開拓都市ドラゴンズベッド衛士隊第九小隊

信野木常

トロール市内侵入事件

 窓の向こうで、沈みゆく日が西の物見塔を黒く塗りつぶしていた。

 そろそろ暮れ七つの鐘が鳴る。鳴れば今日の仕事はこれで終わりだ。自室の寝台で眠る自分を夢想しながら、ユーヴァン・グレイソーンは衛士屯所を後にする仕度をすべく席を立った。

 向かいの席で窓の外を眺めていたエリルが、尖った長耳をぴくりと動かし、頬杖をついたまま視線だけを送ってきた。まだ職務中。と彼女の青い目が咎めてくる。そんな気がするだけだが、当たらずとも遠からずだろう。この二年あまりの付き合いで、ユーヴァンはこの言葉数の極端に少ない妖精エルフ娘の言いたいことを、おおよそ察することができるようになっていた。ならざるを得なかった。ならなきゃ仕事にならなかったし、彼女と意志疎通ができていなかったら、ひょっとすると死んでいたかもしれない。

「勘弁してよ。もう三日も自室に帰ってないんだ。洗ってない下着も溜まってる」

 言いながら、ユーヴァンは指で自身の目を指し示して見せた。きっと寝不足に赤く充血し、青黒い隈がくっきりと浮かんでいることだろう。昨夜から今朝にかけて、僅かな仮眠のみでずっと屯所に詰めていたのだ。本来は昨日の暮れ六つに職務を終えて帰宅できているはずが、交代の部隊の面々が市壁外に出現した〈幼稚なる神〉の眷族討伐に駆り出されたのだから仕方ない。

 昨夜の眷族討伐任務については、ユーヴァンと同じ衛士隊員であるエリルも知っているはず。

 そんな事情を思い出してか。エリルはじろりとユーヴァンの灰色の目を一瞥すると、ぼそりと呟くように「納得」とだけ言った。

 真面目な部下の理解を得られたことに安堵し、ユーヴァンはそろそろ交代に来るはずの夜番に向けて、白墨で黒石の連絡板に申し送り事項を書き始めた。今回、時に命がけの眷族討伐に駆り出されなかったとはいえ、衛士本来の職務である市街の治安維持もそれはそれで簡単ではない。慢性的な人手不足の中で、強盗恐喝犯の捕縛から、夜の街を遊び回る多種族の子どもの指導まで。昨夜だけでも、家畜の肉を目当てに夜間商店を襲った人喰大鬼オーガの捕縛、許可区域外で営業していた吸精鬼サキュバスの娼婦たちへの指導、露店を営む小鬼ゴブリンたちの縄張り争いの仲介……

 一日の出来事を書き出しながら、変われば変わるものだ、とユーヴァンは思った。自分の種族である純人ヒューマンとその諸王国は、エルフ、鉱精ドワーフといった地精種シーは過去から少なからず交流の歴史があったものの、ゴブリンやオーガといった異種族は「怪物」「邪鬼イーヴル」と呼び習わし敵対し、遭えば互いに即、殺し合ってきた。

 それが今や、同じ都市の住人として暮らしている。世界と生命を弄ぶ〈幼稚なる神〉とその従属神たちとの戦いが起こるまでは、誰もが想像だにしなかった未来が今、目の前にある。

 板書を終えたユーヴァンは、白墨を置いて剣の柄に手をかけた。後は暴徒鎮圧用の刃のない擬剣を屯所に置いて、交代要員を待って寮の自室に帰るだけだ。彼が擬剣を屯所所定の留め具に掛けようと、剣帯の鞘から抜いたその時に

「旦那っ! 大変でさあっ!!」暗緑色の小躯に似合わぬ大声を張り上げて、赤い革帽子を被ったゴブリンがガラガラと車輪付きの屋台を引きながら屯所目指して駆けてきた。「〈苦笑い〉の旦那はまだいるかいっ?」

「またか…」盛大なため息をつきながら、ユーヴァンは擬剣を鞘に戻して目の前にゴブリンに訊ねた。「どうしたのさダエル。また〈緑の歯〉一家あたりが難癖つけてきたのかい?」

「旦那たちのお陰で、連中も今は静かなもんですよ。って、それどころじゃないっす」ゴブリンのダエルは息を切らせながら言葉を続けた。「ドワーフの工夫連中と、オークの樵どもが大喧嘩を……」

「何処?」エリルがユーヴァンの背後から訊ねた。「何人?」

「場所は片羽根広場から火の舌通りに入った辺りっす。数は両方合わせて、両手の指じゃきかねえっすよ」

 最低でも鉱精と土鬼合わせて十人以上。それも力自慢ばかりの工夫と樵。衛士隊本部に増援を頼むこともユーヴァンの脳裏を過ぎったものの、現地の正確な状況がわからねば後で面倒だと思い直す。以前も「オークの大群に囲まれた」との通報で本部に増援を頼んで駆けつけてみれば、何のことはない、賭けカードのいかさまに腹を立てたオークの二人が賭場のヒューマンの店主に詰め寄っていただけだった。

 増援を頼んだユーヴァンはその後、大隊長に延々と小言を聞かされた。状況をよく見極めろとか、ヒューマンのオークに対する偏見を考慮しろだとか。

 ダエルはまっとうな焼き貝売りの商売をしており、比較的ヒューマンに近い良識を持っている。疑うわけではないが、正確な状況が知りたかった。増援云々はそれからだ。ユーヴァンは振り向いて、背後のエリルに告げた。「僕がダエルと先に行く。エリルは残って、グラッグとゴルファンが来るのを待ってから来てくれないか?」

「了解」エリルは頷くと机上に置いてあった魔法銃を手に取り、銃把に魔力倉を叩き込んだ。

「よし、行こう。案内してダエル」

 純人の衛士は鉄兜を抱えると、ゴブリンとともに駆け出した。



 †



 かつて、大いなる戦いがあった。

 世界を創りたもうた神々の内で最も新しく若い神、〈幼稚なる神〉〈無邪気なる邪気〉が、ただその愉しみのためだけに地上に災厄たる五柱の従属神を遣わした。五柱の従属神は各々神々に次ぐ力を持ち、自らに奉仕する眷族を生み出して地上の生命を時に脅かし、時に殺戮し、時に支配した。地上の知恵ある者たち、ヒューマンの諸王国、エルフ、ドワーフら地精シーの諸族は国と種族の垣根を越えて共に戦い抗ったが、強大な力を持つ従属神を滅ぼすことは適わず、続く戦いにその数を大きく減らしていった。


 その様を、〈幼稚なる神〉は大いに愉しんだ。

 その様を、創造者たる神々は大いに悲んだ。

 その様に、監視者たるドラゴンたちは大いに憤った。


 そして開かれた神々とドラゴンたちの議において、地上世界への介入が決定された。

 ある神は選びし地上の者に自ら鍛った武器を与え、またある神は己が力を分け与えた。

 あるドラゴンは〈幼稚なる神〉の力の及ばぬ土地を創って人々の安息地と成し、またあるドラゴンは勇猛なる戦士を不死を与えた。

 この介入によって地上の諸種族は勢力を大いに盛り返したものの、神と諸種族の戦いの勝敗は決定打を欠いたまま拮抗した。

 そして、魔神が決断した。地上の知恵ある者たちの敵対者に、知恵を与えることを。怪物たちに知恵を与え、〈幼稚なる神〉と従属神との戦いの列に加えることを。

 この企てにより、地上の諸種族は互いに誤解と理解を繰り返しながら協力し、共に戦い、犠牲を払い、そしてついには全ての従属神を滅ぼし、〈幼稚なる神〉をこの次元世界から放逐することに成功した。

 〈幼稚なる神〉を放逐したこの日は、誰が名づけたか「自立の日」と呼ばれた。


 かくしてこの「自立の日」より、地上の諸種族は偏見と反発を抱え込みながらも、共にこの世界を形作らんと歩み始めた。



 †


 ユーヴァンは駆けながら兜を被り、顎の帯を締めて面頬を上げた。その前を、木製の屋台を引いてゴブリンが走る。屋台を置けば幾分速く走れるだろうにと思わなくもなかったが、屋台は彼にとって掛け替えのない商売道具にして財産だ。放置して物盗りに荒らされるわけにはいかないのだろう。

 屯所前の八番通りを北に駆け続けると、開拓都市ドラゴンズベッド第三街区の露店許可区画、通称〈片羽根広場〉が見えてくる。大戦中、竜翼を持ち空を翔ける力を持っていたという英雄アーレントを模した像が広場の中央にあるのだが、誰が壊したのか片翼がもがれたままになっている。片羽根広場はそのことから付いた名だった。

 広場に入った途端、聞こえてくるのはドワーフの野太い怒号と、しわがれつつも大きいオークの罵声だ。


「オークども、酒の味なんざわからん癖に酒場に来んな!」禿頭の赤髭ドワーフが怒鳴れば、上体裸のオークが怒鳴り返す。「岩山の中で石食ってる連中がよく言いやがる!」

「ケツに鎚突っ込まれたくなきゃ巣穴に帰りやがれ!」黒髭の若いドワーフが仕事道具の金槌を持って力こぶを作れば、頬に傷のあるオークが牙を剥いて威嚇した。「黙れ石喰い!喰ってやろうか?」

「おう!喰えるもんなら喰ってみな!!」

「呑み込みづれぇだろうがやってやろうじゃねぇか!」

 髭を編んだドワーフが挑発するなり、左耳の削げたオークが飛びかかった。


 店を広げる露店と屋台が、とばっちりを受けまいと慌しく店じまいを始めている。

 ここまで来れば、喧嘩の在り処など明らかだった。広場に程近い酒場街・火の舌通りの店先で、屈強なドワーフたちとオークたちが殴り合い取っ組み合いの真っ最中だ。口汚い罵り合いに混じって、割れた瓶だのテーブルの破片だのが飛んでくる。

「ここまでで良いよダエル。知らせてくれて助かった」ユーヴァンは赤帽子のゴブリンに礼を述べて、腰の擬剣を引き抜いた。「早くこの辺から離れた方がいい。巻き込まれる」

「〈苦笑い〉の旦那も、無理せんでくだせえよ」

 屋台を引いて遠ざかるゴブリンの背を見送りつつ、ユーヴァンは問題のドワーフとオークの数を目算した。合わせて二十名弱程度。想定の倍だ。店の中まで見えないので、もっといるかもしれない。

 対してこちらはユーヴァンこと純人の衛士が一名。少し待てば、エリルがグラッグとゴルファンを連れてくるだろう。合わせて四名で、暴れまわる二十名のドワーフとオークを鎮圧できるのか。

 屈強・精強で知られる二種族の喧嘩に巻き込まれ、酒場の木椅子が砕け、板壁に穴が空く。逃げ遅れた鳥肉の串焼き屋台に、組み合ったドワーフとオークが突っ込んだ。もちろん屋台は半壊した。

 放置すれば、街の一般市民に拡がる被害は甚大だ。

 増援を待っても、眷族討伐の直後に動かせる人員がそういるとも思えない。

「まあ、やるしかないよなあ」

 ぼやきつつ、ユーヴァンは面頬を下ろして擬剣を右肩に担ぐように構えると、騒乱の渦中に突入した。酔って暴れまわる荒くれ共に、言葉による仲裁をするつもりなどさらさらない。これまでの経験上、言って通じたこともない。

 禿頭のドワーフがオークに向かって木椅子を棍棒のように振り上げる。ユーヴァンはその背後にすっと寄ると、禿頭に擬剣の一撃を叩き込む。

 その瞬間、擬剣に組み込まれた麻痺魔法が発動。禿頭のドワーフは一度だけ大きく体を震わせると、声もなく前のめりに倒れ伏した。

「なんだ?オークどもの連れか!?」

 仲間が沈む様を見たドワーフたちが、髭面に怒りを滾らせユーヴァンに襲いかかった。彼らドワーフは純人であるユーヴァンよりも頭一つ半ほど身の丈が低いが、太い体躯に似合わず器用で俊敏だ。得物を手に手に倒れた仲間を器用に跳び越え迫り来る。

 顔に振り下ろされる酒瓶を、ユーヴァンは左腕甲を盾代わりにして防ぎつつ、ドワーフの首筋目がけて擬剣を打ち込んだ。崩れ落ちる酒瓶のドワーフを見届けることなく、斬り返す剣で次のドワーフの小鎚を打ち払う。体勢の崩れたその首筋に麻痺の剣を叩きつける。

 ユーヴァンが三人ほどドワーフを昏倒させると、ようやく周囲の暴漢たちが異変に気づいて動きを止めた。

 オークの一人が牙を剥き、誰何の怒声を張り上げる。「てめぇ!どこのもんだ?」

「ドラゴンズベッド衛士隊所属」告げながら、ユーヴァンは擬剣を下ろして左腕が目に入るよう掲げた。腕甲に描かれているのは、衛士隊の証。切先を上向けた剣を囲むように飛ぶ、赤と緑と黒、三頭の翼ある竜の紋章。「第九小隊隊長、ユーヴァン・グレイソーン」

 衛士隊、の名にドワーフとオークたちが暴れまわるのを一たび止める。開拓都市ドラゴンズベッドの建設と入植が開始されて三年余。都市の治安と開拓地の防衛を担う衛士隊の役割と権限は、徐々にだが都市の住民に浸透しつつある。あってほしい、とユーヴァンは思った。

「破壊行為は即刻停止し、指示に従ってください」これで治まってくれれば助かるんだけど、と願いながらユーヴァンは暴徒に対する決まり口上を続けた。「損壊した器物、建物の修繕費については、あなたたちの所属組合ギルド首長に請求が行きます。拒めば開拓区域での…」

 しかしその口上は、大きな破壊音で打ち切られた。

 ユーヴァンが音の方向、酒場の入口を見るや否や、彼の視界を染みの付いた前掛けが埋め尽くす。咄嗟に前掛け目掛けて擬剣を立てるものの、柔らかい重量物がぶち当たる感覚によろけ、足元に伏すドワーフに躓いて転んだ。

 圧し掛かるものが白目を剥いた店主のオヤジだと気づき、押しのけて立とうとするユーヴァンに暗い影が落ちた。

 見上げれば、そこには夕陽を背に立つ大きな影。純人に倍する巨体に、見るからに硬い岩の肌を、縫い合わせだらけの薄汚れた外套で覆っていた。大戦前には、純人や妖精を好んで喰らう凶暴さと怪力、その不死とも呼ばれた頑健さで恐れられた種族。

 それが、右脇にうな垂れたドワーフを、左脇に酒樽を抱えて佇んでいた。

大岩鬼トロールっ?」

 ユーヴァンは思わず叫んだ。戦後に遭うのは始めてかもしれない。

「お、おで、どわぁふ、きらい」トロールは抱えたドワーフを放り捨てると、左脇に抱えた樽の麦酒をかぶ飲みした。「さけ、すき」

 林業に従事する樵組合が、最近、開拓地の木材の搬送のためにトロールを雇い入れた話はユーヴァンも聞いていた。ただトロールは魔神による知恵の授与を経ても、僅かに意思疎通ができるようになった程度で、些細なことでかつての凶暴さを取り戻すことから、外周区・開拓区画までの居住しか認められなかったはずだ。

 それが何故、市街にいるのか。

 ユーヴァンが考える間もなく、オークからトロールに声がかかった。「やっちまえ! ウグ・ス! 偉そうな純人なんざぶっとばせ!!」

 上体を起こしたユーヴァンには、まだ店主の体が載っている。見下ろすトロールの小さな眼と目が合った。純人の頭くらいもあろう岩の右拳が振り上げられる。トロールの振るう拳は、思いのほか疾い。

 店主を置いて転がり避ければ無傷で済む。ユーヴァンの頭をちらりと過ぎったその考えは、彼の体に血肉となって染み付いた誓いの一句に打ち消される。


 我ら、騎士は民の盾なり。


 誓いのままに体は動いて、店主の体を掴み、脇に押しのけた。

 トロールの拳が迫る刹那、またかとユーヴァンは後悔した。戦争中もこの誓いのせいで、顔面の右半分を抉られる重傷を負い生死の境を彷徨った。いまさら騎士でも何でもないのに何してるんだと、自分自身を罵倒した。

 そんなユーヴァンの目前で、ごつん、という鈍い衝撃音と共に岩の拳が逸れた。そのままトロールの巨体が横倒しなる。

 跳ね起きたユーヴァンが見たものは、トロールの右頬にめり込んだ大きく黒い鋼の拳だ。昏倒したトロールを置いたまま、拳は取り付けられた鎖に引かれて持ち主の元に帰ってゆく。

 鎖を辿れば、鋼の拳を右腕に嵌め直す鉄兜のドワーフがそこにいた。「待たせたな、大将!」

「ゴルファン」やっと来てくれたか、と安堵しながらユーヴァンは到着した部下たちを見遣る。鋼拳ドワーフの隣には、暴徒鎮圧用擬鎚矛を担いだオークがいる。「グラッグも」

「我々を待ってから向かってもよかったんじゃないですかね」オークの衛士隊員は、牙面に禿頭という一見醜悪な姿に似合わぬ丁寧な口調で続けた。「トロールがいるのは想定外だったでしょうが」

 衛士が三名となり、トロールが倒された。旗色が悪くなったことを感じ取り、一部のオークとドワーフが「やべぇよ」だの「今のうちずらかるか?」だの、互いに小さく声をかけながら、この場を逃れようとコソコソ距離を取り始める。

 途端に、逃げようとするドワーフとオークたちは、何かに弾かれるように倒れていった。

 エリルだ。ユーヴァンは酔漢たちに気取られないように、目の端で彼女の位置を確認した。酒場の向かいに建つ宿屋。その屋根の煙突の影に、妖精の射手が魔法銃を構えて屈んでいる。手元も見ずに、空になった魔力倉を銃把から引き抜き、新たな魔力倉を装填。エリルは正確無比の技術で、この場から逃げようとする酔漢たちに麻痺魔法を撃ち込んでいく。

 次々に倒れていく仲間を見て、観念したのかドワーフの工夫とオークの樵たちは争いを止めた。

 トロールが出てくるとは思わなかったものの、これがゴルファンの魔法推進式鉄鋼拳の一撃で倒れたお陰で、事はあっさり収まりそうだ。ユーヴァンは酔漢たちに向き直って告げた。「あー、とりあえず得物は下に置いて、両手を挙げて」

 おずおずと両手を挙げたオークの一人が口を開いた。「衛士の旦那、これには訳が……」

 流石に酔いも醒めかけて見える。喧嘩の理由など些細なことだろう。ドワーフとオークは生息域が重なっていたせいか、戦争前から仲が悪かった。遭えば即、殺し合う程度には。それが今は喧嘩で済んでいるのだから、何だかんだと両種族ともに変わりつつあるのだろう。

 それはそうとて、酒場や露店を破壊して良い理由にはならない。残業続きに寝不足で、ユーヴァン自身、言い訳に付き合える余裕もない。

「話は詰所で聞かせてもらうよ」

 ユーヴァンは腰の嚢から捕縛紐を取り出した。



「いいじゃねえか!トロールだって仕事してんだ。酒くらい飲ませろよ!」

「役人の犬めっ!」

 牢の鉄格子から聞こえる罵りに、ゴルファンが怒鳴り返した。「うるせぇ! おまえらこそ市の開拓事業で飯食ってんだろうが!!」

 ユーヴァンたち第九小隊の面々は、捕縛した酔漢たちを引き連れてドラゴンズベッド第三街区衛士詰所に来ていた。火の舌通りの騒ぎの後始末のためだ。屯所の番は非番だった第十小隊の二人、エルフのアルフレンとゴブリンの呪術師ダーハウに頼んでいる。

「魅了魔法の巻物を暴発させた莫迦のせいで、こっちも碌に休めてないんだけどね。一つ貸しだよ、グレイソーン」などとアルフレンはぶつくさ言っていたが、お互い様だとユーヴァンは心でごちる。これまでアルフレンの遅刻や欠勤を穴埋めした回数は、一度や二度ではきかない。

 檻のある留置用の地下階から二階の事務所に向かう道すがら、ユーヴァンは退勤間際に増えた仕事を指折り数えた。捕らえたドワーフとオークの代表者を呼んで聞き取り、報告書の作成、被害状況を第三街区担当の市政官に伝えて……あの半妖精ハーフエルフの市政官、美人だけどきついんだよなあ。おっぱいでかいけど融通利かないし。くそう、眠い。寝台が遠い。

「隊長、トロールが市街にいた件ですが……隊長?」

 体を揺すられ、ユーヴァンは事務所の椅子に座った自分に気づいた。顔を上げれば、グラッグの左牙の欠けた牙面が目の前にある。どうやらいつの間にか、事務所の席で寝入っていたらしい。

「どれくらい寝てた?」

「ほんの数分ですよ。しかし……」

「疲労、濃厚」向かいの席のエリルが、睨むような半眼でぼそりと言ってきた。「能率、低下」

「エリルの言うとおり疲労が濃いようだ。少し休んでは? 聴き取りは我々が進めておきます」

「そうさせてもらっていいかな」ユーヴァンはオークの副隊長の言葉に甘えることにした。部下が優秀だと本当に助かる。しみじみ思いつつ席を立つ。「寮で寝てくる。朝には事務所に来るから」



 †



 従属神〈病蒔くもの〉は東部大湿原の奥地に居を構えた。

 神々に準じるその力により、湿原の空を覆った暗雲に太陽は遮られ、草木は枯れ腐った。〈病蒔くもの〉の発する病を含んだ瘴気にほとんどの生き物は死に絶え、緑豊かな湿原は毒の腐沼と化し〈病魔の大湿原〉と呼ばれた。

 この〈病蒔くもの〉を駆逐する戦いは酸鼻を極めた。神官の加護を受けねば一刻も経たぬ内に病に倒れ伏す瘴気、魔法師の浮上魔法を施されねば歩むことも適わぬ泥土のなかを、諸種族連合軍は文字通り這うように進んだ。耳障りな羽音で中空から襲い来る〈大棘蝿〉、生者の肉を求めて徘徊する巨大な〈這い泳ぐ龍蟲〉、装備の隙間を縫って体液を吸う〈牙蛭〉、〈病蒔くもの〉の創り出した数多の奇怪な眷族と戦いながら、大湿原の深奥を目指した。


 役割は陽動の、はずだった。

 ユーヴァンの所属する部隊は、〈病蒔くもの〉を打倒する最後の作戦において、神の武具を下賜された勇者一行の負担を少しでも減らすために、眷族どもをできるだけ多く、少しでも長く引きつけ足留めする任を負っていた。ユーヴァンたち一般兵卒が、群れ成す眷族を留め、敵の層が薄くなった間隙に、勇者と支援者、護衛戦士たちから成る本隊が〈病蒔くもの〉との決戦に挑む。そんな手はずだった。


「ちくしょう、聞いてないぞ!」冷たい雨の降る暗天の下、ユーヴァンは目前に迫る甲殻の触腕を剣で斬り飛ばした。しかし触腕は斬られたそばから複数に増殖してまた襲い来る。触腕を掻い潜るように避けて駆けながら、ユーヴァンは触腕の源を見ようとした。

 黒い霧に霞んで遠く、触腕の元の実態は杳として知れない。ただ城のように巨大で暗い何かが、ざわざわびしゃびしゃと蠢く水音を立てて少しずつ、少しずつ移動していた。


 陽動のはずのユーヴァンたちに向かって、〈幼稚なる神〉の従属神が一柱〈病蒔くもの〉が、無数の眷族とともに迫っていた。


「いやはや森の外は予想外、奇想天外の連続だねぇ」右耳の半分削げたエルフが、中空から降下する大棘蝿を弓で射落とした。「どうするグレイソーン? 撤退するかい?」

 アルフレンに問われ、ユーヴァンはこの場の生き残りを数えた。陽動部隊の隊長は既に、触腕に絡め取られて黒い霧の向こうだ。残ったのはユーヴァンを含めエルフ、ドワーフ、オーク、ゴブリンからなる四十二名。この地点に至るまでに、野営地を出発した数の半数を切っている。

 作戦はほぼ失敗と呼んで良かった。〈病蒔くもの〉自身の移動と参戦により、〈病蒔くもの〉は眷族の損耗を抑えて諸種族連合軍を蹂躙できる。勇者の持つ神与の武器とて、眷族の群れの厚い層を越えて従属神本体に届くかどうか。

 この大湿地の深奥に辿り着くまでに要した時間は、実に七ヵ月。払った犠牲は二千を軽く越える。そして今は続く戦いに諸種族全てが数を減らしている上に、未だ三柱の従属神が健在だった。

「撤退して、再起できる可能性は皆無だ」ユーヴァンは答えた。「僕なら、賭けに出る」

 大湿原に散在する眷族がこの場に集結を果たす前に、勇者が〈病蒔くもの〉に対すれば。あるいは。

「なら指示を出せ、ユーヴァン・グレイソーン」

 アルフレンの言葉はいつになく真剣なものだった。野営地で巨乳の従軍娼婦を追い求める姿からは想像もできない。

「どうして僕が?」ユーヴァンは剣の切先で黒い霧の向こうを指し示した。「隊長はあっちだぜ」

「エルフの言うことをドワーフは聞かない、ドワーフの言うことをオークは聞かない、オークの言うことをエルフは聞かない、ゴブリンの言うことは皆聞かない」アルフレンは漫談のようにおどけて言った。それが諸種族連合軍の現実だった。「そして今、ここに残ったヒューマンの戦士は君だけだ」

 身の丈に合わない役割だ、とユーヴァンは思った。しかし、避けてはならない局面であることも理解している。かつて剣の師ソーンは言っていた。「わしらは常に、自ら選び続けねばならぬ」と。

「ダッグァはいるかい?」

「なんでやすか?」

 ユーヴァンが呼ぶと、鎚矛を担いだゴブリンが駆け寄ってくる。大湿原において、唯一、ゴブリンだけが病の瘴気に耐えて動くことができたことから、その多くが斥候として働いていた。

「本隊に走って伝えてくれ」〈病蒔くもの〉を前に唯一残った純人は、ゴブリンの古強者ヴェテランに告げた。「僕ら南西方面第二中隊が〈病蒔くもの〉を足留めする。勇者一党は至急、当方に合流されたし、と」

 ゴブリンの預かる一兵卒の言葉に、軍が、勇者が動くか否か。

 ユーヴァン・グレイソーンは大博打を打った。


 それからのことを、ユーヴァンはあまり憶えていなかった。部隊の生き残りに号令を発し、ドワーフの戦士を絡め取った〈病蒔くもの〉の触腕を斬り払い、裂いた大蛆の臓物にまみれた。折れた剣を捨て、戦友の骸の手から剣を奪い取り、こと切れたエルフ魔法師を踏み越えて戦った。幾度も死にかけ、オークの侍祭の小加護で回復し、また死にかけて。その侍祭も〈這い泳ぐ龍蟲〉に喰われて。

 疲労が肉体に降り積もり、重なる戦友の屍に精神が磨耗する。剣を持つ腕が上がらない。浮上魔法が効果を失い、足が泥にはまり込む。剣を地に刺さねば立ってもいられない。自分の他に立っている者がいるのか。何と戦っているのか。どうしてここにいるのか。自分は果たして生きているのか。それさえ、わからなくなった頃


 炎の鷹が、地を翔けるのを見た。


 鮮烈に、太陽の昇る地平のように、炎の鷹は触腕の伸びる黒い霧の向こうへと翔け抜けて、暗天を紅に染めた。

 雲が割れ、陽が射し込める。大湿原においては実に六年ぶりの陽光に、戦場の誰もが〈病蒔くもの〉が討たれたことを理解した。

 そして黒い霧が消え、陽光を背に歩んでくる影があった。兜はなく、ゆるく束ねた長い赤毛が、歩みに合わせて不規則に揺れている。盛り上がった胸甲が、孤影が女であると告げていた。その両手にはそれぞれ剣がある。浄化の火神より下賜された双子剣、斬華と翼昇だ。

 諸種族連合軍〈病魔の大湿原〉攻略の切り札、火神の加護を受けた女勇者ララノア・ローズブレイズがそこにいた。


 剣を彩った紅の輝きは既にない。ふらふらと、女勇者はどうにも覚束ない足取りで歩む。その表情は髪に隠れて見えないが、上下する肩から消耗している様子が見て取れた。そんな彼女が、ユーヴァンのほど近くまで来た時にそれは起こった。

 泥土が盛り上がり、甲殻に覆われた長い巨体がうねりながら現れる。獲物を捕らえるために発達した鉤爪の前肢は、細かい棘の殻に覆われている。頭部には竜のような二本の角と、無数の複眼、無数の牙を生やした大顎がある。

 一匹の〈這い泳ぐ龍蟲〉が、女勇者に狙いを定めたのがユーヴァンにはわかった。朦朧とした頭の中に、即席の騎士叙勲式で述べた誓句がどうしてか浮かんだ。


 我ら、騎士は常に貴婦人の守護者たらん。


 そこで意識は途絶え、目を覚ましたのは野営地の医務天幕だった。顔の右半分を抉り取られたと知ったのは、勇者付きの高位神官が現れてからのことだ。



 板戸の隙間から射し込む陽の光に、ユーヴァンは目を瞬いた。

 討神大戦末期のことを、大湿原の決戦のことを夢に見た。昨日、似合わぬ騎士の誓いなど思い出したせいなのか。自身で思っていた以上に"騎士になった"ということに、強い拘りがあったらしいことに気づかされる。戦地に赴く若い兵に贈られた、即席の簡易叙勲だったというのに。

 寝台から身を起こしながら、無理もないかとユーヴァンは心の中で自答した。戦争中は、故郷に帰って隣領の騎士家に婿入りして、下級貴族として生きていくものだと思っていたから。

 なら今は? と、自問が浮かぶ。騎士の身分を捨てた今も、なぜ誓いに縛られているのか。

 自室を出て、寮共同の洗面所で桶に井戸の水を汲み、顔を洗う。水鏡に映るのは、引き攣れ、大きな傷痕の残る右半顔だ。どう贔屓目に見ても醜い。右の口の端は少し吊り上り、苦笑しているようにも見える。ゴブリンたちが「〈苦笑い〉の旦那」と呼ぶのはそのためだ。

 戦争で得たものは、大きな傷痕と幾ばくかの恩給。失くしたものは、多くの戦友、幼馴染の婚約者と思い描いた未来。

 あの戦いにおける決断が正しかったのか、ユーヴァンは今でもわからなかった。治療に当たった高位神官は、女勇者のために準備していた治癒の加護を幾重にもユーヴァンに使ってくれた。大きく傷痕が残ったものの、右の眼球が復元し、視力が戻ったのはそれこそ地母神の奇跡だと言っていたが。

 手拭で顔をぬぐいながら自室に戻る。本来なら今日は終日非番のはずで、溜まった下着、肌着でも洗おうと思っていたのだが、昨夜の大騒ぎの報告があるのでそうもいかない。

 ユーヴァンは、汚れた肌着の山から比較的清潔なものを選ぶ作業に取り掛かった。



 †



 詰所で報告のまとめにかかろうとしたユーヴァンを待っていたのは、衛士大隊長の呼び出しだった。ユーヴァンは何事だろうと思いながら、執務室を目指して階段を昇る。昨日の件では珍しく第九小隊員による器物の損壊はなかったので、特に呼ばれるようなことはないはずだった。

 ユーヴァンが執務室の扉を開けると、長衣の竜人ドラゴニュートが開け放った戸から市街を見下ろしていた。衛士隊大隊長のヴァミスラクスだ。ドラゴニュートは文字どおりドラゴンの特徴を持つドラゴンの下位種族であり、直立した姿を持ちながらその特徴はドラゴンのそれだ。牙を持つ蜥蜴に似た顔、後頭部には大きく張り出した二本の角があり、体表を覆う鱗は金属に近い輝きを帯びている。鱗の色は個人で異なり、ヴァミスラクスは青銅色だ。

 ヴァミスラクスは縦長の虹彩で部下を見ると、しゅるると牙の合間から呼気を漏らしながら言った。「トロ―ルが市街に出たそうダナ」

 ドワーフとオークの喧嘩など、誰の気にも留まらないよくあることだ。しかしトロールという例外的な要素があったためか、ユーヴァンが報告書を出すまでもなく事件は上司の鱗耳に入っていたらしい。

「はい。オークの樵たちが、一緒に酒を飲もうと考えなしに引き入れたようです」

 グラッグの聴き取りによれば、トロールには外套を着せ、オークたちよりも一回り大きいオーガに偽装して市街に入り込ませたとのことだったが、ユーヴァンにはこれが少し引っかかった。トロールの大きさは、オークの大きさの一回り上どころではない。戦時の兵役経験者が多い市壁の門番が、うっかり見逃すものだろうか。

 確かめようにも、オークたちは樵組合の幹部によって罰金が支払われたため、既に拘留を解かれている。ドワーフたちはまだ檻の中だが、これも数日で開放されることだろう。多種族が寄り集まったせいで昼夜を問わずいざこざや犯罪の多いこの街において、酔っ払いの喧嘩程度で幾日も拘留していては牢が幾つあっても足りない。

「近頃、市内にあるべきでないモノが持ち込まれてイル」ドラゴニュートの大隊長は、再び市街に目を向けた。「禁制の魔法の巻物マジックスクロール、強化甲冑の部品、水薬ポーション……どれも戦争末期に濫造された粗悪品だガナ」」

 ユーヴァンは、アルフレンが昨夜の引継ぎ際にそんな事をぼやいていたなと思い出した。莫迦なヒューマンの男が、夜間商店の女エルフをかどわかそうとして禁制の〈魅了〉の魔法の巻物を手に入れ使ったものの、これが暴発。魅了の魔法が商店の店員と客に、男限定で度を越えてかかった。ヒューマンの男はオーク、ドワーフ、ゴブリン、果てはオーガに尻を狙われ追い掛け回されたそうな。

 事態の収拾のため、アルフレンたち魔法を使える衛士が、魅了魔法の解除のために深夜の市内を駆け回ったという。ユーヴァンに魔法の素養はないので、想像することしかできないが、さぞ大変だったのだろうと思う。いくら仕事でも、盛りのついたオークやオーガたちの相手などご免だ。

 魔法の巻物は魔法を使う素養のない者でも、一度きりなら魔法が使える高価な道具だ。通常、魔法師組合が厳正に品質を管理して製造し売っていたものだが、討神大戦も末期になると人員不足で品質管理が甘くなり、使うと暴発、予期せぬ効果を発する粗悪品が多く出回った。そのため今では一般に販売することが禁じられ、各国の軍、または魔法学究機関でのみ製造と使用が許可されている。

「検問が怠けてる、と言ってしまうのは少し酷ですかね」

 市壁の門で、門番とともに市内に入る物品の正邪、呪いの有無を診断する知識神の司教が激務なことは、ユーヴァンも知っていた。たまに行きつけの酒場で愚痴ったり泣いたりしている。おれたちは鑑定の道具じゃない、と。

「検問で鑑定の権能を使ウ司教の数にも限りがアル」ヴァミスラクスはユーヴァンに目を向けた。「市内に入る物品全てに目を通せるものではナイ」

「門番や検問担当官が、買収されたか脅迫された線もありえそうですが」

 門番が金に目を晦ませ、あるいは弱みを握られ密輸や密入国に手を貸す。ヒューマンの国々にはよくある話だ。

 禁制品の密輸と、トロールの侵入。つながっていてもいなくても、放置すれば市街の治安は悪化の一途を辿る。

「グレイソーン。君の隊にはオークがいタナ」

 その言葉に、ユーヴァンは大隊長ヴァミスラクスが自分たちに何をさせたいのかわかった。「了解しました。第九小隊はトロールの市内侵入事件の調査に向かいます」



「で、おれはこの妖精エルフ娘と組まなきゃならん、と……」文字通りの鋼の拳を持つドワーフは、うんざりした様子で上司に訴えた。「こんなこたあ言いたくありませんが大将、替われませんかい?」

「後文、同意」エルフ娘も眉根を寄せて上司に訴える。「ドワーフ、不要」

 ユーヴァンが事務所のゴルファンとエリルに〈黙竜門〉こと第二通用門に向かうよう指示すると、案の定不満がぶちまけられた。ドワーフとエルフは古来より仲が悪い。種族的な因縁の歴史があり、双方ともにそれを聞いて育つためだという。曰く、太古に三体の劫火の魔物が顕れ、大地を焼き尽くそうとした。エルフとドワーフが協力して軍団を編成、これを討伐せねばならなくなったとき、集合の約束をした〈赤風の平原〉に、エルフ軍が遅れたためにドワーフたちは多くの犠牲を払うことになった。エルフたちは信用ならない。いやエルフは遅れてなどいない、ドワーフ軍が先走っただけだ。我慢の利かないドワーフは役立たずで足を引っ張る……等々。

 どっちも自分たちの種族に都合が良いように歴史を改ざんして伝えてるよなあ、というのが、エルフでもドワーフでもないユーヴァンの感想である。

「無理言わないでくれよ二人とも。こっちはオークばかりの樵組合に向かうんだ。ドワーフやエルフがいたら、聞ける話も聞けなくなる」

 そしてエルフとドワーフ共通の敵対種族がオークだった。魔神による知恵の付与によって、会えば即、殺し合うようなことはなくなった。お陰で戦中は協力して事に当たることができたが、平時ともなれば根底にある互いの苦手意識や嫌悪感が蘇ってくる。

「まあまあ二人とも。樵組合へは、やはり私とヒューマンの隊長が適任でしょう」

 エルフとドワーフ、双方の敵であったオークのグラッグが、第九隊の中でもっとも冷静で中立的なのは魔神の悪戯だろうかとユーヴァンは思う。これでグラッグまで種族的因縁を持ち出してくるようだったら、自分はきっと三日もたずに小隊長を辞めていた。

「グラッグの言うとおりだ。二人は門番を訪ねて、出入管理台帳を確認してほしい。ここ三日分くらいでいいから。それが済んだら門番や検問の司教に、最近何か変わったことがなかったか聞き込みを頼むよ」

「「……」」

 ゴルファンが腕を組んでもじゃもじゃの顎髭を引っ張り、エリルが襟巻きに顎を埋めて考え込むような素振りを見せる。

 互いに割り切れないものを抱えていても、理をもって説けば、二人はなんだかんだと言いながらも指示に従ってくれる。そのことをユーヴァンは知っていた。第九小隊が今の人員で構成されて二年。全員お互いここまでの信頼を築くまで、紆余曲折あったけれども。

 豪放なゴルファンは人当たりもいいし、美貌の種族・エルフであるエリルは黙っていてもヒューマンを魅了する。二人を聞き込みに向かわせるのは、あながち間違った人選でもない、と思う。

「門ではおれが話す」先に口を開いたのはゴルファンだった。「邪魔すんなよ〈枯れ枝女〉。おまえはヒューマンどもに愛想でも振りまいてりゃいいさ。あ。無理か」

 無愛想さを揶揄されて、エリルも負けじとゴルファンを見下ろすと吐き捨てるように。「問答不用、〈髭酒樽〉」

 ドワーフとエルフが睨みあう。たぶん、間違った人選でもない。ユーヴァンはそういうことにしておこうと思った。

「さあ、装備を確認して聞き込みに向かおうか」ユーヴァンは事務所の壁にかけた擬剣を手に取ると、剣帯に吊った。「日が暮れる前に終わらせて、今夜は〈夜明け前ビフォアドーン〉に飲みにでも行こう」



 †



 樵組合の市内事務所は、ユーヴァンら第九小隊から第十二小隊の担当する市内第三街区西門、通称〈黙竜門〉の近くの倉庫街にある。詰所からは徒歩で半刻ほどの距離だ。

 乗合馬車でも出ていれば便利なのに、とユーヴァンは思う。しかし発展途上のこの都市はまだまだあちこち整地されていない道も多く、自制の効かない人喰大鬼などが馬を襲ってしまう危険もあることから、乗合馬車の業者参入が進んでいない。

 なので第九小隊全員、目的地までは徒歩だ。衛士はその職務上、市街を駆け回ることになるため、その装備も軽量・柔軟に重きを置いたものになっていた。ユーヴァンも上体は軽めの鎖帷子に薄鋼の胸甲、左腕のみ鋼の腕甲、下体は革筒袴ズボンと革長靴だけだ。兜だけは戦中から愛用している良質のもので、荒事の際に被れるように今は腰に吊っている。

 他の隊員たちも似たようなものだ。異なるのはそれぞれの得物だけ。ユーヴァンは長柄剣型の擬剣、グラッグは鎚矛型、ゴルファンが戦鎚型の鎮圧装備を持っている。エリルのみ、その技能と役割から金属製の装備はほぼ帯びず、硬革鎧に長めの外套という出で立ちだ。

「僕がここに来た頃はこの辺り、何もなかったのになあ」

 ユーヴァンがこの都市にやってきたのは、今からおおよそ三年前。ドラゴンが大戦中に地上の民の避難地として開放したこの土地が、戦後、地上に譲渡され、そのまま街となって間もなくの頃だ。その頃は避難民たちの暮らす天幕がまだ無数にあり、店を構えた商店など皆無。建物らしい建物と言えば、政庁舎と呼ぶのもおこがましい木造の土塁城があっただけだった。

 それが今、見渡せば、道はかつてより幅を広げ、一部は石畳で舗装されている。食料品や、農具、武具の看板を掲げた商店が立ち並び、開拓地で採れた芋や麦をヒューマンやオークの農家が売りにやってくる。

「確かに急速に発展していますね。ドラゴンから譲渡された鉱山の操業が、軌道に乗ったのが大きいでしょう」

 グラッグの視線の先には、二台の荷車を牽いて運ぶドワーフたちがいた。積まれた荷は、精錬済みの鋼、銀と思しき鋳塊インゴット。都市近郊の鉱床からは良質の金属が採掘され、他国の商人が買い付けにくるまでになっており、鉱工業はこの街の収益を担う一大産業となっていた。

「ま、おれたちドワーフのお陰ってやつだな」ゴルファンが誇らしげに己の髭を撫ぜた。

 確かに鉱床の調査、鉱石の発掘と精錬の技術について、ドワーフたちの右に出る者はいない。ドワーフは神々が岩から造り出した種族である、なのでドワーフが鉱物を扱うのは、純人が己の手足を使うのと同じようなものなのだ、なんてことも言われている。彼らの発掘・鍛冶組合ギルドの複数参入は、街の発展に大きく影響していた。

 ドワーフが偉そうにしているのでエリルが何か言い出すのではないかと、ユーヴァンが見遣ると目が合った。

「心外」

 ぼそりとそれだけ言われたので、ユーヴァンは「ごめん」と謝った。彼女なりにドワーフたちの功績は認めているのだろう。

 その後は、目的地まで隊員同士で四方山の話をしながら進んだ。グラッグが家族寮の屋根が雨漏りするのでなんとかしてほしいと言ったり、エリルが珍しく数日休みがほしいと言い出したり。そんな隊員たちの愚痴とも陳情とも言える話に、上司との板挟みになるユーヴァンは内心で頭を悩ませる。僕には何の権限もないんだけどなあ。

 大隊長と、担当市政官のシエルミア女史に言うだけ言ってみるか。ユーヴァンがそんなことを考えてると、ドラゴンズベッド西の大門、その門壁上に黙竜門の名の由来となった、顎と眼を閉じた竜頭の塑像が小さく見えてきた。

 ユーヴァンは腰の皮嚢に入れた、手のひら大の小球の感触を確かめた。「遠話水晶はあるね?」

「おうよ!」

 これから行動を異にするドワーフとエルフ組は、ゴルファンが答えた。

 遠話水晶は、市内限定で互いの会話を可能とする魔法の道具だ。高位の魔法師が遠隔地を見、聞くために造る〈遠見の水晶〉という魔法の道具が元となっている。衛士隊の嘱託魔法師〈魔女〉ことピヨンが開発したもので、衛士隊では市内の捜査に当たる二人組に一つ、必ず貸与される。初めてこの遠話水晶を使って会話をしてみた際、ユーヴァン含め、兵役経験者の多い衛士隊員たちは、こぞって「戦中にこれがあれば……」との感想をもらした。

 ユーヴァンは職工街手前の十字路でゴルファンらと別れると、グラッグを伴って樵組合〈斧の友〉の事務所を目指した。倉庫街は職工たちの工場こうばが軒を連ねる通りを抜けた先にある。

 伐り出したばかりの新木のにおいに、鋸、鎚の音がそこかしこで響く。開拓地で伐り出された木材は倉庫街に置かれ、その多くがこの職工街で加工されて売りに出される。ヒューマンの職人が切り出して板にしたものを、その徒弟らしい少年が戸板に組んでいる。その隣の工場では、ドワーフの職人が槍の柄に精緻な彫刻を施していた。目に入る職人たちの多くはヒューマンかドワーフだが、稀に徒弟らしき若いオークもいたりする。

 職人たちと買い付けの商人で賑わう職工街を抜けると、やや閑散とした空間に出た。大きな天幕が立ち並び、その中には伐り出したばかりで皮付きの丸太が積まれている。人影と言えば、各天幕に二、三名ずつ見張りと思しきヒューマンやオークが立っている程度だ。

「調書の記録では、この辺だったよね?」

「そうですね。看板があるはずですが……」

 記憶を頼りにユーヴァンは周囲を見渡す。天幕に混じって、煉瓦造りの建物がちらほらとある。やがてその一つに掲げられた木造りの看板に、斜めに交差する斧と剛腕の彫刻を見止めた。聴取記録に記載された〈斧の友〉の紋章だ。「あれだね」

 近づくと、樵組合ギルド〈斧の友〉事務所の建物は想像以上に大きかった。純人やオークが出入りする門の他に、通りに面した壁面が大きく口を開けて中の丸太と材木を覗かせている。倉庫を兼ねた建物のようだ。かかった費用も相当なものだったろう。他の多くの樵組合が天幕で済ませているところに、煉瓦造りの倉庫を建てているのだから。〈斧の友〉は儲かっているのだろう。

 ユーヴァンたちが看板下の門をくぐると、眠そうな目をしたヒューマンの樵が、切り株を椅子代わりに斧を研いでいた。

「なんだてめえは?」

「衛士隊の者だけど、組合長はいるかい?」

 衛士など歓迎されないのはわかりきっているので、ユーヴァンは用件だけを端的に言った。

「…そっちへ行って」顎をしゃくって樵が示す。「つき当たりを左だ」

 あちこちに木屑の散った廊下をグラッグと進むと、すぐに天井の高い大きな空間に出た。ところ狭しと丸太と材木が並び積まれ、組合のオークたちがその合間を縫うように動いている。ヒューマンもいるが、全体の二割にも満たない程度だ。

 その一角で、積まれた材木に立った男が、ひと際大きく野太い声で怒鳴った。「そろそろ昼前の分が来る! おまえらさっさと運び出さねえと給料減らすぞ!」

 怒鳴り声に、緩慢だった組合員たちが動きを速める。彼らはユーヴァンたちが入りがけに見た壁面の大きな口から、材木を担いで外へ運び出し、荷車に積み替えていった。

 あれが組合長だろう。当たりをつけて、ユーヴァンは材木の山の麓に立った。「失礼、あなたが〈斧の友〉の組合ギルド長ですか?」

 身の丈はユーヴァンと同じ程度か。丸太の上の男は足下を見下ろすと、よく褐色に日焼けした四角い顔に訝しげな表情を浮かべた。「なんだ、おまえたちは?」

「我々は衛士隊第九小隊の者です」

 ユーヴァンが丸太の山頂に呼びかけると、四角い顔の男がほんの一瞬、目に怯えを覗かせたように見えた。何か後ろめたいことがあるのか。組合をここまで大きくしたのだ。大なり小なり、何かやらかしているのは間違いない。

「昨夜の件で、少し聞きたいことがあるんですよ」

 その言葉に、男は慌てたように丸太の山頂から降りてきた。覗かせた怯えなど、欠片も感じさせない愛想笑いを浮かべてしゃべり出す。「俺が〈斧の友〉の組合長です。この度はうちの莫迦どもがとんだ迷惑を……」

「謝罪は酒場の店主にしてください。それよりも、トロールを市内に入れたことについて……」

 ユーヴァンが用件を切り出すも、聞いているのかいないのか。組合長は笑みを浮かべたまま喋り続けた。

「うちもオークどもには困ってるんですよ。金の使いかたを覚えたかと思ったら、時も場所も弁えず飲むは食うは博打を打つは。給料を渡した日に娼婦買って使い果たして、食えなくなって前借りにくる輩もざらだ」

 単純に、現在はヒューマンの樵よりもオークたちを使うほうが賃金が安く済む。それで儲けている連中が、何処の口で言うのか。そんなことを思いながら、ユーヴァンはとりあえず組合長にしゃべらせ続けた。

「魔神とやらも、何を考えて連中に知恵など……」言いかけて、樵の組合長は口をつぐんだ。「おや失礼」

 ここにきて漸く、組合長はユーヴァンの後ろに控えたオークが、衛士の装備を付けていることに気づいたらしい。

 ユーヴァンもグラッグも、ヒューマン側のオークに対するこの程度の侮蔑には慣れていた。グラッグなどは「まあ、ほぼ事実ですからね」と苦笑をよく浮かべている。「オークのほうが、学ばなきゃならないことが多いんです」とも。

 オークのグラッグがいては、この組合長も言い難いことがありそうだ。そう判断して、ユーヴァンは指示を出した。「グラッグ、樵たちのほうを頼むよ」

「了解です。隊長」

 離れていく真面目なオークの背から目を離すと、ユーヴァンは質問を再開した。「そちらのオークたちがトロールを市内に引き入れた方法ですが、どうやったか知っていますか?」

 今まで、組合長に聴き取りはしていない。ここでオークたちの証言と食い違えば、取っ掛かりになる。既に口裏を合わせているなら、それはそれで構わない。グラッグとゴルファンたちの聞き込みと合わせて判断するだけだ。

「ああ、連中にしては、ない知恵を絞ったみたいですな。現場で飼って……」言いかけて、組合長は慌てて修正した。「いやいや、"雇った"トロールに情なんぞ湧かせて。火の舌通りまでは、うちのでかい荷車に載せていったようです。こう、材木を積んで四方を囲ってね。で、酒場に入るには外套を着せて。聞けばなんでもあのでかい外套、連中が古着を持ち寄って作ったらしいですな」

「門の検問はどうやって?」

「同じですよ。材木で囲って……」

 組合長が言葉を切って、脇を見た。

 その視線を辿ると、倉庫中央の床面があらわになっていた。木材が外に運び出され、あらわになったその場所に敷き詰められた黒い大理石が、幾重にも刻まれた呪文の白い溝を輝かせ始めている。

 ユーヴァンはそれに見覚えがあった。数年ぶりに目にするそれに、思わずその名が口に出た。「転送陣?」

「衛士殿もよくご存知ですな。現場から昼の便が到着するんですよ」

 転送陣は大戦中期以降、城から砦へ、砦から駐屯地への物資輸送に活用された魔法技術だ。高位の魔法師が使う瞬間移動・転移魔法を、より大規模に、術師の有無に関係なく行使できる。二地点間のみ、一方通行という制限と一日の使用回数に限りがあったが。

 当時の諸種族連合軍は、この技術で物資の輸送を大幅に効率化することができた。

 現在、転送陣は魔法師育成機関の最高学府〈兄弟会〉の認可を受けた魔法師組合ギルドのみが、高額と引き換えに設置を請け負っている。

「つないでいるのは、開拓地とここ?」

「ええ、現場で伐り出した丸太を、昼前に一回、昼過ぎに二回、こいつを使って送らせてます。さすがに全ての丸太は陣に載せきれないんで、そっちは荷車とトロールで運びますがね」

 転送陣を使えば、陣内に納まるものであれば何でも重量に関係なく、一瞬で移動させることができる。そこには壁も距離も関係ない。そんな転送陣は、密輸には最適な技術ではあるが、密入国には向かなかった。ある程度知性のある生命を移動させようとすると、どういうことか三度に一度の割合で事故が起きるのだ。転送事故を起こした生命は、臓物と表皮が裏返る、陣の床面と融合するなどしてほぼ必ず死ぬ。あるいは死んだほうがましな状態になる。

 転送陣でトロールを移動? 事故死の危険を冒してまでやることだろうか。また仮にオークたちにその知識なかったとしても、この組合長が使用を許可するとも思えない。たまたま転送陣があっただけか……ユーヴァンが思いを巡らせる間、転送陣の輝きは増してゆく。

「格安で設置を引き受けてくれる魔法師組合がありましてね」ユーヴァンが何を言うまでもなく、組合長は転送陣の説明を続けた。まるで何かの嫌疑を晴らすかのように。「あ、ちゃんと政庁には届けを出してますよ」

 衛士を名乗った際に見えた怯え。矢継ぎ早に言葉を重ねる今の態度。ユーヴァンはこの組合長に引っかかるものを感じながらも、何かの確証を持ててもいなかった。

 転送陣の白い輝きが最高潮に達し、倉庫内を眩く白く塗りつぶす。輝きが消えた後には、転送陣の上に大量の丸太があるはずだった。

 しかし今、そこあるのは……否、のは

 膝を着き、屈めた身でも、立った大岩鬼ほどもある。立ち上がれば身の丈はその倍、純人の四倍はあろう。肩、胸、脚へと隆々と盛り上がる筋肉が、内に秘めた純粋な破壊の力で見る者を圧倒する。その俯いた顔がゆっくりと上がると瞼が開き、赤く血走った眼がユーヴァンを見止めた。


 巨人ギガントが、そこにいた。


 巨人は屈んだその身をよじらせると、ひとたび咆哮を上げた。

 ―――――ッ!!

 倉庫に轟き渡るその声、威容に、周囲の者が身を竦ませる。

 巨人が何故?どうしてここに? 転送陣から跳び退きながら、ユーヴァンは駆け巡る思考を内に押し込めた。今はあれこれ理由を考えている時ではない。血走った眼と、荒い息。強く喰い締められた顎。目の前の巨人は明らかに興奮状態にある。暴れ出されでもしたら、衛士の一小隊規模ではまず止められない。

 今回ばかりは応援を要請しても文句は出まい。ユーヴァンが腰の遠話水晶球に指を這わせた瞬間

「な、なんじゃこりゃああぁぁぁっ!」

 組合長の叫びに、巨人はビクリと巨体を震わせた。

 あ、まずいことが起こる。戦地を駆けて培われた直感に身を任せ、ユーヴァンも叫んだ。「皆、逃げろっ!!」

 ―――――――――――――ッ!!

 いま一度の咆哮は、長く、大きく。

 両耳を押さえたユーヴァンの前で、巨人が弾かれるように立ち上がる。倉庫の天井は障害にもならず破れ落ち、崩れた煉瓦が崩れ降り注いだ。

 立ち込める埃に視界が煙る。何とか巨人を視界に収めようと後ろ向きで駆けながら、ユーヴァンは遠話水晶球を掴んで口元に寄せた。「衛士隊本部へ応援要請! 第三街区倉庫街に巨人出現、数は一! 繰り返す! 第三街区倉庫街に巨人出げ……」

「隊長!無事ですか!?」グラッグが呼びかけながら駆けて寄ってくる。「いったい何が……」

「木材搬入用の転送陣に、興奮状態の巨人が送り込まれてきた」それ以外のことは、ユーヴァンとてわからない。

 ヴヴ…と遠話水晶球が震えて通話要請を伝えてきたので、すぐさまユーヴァンは遠話を再開した。「こちら第九小隊ユーヴァン・グレイソーン」

『ヴァミスラクスだ。こちらも監視員が巨人を観測シタ。応援を馬で向かわセル。到着まで君の隊で何とか凌いでクレ。何としても、居住区に被害を出スナ』

 本部の指示はそんなところだろう。毎度のことだけど無茶を言ってくれる。さてどうするか。考えながら、ユーヴァンが片手で器用に兜を装着していると、また遠話水晶球が震えた。

『大将、すげえ音が倉庫街の方角から聞こえてきたが、何があった?』通話元はゴルファンだ。『エルフ娘が「巨人」とだけ言って魔法銃の準備始めてやがるが。まさか……』

「そのまさかだ、ゴルファン」エルフは耳が良い。咆哮の声から巨人の出現を知ったのだろう。「二人とも大至急こっちに合流」

 してくれ、と言う暇はなかった。

 薄くなってゆく埃煙の中。巨人が右手に持った丸太を振り上げ、倉庫壁面に向かって振り下ろす。

 轟音とともに崩れ去る煉瓦壁。その残骸に手をかけ、巨人は倉庫の外へと跳び出した。

「隊長、本部は?」

「じき応援が来る。それまで凌げとさ」グラッグの問いに、ユーヴァンは兜の面頬を下ろしながら答えた。かつて倉庫だった空間に、怪我を負った組合員たちが呻いている。無事な者は既に逃げ出した後だ。幸い、グラッグは魔神の侍祭の位階を持ち、小治癒の加護を使うことができた。「僕は巨人を追いかける。グラッグは怪我人の処置と避難誘導を」

「了解です」グラッグは胸に細鎖で吊った魔神の御印に手を当てた。「こちらが済んだらすぐに合流します」

 グラッグを倉庫跡に残して、ユーヴァンも壁の残骸を飛び越え駆け出した。駆けながら擬剣を抜いて、右肩に担ぐ。こんなことなら実剣を持ってくるんだと悔やんだが、後悔先に立たずだ。今後気をつけよう。こんな状況、気をつけようもないけれど。

 倉庫街は、既に逃げ惑う市民で大騒ぎとなっていた。巨人は滅茶苦茶に丸太を振り回して天幕を吹き飛ばし、丸太の山を蹴り崩す。打ち壊した樵組合事務所に足を載せると、周囲を威嚇するようにまた吼えた。

「衛士隊です! 市民の皆さんは都市中央に向かって避難してください!!」

 巨人が何処に向かうか見当もつかないが、今はそう言うしかない。少なくとも衛士隊の応援は中央方面からやってくるはずだ。金槌を持って逃げるオークとすれ違いながら、ユーヴァンは巨人の側面から接近した。巨人が気づき、こちらを向く前に下肢の力みを消して距離を詰める。かつて師から習った、接近を気取られない足運びだ。

 巨人が気づいて首を巡らせるも、既に遅い。ユーヴァンは巨人の足元に至ると、擬剣に全身の重さを載せて巨人の左膝に叩き込んだ。麻痺魔法の込められたその一撃は、トロール程度なら容易く昏倒させるのだが。

 ――ッ!

 巨人は呻くような咆声を上げ、片膝を着くだけにとどまった。

 最初からこれで片付くとはユーヴァンも考えていない。目的は巨人の意識をこちらに向ける、それだけだ。

 目論見どおり、巨人は怒りに満ちた血眼をユーヴァンに据えると、この厄介そうな小さな生き物を薙ぎ払わんと丸太を振り上げた。

 飛びずさって丸太を避け、後退しながらユーヴァンは叫んだ。「そうだ!こっちへ来い!」

 職人街、居住区の反対方向、第三街区北西に向かってユーヴァンは駆ける。それを追う巨人は時折苛立ったように黒い頭髪を掻き毟りながら、走り、吼え、丸太を振るう。

 真っ直ぐ走っていては、足幅の差から簡単に追いつかれてしまう。なのでユーヴァンは幾度も道の角を曲がり、倉庫天幕に隠れ、また姿を現して巨人を翻弄した。

 そうして徐々に、巨人を居住区画から引き離しかけた、その時


 ゴォーン…ゴォーン……

 真昼、中天の刻を告げる都市の鐘が鳴り響いた。


 鐘の音が聞き苦しいのか不快なのか。巨人が丸太を落として両手で耳を塞いだ。巨人はそのまま頭を掻き毟ると跳ねるように顔を上げた。その視線の先には、都市中央に立つ鐘楼。

「まずい……」

 続く疾走に息を荒らげながら、ユーヴァンは巨人の欲求を見て取った。あいつは、不快の源を破壊したがってる。

 案の定、巨人は丸太を拾うと、鐘楼へ向かって走り出した。その途上には職人街、居住区画がある。

 ユーヴァンも巨人の後を追って走り出した。しかし一直線に走る巨人に追いつけるものではない。見る間に距離を離されて、巨人が避難する市民に追いつくのが見えた。鬱陶しい蟲でも払うように、巨人が足元の市民めがけて丸太を振り上げる。

 瞬きの後に、市民は丸太に叩き潰されるだろう。何を言っても、間に合わない。それでもユーヴァンの喉から声が迸った。「やめろおぉぉーっ!!」

 しかしユーヴァンの想像した未来は来なかった。炸裂音とともに宙に射出された鋼の拳が、鎖を牽いて巨人の右腕に絡みついた。

「何としても止めますよ!ゴルファン!」

「おうよ!」

 ゴルファンが右肘から延びる鎖を左手で握り締め、グラッグがその鎖を掴み取って引く。巨人の右腕は、ドワーフとオークに綱引かれるようにように止められた。しかしゴルファンとグラッグの力と重量をもってしても巨人の力には敵わず、彼らはズルズルと引き摺られ始めていた。

 しかしこれは好機だ。ユーヴァンも足を緩めた巨人に向かって走る。接近。下肢をゆるめて寄り、その右脛に擬剣を叩き込む。よろける巨人の反対に廻り、次は左膝だ。

 右腕を取られ両脚に打撃を受けて、巨人は両膝を地に着いた。

ゴォーン…ゴォーン……

 膝を着けたまま、鳴り響く鐘に頭を振る巨人。その両肩から腕にかけての筋肉が、倍になったかのような隆起を見せた瞬間

「「どわぁああああああっ!!」」

 巨人は右腕に絡みついた鎖を左手で掴むなり、鎚投げのように振り回し始めた。すぐにグラッグが振り落とされたが、義手が鎖に直結したゴルファンはそのまま錘のように振り回された。

「ゴルファン!」

 ユーヴァンの目前で鎖が解け、ドワーフの衛士が宙を舞う。その短駆が弧を描いて倉庫天幕に落ちる前に、巨人がまた立ち上がった。が、すぐに頭を横から弾かれたかのようによろめいた。続けて二度、三度と弾かれまた膝を着く。

 光の矢が次々に飛来し、巨人の頭部に命中した。

『魔法矢、着弾確認』ユーヴァンの腰の遠話水晶から、口数少ないエルフの声が届く。『灰茨、無事?』

 巨人はつきまとう羽虫を払うように両腕を振り回すが、光の矢はその腕を指の間を縫うように飛ぶ。ユーヴァンが矢の飛来した方角を見遣ると、エリルが樵組合の事務所屋根、その残骸の一角に立って魔法銃を構えていた。

 ユーヴァンらの鎮圧装備では、巨人を止めることはできない。また並の魔法師の魔法でも、困難だろう。

 だが彼女の魔法銃なら、どうか?

 エリルの魔法銃はその機構とエリル自身の特性上、威力の低い呪文ですら、強度を増して行使することができる。装備課の魔法技師は、理論上は初級呪文の魔法矢ですら、ドラゴンをも屠る一撃に変えることが可能だと請け負っていた。

 ユーヴァンは、遠話水晶を口元に寄せた。「エリル、巨人を止められる?」

 彼の問いに、僅かな間を置いて返答があった。『…可能。使用呪文、要選別』

 呪文を選べと彼女は言った。市内の騒動を収めるいつもの仕事なら、麻痺で十分だ。しかしエリルは毒雲や雷撃といった致死性の高い呪文もその細腕の銃で撃つことができる。

 つまり、彼女はこう訊いているのだ「あの巨人を殺すか、否か」と。

 目の前で、巨人が頭を振りながら立ち上がろうとしている。考えている時間はない。アルフレンといい、エルフは僕に博打めいた判断を押し込む習性でも持ってるのか。ユーヴァンはそんなことをぼやきたくなった。

 だがこれも、選ばねばならない。後に悔いるのだとしても。

 ユーヴァンはエリルの青い目を見上げて告げた「麻痺、最大強度で」

『了解。五分、必要』

 エリルは頷くと、跳ねるように屋根から飛び降りその姿を消した。きっと魔法の準備にとりかかったのだろう。五分必要と彼女は言った。ならばその五分を稼ぎ出そう。

「一応、これでも隊長だしね」

 ユーヴァンは深呼吸すると、兜を整え擬剣を構えた。


 屋根を乗り越え天幕を踏んで、エリルが高所を駆け抜ける。小鳥のように栗鼠のように。

 やがて到達したのは、倉庫街一帯を睥睨する半鐘塔。彼女は細い手足を器用に使って梯子をスルスルと伝い登ると、その頂で魔法銃の銃把に魔力倉を装填、途端に排出して階下に落とした。外套の裏地から魔力倉を出すとまた装填し、排出。また魔力倉を装填、排出。装填、排出。装填、排出……

 目まぐるしく繰り返されるその操作に、魔法銃の銃身に刻まれた魔法文字ルーンが輝きを帯び始める。


 丸太を振るって暴れる巨人に、ユーヴァンが接近して脚を打ち、離脱。機を見計らって今度はグラッグが寄ると、鎚矛を膝に叩き込んで距離を取る。何度も、何度も。真昼を告げる鐘の音は既に止んでいた。

 ―――――ッ!!

「すまねえ、遅れた!」

 重い短駆で地を踏み鳴らし、ゴルファンが駆けてくる。兜が割れて、顎には血が滴っていた。

「グラッグ、いったんこっちに引きつける。ゴルファンの手当てを!」

「了解!」

 グラッグはゴルファンに駆け寄ると、魔神の御印を額に掲げてからドワーフの衛士の頭に触れた。するとゴルファンの血が止まり、疲労の滲んだ目に生気が少し戻る。

「ありがてえ!」回復したゴルファンは戦鎚を構えると、雄叫びを上げながら巨人に向かって走り出した。「うらあぁぁぁぁああっ!!」

 振り抜かれる巨人の拳。落下する岩塊に似たそれをゴルファンは前に向かって転がることでかわすと、渾身の力を込めて戦鎚を振り下ろした。「ここは痛えだろ?」

 巨人の、右足の小指に向かって。

 ―――――――――――――ッ!!

 一際大きな咆哮を上げ、巨人がその身を屈め右足を押さえた。

 痛みに苦しむ巨人を目の当たりにしながら、ユーヴァンは荒くなった息を整えた。巨人でも、あそこは痛いんだな。妙に感心してしまったが、この様もいつまでもつかわからない。それは自分たち第九衛士隊の面々にも言えた。巨人が暴れだしてからずっと駆け、戦い続けている。グラッグの回復加護も無限ではない。

 ちまちま足をつつくようなものではない、大きな一撃が必要だ。

「ゴルファン、〈流星の拳〉はあと何回使える?」

「あと一回ってとこだが……」ユーヴァンの問いに何かを察し、ゴルファンはにやりと不敵な笑みを浮かべた。「アレをやるか?」

 頷くユーヴァンの視線の先で、巨人が明らかな憤怒を顔に浮かべて立ち上がっていた。機会は一度。

「行くよ!」

「応!」

 ゴルファンが駆け出し、二歩ほど遅れてユーヴァンが続く。巨人に向かって真正面から一直線に。

 ―――――――ッ!!

 痛みの源を根絶せんと、巨人が拳を振り上げる。岩をも砕く一撃が、駆けるドワーフとヒューマンに迫る。

 その刹那、前を駆けるゴルファンが、屈んで右の鉄鋼拳を地に叩きつけた。

 ユーヴァンがゴルファンの背に足を載せる。瞬間、ゴルファンは鋼の義手の魔力機関を起動。義手内で火球の魔法が炸裂し、肘から先が射出された。しかし拳は地面の上。鉄鋼拳は地に罅を入れ、ユーヴァンを載せたままドワーフの短駆を宙へと跳ね飛ばした。

 ユーヴァン自身も脚に力を入れて跳び上がる。巨人の頭を目指して一直線に。

 瞬く間に、髪振り乱し眼を赤く染めた凶顔が迫り来る。巨人の頭を一撃せんと、ユーヴァンは擬剣の長柄に左手を添えた。〈流星の拳〉の射出力とユーヴァンの脚力膂力、それに擬剣の麻痺魔法が加われば、いかな巨人とて怯む。怯むはず。多少は怯んでほしいな。

 今や巨人の頭は目前。擬剣を振りぬこうと右肩に担いだその時、ユーヴァンは半鐘塔の頂にいるエルフ娘と目が合った。魔法銃の照準は真っ直ぐにこちらに向いている。強化麻痺魔法の準備が完了したのか。銃身の魔法文字が青く強く輝いている。

 ユーヴァンを見止めたエリルが、ふと甘く柔らかく微笑んだ。こんな状況なのに、ユーヴァンは思わず見とれてしまった。反則だよなあ。と思う。ただでさえ美貌のエルフがあんな笑みを向けてきたら、男なら誰でも惚れてしまう。

 だからちょっと、待ってほしいな。せめてこの剣を巨人に叩きつけるまで。今、撃たれたら、間違いなく彼女の魔法に巻き込まれ……


 ォオンと魔法が空気を切り裂き飛来する。彼女は機会を逃さない。彼女は狙いを外さない。うん。知ってた。長くもないけど短くもない付き合いだし。


 青い輝きに包まれたと感じた瞬間、ユーヴァンは全身が動かせなくなっていた。麻痺魔法にかかるとこうなるのか、と初めて体感した。体は言うことを聞かないのに、視界ははっきり周囲を捉えている。巨人がうな垂れ、崩れ落ちてゆくのが見える。ついでに自分も。このままでは着地もできない、受身も取れない。

 骨折くらいで済めばいいなあ。と思いながら、ユーヴァンは落下の浮遊感に身を任せざるをえなかった。



 †



 表通りの喧騒を離れた一角に、その店はある。建物正面が夜間商店なのでわかり難いが、隣の建物との合間の細道を行くと、扉と小さな燭台に照らされた看板が目に留まる。捩れた古木を割っただけのその看板に、刻まれた店名は〈夜明け前ビフォアドーン〉。

 ユーヴァン・グレイソーンは扉を開けると、地下に続く階段を降りていく。約束の時間を随分遅れてしまった。集まりは強制でもないので、隊員たちも他に予定があったり、気が乗らなければいないだろう。それはそれで、今日は一人でも飲みたい気分なので構わない。

 階下に着くともう一つの扉があるので、それを開ける。ちりん、と鐘が鳴り、火燭の柔らかい明かりに照らされる空間が広がった。

「いらっしゃいませ」カウンターの向こうから、銀髪の店主が声をかけてくる。「皆さん、お集まりですよ」

「ありがとう」軽く会釈して、ユーヴァンは店内を見渡した。オークとゴブリンがカウンターで麦酒を飲み交わし、テーブル席ではエルフの男とヒューマンの司祭が談笑している。その横で角の生えた魔族フィーンドの給仕娘が注文を訊いていた。他にもちらほらとドワーフや三角耳の獣変者シフターがいたが、客の入りは全体的にまばらだ。

 この店は場所が場所だけに、席が全て埋まることは少ない。また店主の意向で過度の騒ぎは断られた。だからこそ、ユーヴァンら衛士隊の者はこの店を重宝した。ゆき過ぎた酔っ払いを取り締まる側が表通りの酒場にいれば、お互い気まずいものがある。

 そんな事情で、この〈夜明け前〉には衛士隊員や市政の職員がよく訪れる。

「隊長! こちらです」

 グラッグが奥のテーブルで手を振っていたので、そちらに向かう。ゴルファン、エリルもいた。ゴルファンなどは既に相当量飲んでいるようで、顔が赤い。

「お待たせ」椅子に腰を下ろすと魔族娘が注文を訊きにやってきたので、ユーヴァンは冷えた蜂蜜酒を頼んだ。今日は体も頭も疲れた。甘いものがほしい。

「随分かかりましたね」

「ああ」グラッグの言葉に、ユーヴァンは頷いた。詰所を出るかなり前に暮れ九つの鐘を聞いたから、そろそろ暮れ十の鐘が鳴る頃だ。この店での待ち合わせは暮れ八つだったから、かなりの遅刻である。「まあそれというのも……」

「心外、灰茨」

 エリルはユーヴァンの恨みがましい目から全てを察したようで、ユーヴァンはエリルに機先を制されてしまった。

 あの後、落下寸前のユーヴァンの体を、エリルの撃った蜘蛛網の魔法が壁に縫いとめたのだ。大怪我は負わなかったものの、救援で来たゴブリンの呪術師ダーハウが蜘蛛網と麻痺を解呪してくれるまで、おおよそ一刻ほどを壁に貼り付けられたまま過ごした。結果的に彼女のお陰で自身も怪我を負うことなく、巨人を捕縛できたのだから感謝しても良いのだが。

「要感謝」と言いたげなエリルの何だか偉そうな目つきに、ユーヴァンは素直に感謝を述べたくなくなってしまう。

 そうこうしていると、蜂蜜酒が届いた。細かな泡立ちの音が涼しげだ。

 第九小隊皆で酒杯を手に取ると、互いに軽く当てて今日の言葉を述べ合った。グラッグが「魔神の導きに」、ゴルファンが「胸に鋼を」、ユーヴァンは「理解と平穏を」、そしてエリルは無言で酒杯を掲げた。いつからかわからないが、大きな事件を終えた日にやる習慣となっている。

 ユーヴァンは蜂蜜酒に口をつける。いつもながら、甘さと喉への刺激が疲れた体に心地よい。

 ゴルファンが一気に麦酒を煽ると、酒盃をどんとテーブルに置いて口を開いた。「で、何かわかったんですかい?」

 ユーヴァンも酒杯を置くと、一息ついてから答えた。「そうだね。今回の件、単なる転送事故では済みそうにないのは確かだよ。まず本部で嘘感知と精神操作系魔法の使用か許可された」

 嘘感知は発言者の言葉の真偽を判明させる高位の魔法だ。また精神操作系の魔法には、被術者を時に魅了し、時に恐怖で支配するものがある。その乱用は実社会の運営を著しく損なうため、知的種族への使用は法で著しく制限されていた。これらが許可されるということは、今回の事件が衛士隊・市政上層部において相当な重大事案と認識されたと言って良かった。

「あの巨人、何をしたのかされたのか、全く憶えてないそうだ。魔女殿の〈嘘感知〉でも裏が取れている」

 巨人はエリルの魔法で麻痺したまま衛士隊中央本部施設に運ばれ、鎮静化した今は聴取を受けている。

「ただ、外的要因で興奮状態にされた形跡があったそうだ。戦意向上薬か、戦神の権能か……戦神の信徒がこんなことをやらかすとは思えないから、薬の線が濃厚だね」

「戦意向上薬ですか」グラッグが麦酒の入った酒杯をゆらす。「戦神の信徒が行使する権能。兵士を戦場で死を恐れない興奮状態にするそれを、魔法と薬草で再現したものだとか」

「その権能、おれも受けたことあるぜ」ゴルファンが昔日を懐かしむように言った。「ほんと怖いもんなくなるんだわ、あれ。多少の傷は痛くも痒くもねえし。ただ効果が切れると三日は寝台から起き上がれん」

「何者かが巨人に薬を与えて、転送陣に送り込んだと?」

 グラッグの問いに、ユーヴァンは頷いた。

「そうなるね。転送陣も、座標の文が書き換えられてたそうだ。設置後に書き換えられたのか、設置前から仕込まれていたのかは調査中。設置した魔法技師組合〈喪の友愛会〉の魔法技師が血眼になって調べてる」

 ユーヴァンは、現場で会った魔法技師の男が「ぼくの美しい呪文がー!」とか叫んでいたなあと思い出した。

 エリルが甘橙の皮を剥きながら口を開く。「書換先、何処?」

「座標文が既に消えかかってて完全には判明してないけど、雷鳥山脈の山麓付近らしい。ここからは、馬を乗り継いでも二ヵ月くらいかかる。えらく遠いよ」

 国を幾つも跨いだ先から転送陣で送り込まれた、興奮状態にある巨人。誰が、何のために?

 今回、かろうじて死者は出なかったものの、それは運が良かっただけで、まかり間違えば大惨事にになっていた。よって重要参考人となった樵組合〈斧の友〉の組合長とオークたちへの取調べは厳しいものとなった。彼らの受ける〈嘘感知〉に〈魅了〉〈恐怖〉の魔法を織り交ぜた聴取は、死者すら自白させると衛士たちに言われている。

 その取調べの一部始終を、ユーヴァンは聞いていた。この場に遅刻したのはそのせいもある。

「巨人出現の理由はまだ不明だけど、トロールについてはある程度わかった。オークたち、ヒューマンの樵に唆されて、転送陣を使って市内に入れたと白状したよ」

「転送陣で…って、一歩どころか半歩間違えてでも死ぬじゃないですか!」温厚なグラッグが珍しく声を荒らげる。

「死ぬね。三度に一度は。でもオークの樵たちには従軍経験者もいなくて、その事を知らなかった」諭すように言いながらも、何だかもやもやした気持ちになって、ユーヴァンは蜂蜜酒を煽った。「後から気づいた組合長は、慌ててオークたちと口裏を合わせて隠したんだ。衛士隊や市政庁にバレたら営業停止処分だけじゃ済まないからね」

 転送陣での生きた知的種族の転送は、ドラゴンズベッドを含めた都市国家、諸王国において重大な罪とされている。

「あの組合長、何だか胡散臭いと思ってたら案の定、転送陣を使った密輸にも手を出してたよ。丸太の中を刳り貫いて、禁制の魔法の巻物を何本か仕込むってちんけな手口だけど。これで転送陣の設置も、今後はかなり制限がかかるようになるだろうね。上の方も、今までみたいな週一の抜き打ち検査程度じゃ、密輸に効果はないってわかったみたいだし」

 これで事の顛末はおおよそ語り終えただろうか。ユーヴァンは酒杯に残った蜂蜜酒を飲み干すと、給仕娘に追加を頼んだ。ついでに麺麭と塩漬け肉の軽食も。朝から何も食べていないので空腹だった。

 ちょうどその時、暮れ十の鐘が鳴った。

「隊長、私はそろそろ」

「うん。お疲れ」席を立つグラッグに、ユーヴァンは言った。「第九小隊全員、明日は非番だ。ゆっくり休んでよ」

「皆さんも、よい夢を」オークの衛士は残りの隊員たちに軽く手を振りながら、店を出ていった。

「なんでえあいつ、いつも付き合い悪いよな」ゴルファンが不満そうに言う。「ガキなんざ、放っといても勝手に育つだろうに」

「そう言うなよ、ゴルファン。この時代、色々大変なんだぜ」ユーヴァンは副隊長に代わって弁明した。真面目なオークにして魔神の侍祭は、戦後、妻子を伴ってこの都市にやってきた。「この間も相談されたんだ。息子を、ヒューマンの多い学校に通わせていいものかどうかって。なんだかんだこの街でも人口の半数が純人で、僕ら大人ですら種族の間のいざこざが絶えないんだ。息子がいじめられないか心配なんだって」

 ぽつりと、エリルが言った。「問題、山積、困難」

「そうだね」大きく息をつくと、ユーヴァンは目を閉じて自分を取り巻く世界を思った。〈幼稚なる神〉との戦いがもたらした、多種族の共生する今の世界を。互いに隣人としての意識を持てない者もいまだ多く、諍いは絶えず、文化・習慣の違いから来る摩擦も多く、エリルの言うとおり問題が山積みだ。「ほんとに、そうだ」

 それでも、と思う。それでも、何一つ理解できず、理解しようともせずに血を流し合ったかつてに比べれば、はるかにましだと思う。血は、これからも相変わらず際限もなく流れるだろう。大陸中央の山間部で、オークやゴブリンたちが単一種族の国家樹立を目指していると伝え聞く。ヒューマンの諸王国ですら争いが絶えないのだ。血の気の多いオークやゴブリンが国を造れば、どうなることやら。


 ただそれでも、今の僕らは争う前にできることが増えた。それは、とても大きなことだと思うのだ。


 ユーヴァンが目を開けると、エリルが甘橙を頬張り、ゴルファンが焔酒を追加で頼んでいた。少し離れたテーブルで、さめざめと泣くヒューマンの司祭をエルフの男が宥めている。カウンター席でゴブリンとドワーフが肩を組んで歌い、シフターの狩猟者がフィーンドの給仕娘に言い寄っている。

 明日は非番だ。今夜はもう少し飲んでいこう。


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開拓都市ドラゴンズベッド衛士隊第九小隊 信野木常 @nogitune

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