん、ありがとう! 大好きな兄さんと航が揃ってカナを腕に抱いてくれたので、ますます引き下がれなくなった――。


 


 ――という経緯にて、本日、カナは航の高校へ出掛けようとしているところ。


 だからカナはがちがちに緊張している。


「花南さん、来ましたよ。お気を付けて」


 キーパーさんが玄関先までタクシーを呼んでくれ、カナは娘の千花と炎天下の中いざ出陣。


「花南さん、大丈夫ですか……」


 母親ぐらいの年齢のキーパーさんが心配する顔。


「い、行ってきます」


 カナも今日は、おでかけ用のワンピーススーツで『きちんとお母さん』を装ったつもり。

 まだ乳児の娘を抱いて、タクシーに乗り込んだ。


 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 

 高校の正面門に到着。


「遅い! やっぱギリギリだった」


 夏の白いシャツに黒スラックス、制服姿の航が仁王立ちで待っていた。

 タクシーを降りたカナは、千花を抱いた姿でうつむく。


「ちーちゃんの帽子がなかなかみつからなくて」

「だから昨夜のうちに、揃えておけって俺言ったよね」

「……抱っこしたら、いきなり、うんちもしたから」


 うんち……。航が復唱し、カナの胸元にいるベビーピンクのかわいい服を着ている千花を見下ろした。


「あはは! うんち!」

「声、大きいって」


 カナはまわりに誰もいないか確かめてしまうほど、航がケラケラと笑っている。


 やがて航の男らしくなった手が、娘『千花』のかわいい帽子へ。


「今日も絶好調だな千花は。よくきてくれたな、兄ちゃんの学校に」


 元気よく今日もうんち。航がそういって、愛おしそうに妹の頭を撫でている。


「やっぱ小さな子供って思い通りにいかないんだね。ま、しようがないか。そんなことだろうと思って、先生にも『きっと遅れます』と言ってあるんだ」


「えー、そんなこと先生に言ったの?」


「うん。だってその通りになったじゃん。俺、カナちゃんのことわかってるでしょ。小さな赤ちゃんもいるからと、一番最後の時間にしてもらったしね。次は誰もいないから、遅刻しても気兼ねするのは先生だけでいいだろ」


 ぐうの音も出ず、カナは情けなさも含め恥ずかしくなって、少しだけ頬が熱くなる。


「もう、恥ずかしいよ。……姉さんだったら、こんなことなかったはずなのに……」


 ふいに漏らしたひと言だったが、目の前を歩いていた航がちょっと驚いた顔で振り返った。しかも、今度は航が緊張しているような顔? カナは首を傾げる。


「たまにしか、母さんの話は耳に入ってこないんだけれど……。すごく綺麗な人で、なんでもできたと聞かされているけれどやっぱそんな人、だったんだ……」


 今度はカナがどっきりとする。航に対して過度に母親である姉の話を避けてきたわけではないけれど、だからとて、進んで気軽に話せるものでもなかった。


 母の話を聞けば、航にとっても歯止めが効かないものがあることはカナも耀平もそれとなく感じていたから。


 でも。今日、航からそんな顔で聞かれたら、カナは避けるわけにはいかない。


「お姉さん、優等生だったからね。なんでもきちんとしていたよ。今日だって、母親として時間を守ってきたよ絶対に」

「……別に。カナちゃんがちゃんとした母親じゃないと言いたかった訳じゃないよ……」


 気後れした言い方。そして、いつもカナより頼もしくあろうとする航らしくないしょんぼりとした姿に、カナの胸が痛む。それがほんとうの航の『子供としての姿』だからだった。


「航。そんな姉さんのことで遠慮しなくていいんだよ。兄さんにも話すんだけれど、兄さんには前の奥さんでも、わたしにとっては前の奥さんというよりは、実のお姉さんなんだから」


「前の奥さんの話って、嫌なんじゃないの」


「普通はね。でも、別に、わたし、姉さんと争って兄さんを好きになったわけじゃないから」


「いつから、父さんと? ……俺が子供の時から、もう付き合っていたんだよね」


「小樽から帰ってきてからだよ。いまの家に兄さんと一緒に住むと決めた時からだよ」


「……カナちゃんはいつから」


 カナは戸惑う。つまり航はいま、両親がどこで恋に落ちたかを聞きたい子供になっている。


 でも、迷うまい。彼はもう子供じゃない。カナは意を決した。


「お義兄さんとして、うちに来た時から」


 とてつもなく驚いたのか、仰天したまま固まってしまった。


「ひと目ぼれ!?」


「ではないと思う? だって。お姉さんと幸せそうなお兄さんが好きだったんだもの。航が生まれてすごく嬉しそうなパパになったお兄さんもよかったなあ。とにかく、わたしは結婚するよりガラスが一番だった。そんなわたしにきっとできないだろう『素敵な家族』を姉さんと兄さんが見せてくれていたの。その側にいられたらよかった。その世界を見るには、大好きな姉さんだけではだめ。素敵なお兄さんとかわいい航がいなくちゃだめだったの。わたしはそばにいる叔母さんで妹、義理の妹。それでしあわせだったの」


「それが、カナちゃんの……はじめての、父さんが好き、だったんだ」


「男と女はあとからひっついてきたの。そうなってからの方が辛かった。わたしと義兄さんが義兄妹でなくなるのは簡単ではなかったよ」


 知ってる。子供だったけれど、俺、見てきたよ。

 航が自信なさそうに呟いた。カナはそっと、そんな航の背を撫でる。それだけで航がいつもの男の子の顔に戻ってくれる。


「姉さんに嫉妬したことも、嫌いになったこともないよ。だから姉さんは、航のお母さん、わたしにはお姉ちゃん、お父さんにとっては愛して結婚した女性、そして息子の母親だよ」


「うん、わかった。俺も大丈夫だよ」


 そう笑いながら、航がちょっと気後れした顔で、カナの胸にいる妹を見下ろした。


「千花が生まれて、もっと家族になった気がする」

「うん、そうだね。お兄ちゃん、千花のこと頼むわよ」

「もちろん。倉重の女に近づく男は容赦しない」


 真顔で言った甥っ子を見て、逆にカナは笑い出す。


「はあ? なんだよ。自分から頼んでおいて」

「え、だって。航ったら、お父さんそっくりになってきたなあって!」


 本音だった。カナの中では血の繋がっていない父と子であっても。ほんとうに最近、そう思うことが多い。


「そりゃ……。父さんが育ててくれたんだもんな。俺のこと」


 そしてふと……。血が繋がっているならば、言うはずもないような言葉を、航が時々口にしていることにもカナは気が付いていた。


 なんとなく。航のなかで腑に落ちないことがいくつも積み重なってきている気がしている。杞憂であればいいのだけれど……。


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