【2】二ヶ月目(耀平視点)
二ヶ月目①
息子は花南が大好きだ。
花南を小樽から連れ帰って二ヶ月。
新緑の季節になり、西の京のそよ風はそこはかとなく葉の匂い。
「父さん、カナちゃんは今日も仕事をしているの」
助手席にいる小学生の息子に聞かれる。運転をしているお父さんも答える。
「今週は制作のスケジュールがあって仕事にしたみたいだな」
「そうなんだ、つまんない」
山口の新居と隣接させたガラス工房も、花南によって無事に稼働し始めた。
花南が『相棒にしたい』と願った大学の同期生『ヒロ』のスカウトも成功し、二人で息を揃えた創作をするようになっていた。
義兄として、同期生の二人が学生時代は『恋人』だったことを知っている。
別れて後も職人として共に活動はしていたようだったが、花南が小樽の工房へ行くことになって以降は縁遠くなっていたようだった。
その二人が久しぶりに職人としてどうするか、耀平は遠巻きに眺めていた。それは社長として――。
だが花南とヒロの息はぴったりだった。それだけ共にガラス職人を目指す時を過ごしてきたことが良くわかった。
社長として――は安心した。
男として――、少し気にしている。
義妹のことは、無理矢理に、勝手に俺のものにした。
本当の意味で、義妹は耀平のものになったわけではない。それが彼女の意志を無視して手に入れた男へのしっぺ返しのように胸に突き刺さる。
緑の囲まれた山口の新居に到着すると、助手席にいた息子がすぐさま車を飛び降りて、工房へと駆けていく。
「航、炉の火に気をつけるんだぞ」
わかってる! 大好きな叔母さんのところへとまっしぐらだった。
息子の航は、三歳の時に母親と死に別れた。母親のことは少ししか覚えていない。そのあと二年、母親の妹である花南と暮らした。若い叔母はきっと、息子にとって母の匂いに近かったのだと思う。
もの心つく前に母親と死別し、もの心ついた頃に叔母と暮らした。その記憶が彼には鮮烈なままなのだろう。
「血の繋がりか」
父親として毎日側にいるから、彼にとっては父親でいられる。血の繋がりがない真実は、耀平一人の胸にしまい込んだまま。誰も知らない。
二年も離れて暮らしていたのに。花南が帰ってくると、航はまるで昨日別れたばかりの家族のように、離れていた年月を思わせないほど花南とは馴染んでいる。それは逆に叔母の花南も同じだった。
瞬時に『一緒に暮らしていた頃にもどれる』、それが血が成せるものなのかと痛いほど思い知らされていた。
そんな息子の後を追ってみる。工房の入り口はもう熱気が渦巻いている。耀平もスーツの黒いジャケットを脱いで、シャツ姿で中に入った。
ちょうど、花南とヒロが『ポンテ』をしているところだった。二人は夏向けのグラスをデザインし、デザイン段階で耀平がOKをしたので、現物サンプルを作成しているところだった。
それを航が少し離れてじっとみている。叔母に話しかけたくても話しかけられなくてそこにいる。花南もよそ見をすれば竿先のガラスとポンテ竿の接着を失敗してしまうので、甥っ子がそこにいても知らぬ顔をしている。
制作中のグラスと繋がったポンテ竿。反対側にはヒロがそれまでガラスを吹いていた竿がくっついている。吹き竿から切り離す箇所にヒロがヤスリで傷を付ける。そこを目印にして、吹き竿を
そこでやっと、花南とヒロが航へと向いた。
「いらっしゃい、航」
「来たんか、航。ごめんな、作業中で声をかけられなくて」
二人が気が付いてくれていたことを知った息子が笑顔になって首を振る。
「ううん。大事なところだって僕わかっていたよ」
元気よく答える航を見て、今度は花南が嬉しそうな笑みを浮かべた。そして工場用エプロン姿のまま、航のところまで歩み寄るとぎゅっと抱きしめる。
「もう、カナちゃん。いいよ、もう」
小学生低学年といえども、ちょっと男らしさを気にする年齢になった息子が照れながら花南を突き放そうとしている。それでも花南はぎゅぎゅっと余計に強く抱きしめている。
「やだ、カナちゃんが航をこうしたいんだ。航が四歳の分、五歳の分、六歳の分……七」
「わー、もういいよ、いいよ! わかったから」
いつまでも続けられそうだと悟った息子は花南の腕から抜け出してしまう。
「おー、もう昼じゃん。俺はこのグラスを仕上げたら休憩にするから、カナは航と行ってこいよ」
「そうしようかな。ありがと、ヒロ」
「おう」
そんな二人を見ている耀平だけが、少し離れて窺っているだけになっている。
それでもヒロが竿を片手に焼き戻し炉へ向かう時に、耀平に挨拶をしてくれる。
「社長、お疲れ様です。すいません、作業中で」
「ああ、構わない。そのまま続けてくれ」
軽く会釈をして、頭にタオルを巻いている汗まみれの男は、また炉の火に向かっていく。
真っ赤に燃える炎が待つ炉の中へ、再び冷えかけていたガラスを入れて柔らかくする。せっかく整ったグラスの形を崩さないよう慎重に竿を回す姿。彼も手慣れている職人だった。
ヒロが作るグラスは薄さに定評がある。彼をスカウトして、まずひとつグラスを作らせてみたら、それが花南が造るものより技術は上だった。ただシンプルすぎる。デザインのセンスは花南にあった。
花南は作家向きで、ヒロは技術を極める職人向きだと耀平は睨んでいる。
焼き戻し炉からガラスを再び外に出したヒロは、作業台に竿を置き、先ほどできた切り口に大きな鉄のピンセット『洋バシ』を入れて丸く口を広げていく。
それを息子はまだ真剣に見ている。
「コップになってきたね」
「だろう。ここが飲み口になるんだ」
「青色のグラスだ」
冷えてきたガラスの色が徐々に現れている。
「夏らしいだろう。航は何色がいいかな」
「青がいい」
「だったら、これ。お父さんが良いものだと許可してくれたら航にあげるよ。いいですよね、社長」
作業をしながら、ヒロがこちらをまた見た。彼はいつも軽快な笑顔と会話で人当たりが良く、航も直ぐに懐いたし、あまり多くは喋らない耀平も助かっている。
「うん、いいだろう。ただし、今日は無理だな。冷却が終わってからだ。良いものだったら、お父さんが持って帰ってあげるよ」
「ほんと、やったあ」
息子が喜ぶ姿は、花南も耀平も、きっとヒロも和むもののようで、この工房に関わるようになったばかりの大人三人を息子がいい雰囲気にしてくれることも多い。
「ねえ、ヒロ君。聞いてもいい?」
「おう、なんだ」
「あのさ。ヒロ君とカナちゃんって恋人同士なの」
息子の唐突な質問に、そこにいた大人三人が揃って仰天する。工場の空気もピキンと固まった。
なんてことを聞くのだ。この息子は! 耀平のほうが顔が真っ赤になりそうだった。まだ子供のくせに、そんな目で大人を見ていることもあるのかという驚きと――。『最近、お父さんがいちばん気にしていることを、おまえ、そんな簡単に聞いてしまうのか』という、心を見透かされたのかと思うほどの焦りが耀平の中で一気に吹き出してしまう。
ヒロと花南も顔を見合わせ、戸惑っている。
「ないない。もう別れちゃったから。大学生の時に」
ヒロからそのまま伝えたことにも耀平は目を見張った。
「そうそう、ないない。ヒロとはもうただの同級生だから」
花南も腹をくくったのか平然と答えた。
「そうなの。お仕事している姿、すごく息が合っているから……。そうなのかなと思っちゃったんだ」
「ないない、ぜってえにない」
「ないよ、航」
そこも元恋人同士が息を合わせたようにして『ないない』と否定した。
「そもそも、ヒロが原因だもんね」
「俺がそうなる原因をつくったのもカナだったと言いたいね」
「かもね。可愛い下級生の女の子のほうが気が楽になちゃったんでしょう」
大人の叔母さんとお兄さんの会話に、自分から聞いておいて息子がハラハラした顔をしている。それを見て、耀平はもう笑いそうになっていた。
でも義妹と元カレが別れた理由を初めて知り、また今の気持ちを聞いて『そうだったのか、ではもう未練はないのか』と密かに安堵している。
「そうだよ。だっておまえ、超めんどくせー女だったからさ。ガラス以外はもうごめんだ」
「わたしだってそうだよ。そんなにめんどくさいと思う男なんか、こっちからごめんだよ。でもガラスではヒロがいいの。大学の時から一緒だったからね。いろいろわかってくれているの」
「だよなー。俺達、なんでも一緒に制作してきたもんなー」
二人の関係を知って、息子もようやく納得できたようだった。
「航、家の中にいこう。お腹すいたでしょう。お昼、つくっておいたから」
「うん」
やっと息子と花南が、耀平のところまでやってきた。
「お義兄さん。お帰りなさい」
「ああ……」
元恋人との会話を聞かれても、花南は平然としていた。
「父さん、行こう。カナちゃんがなにか作ったんだって」
早く食べたいと、航は家の中へと耀平の手をひっぱる。
「よし、行くか」
父子と叔母の三人で、工場から家に繋がる飛び石を渡って勝手口へと向かう。
「そっかー。カナちゃんとヒロ君てやっぱ恋人同士だったんだね。別れちゃったけど」
そんなことを感心している息子に、耀平はもうなんて言って良いか……。
ただ心の中では『おまえ。父さんが気にしていること、よく聞いてくれた』とも思っていた。
義妹がガラス工房で働いてくれる条件が『元カレで同期生の彼が相棒』だった。彼を望むことは社長として予測はしていたものの、男としては心穏やかでないのが本心だった。
再会してかつての恋が再燃しないか。気にしないわけがない。
自分の本宅は息子が待っている山陰の家で、こちらの山口の家はほとんど留守にしている。その間、義妹がなにをしていてもわからないし、耀平はそれを咎めることができない。
義妹は、男にはあけすけなところあがる。一夜限りも通りすがりの男も彼女が欲せば手に入れる。そしてどこか雰囲気がある義妹は、きっと望んだ時には必ず男を手に入れてきただろうと耀平はわかっていた。
質素なみかけによらず、色香を秘めている奔放な義妹だからこそ、耀平はどんなことも心穏やかではない。
『俺以外の男は許さない』と釘を刺して、義妹も頷いてくれたものの。『勝手に俺のものにした』男は、その女が心から望んで自分の女になったのではないことをわかっているだけに……。
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