『Ephemeral』

東北本線

拙くて、儚い。

 冬の終わりを告げる、雨が降っていた。

 真っ黒に染まった色のない世界で、おとは焦点も合わさず外を眺めている。


(せい兄ちゃん、もういないんだ…………)


 年上の幼馴染の葬儀。火葬を済ませ、大きな箱に入れられた彼の遺骨は、まだ悲しみに染まっている葬儀場の中央で、無機質に佇んでいるだろう。

 あれはせい兄ちゃんじゃない、と音は思う。

 故人を偲ぶ彼の父親の話は、そのどれも彼女が知っているせい兄ちゃんの姿とはかけ離れていた。どうして自殺なんか、と泣き崩れた父親の姿を見ても、周りからすすり泣きが聞こえてきても、音はなにも感じることができなかった。

 そういうこと、なのだろう。

 理解されないものなのだ。

 自分や、せい兄ちゃんが抱えているものは。


 雨糸がいっそうに増していく。葬儀場の建物に反響して、雨の音は強く、大きく、そして悲しくなっていく。


「ずるいな……」


 言って、音は自分でも驚きを隠せなかった。せい兄ちゃんは、周囲の無理解に耐えられなかっただけだ。その気持ちは痛いほどにわかる。

 だがそれを、ずるい、なんて。まるでせい兄ちゃんが、現実から逃げてしまったようじゃないか。


 あわてて口をおさえると目の焦点が合い始める。せい兄ちゃんの母親が、いつの間にか隣に立っていた。

 自然と、音は体の強張りを覚える。悲しみに包まれていた意識がはっきりとクリアになって、脳がまちがったことを口にしないよう、あわてて回転を速める。

 音は彼女が苦手だ。声は大きいし、人の悪口は言うし、態度も横柄。せい兄ちゃんのお葬式じゃなかったら、挨拶もせずに今すぐにでも離れてしまいたい。


「音ちゃん、大丈夫?会場から出ていくのが見えたから。今日は来てくれてありがとね。ほんとウチの子ったら最後の最後まで、どうしてこう人様に迷惑をかけ続けるんだか。音ちゃんもびっくりしたでしょう、自殺なんて。音ちゃん、せいと仲良かったもんねえ」


 予想通り音はまくしたてられた。雨音の中でもよく通る声が、眉間や口の周りに皺を寄せた厚化粧から飛び出してくる。


「世間体や周りの目、大多数の人々が決めた常識という名の決まり事ばかりを疑いもせずに気にして、その常識から外れている僕という現実を、絶対に受け入れてくれない人だからね」


 いつかせい兄ちゃんが、冷たい空に向かって溶かした言葉を音は思い出す。


「あの……、すみません。式を抜けてしまって。なんだか、居たたまれなくなってしまって……」


 嘘は言っていない。努めてすまなそうな表情を、音は顔に張り付ける。そういうことには、昔から慣れている。音はもちろん、せい兄ちゃんだってそうだったろう。

 相手はそんな音の表面的な心中を察しでもしたかのように表情を崩し、


「音ちゃんはまだ中学生だったかしら?そうよねえ。辛い思いをさせてごめんなさいねえ。ほんとに正ったら、みんなを悲しませて、仕方がない子なんだから。前から正には言ってたのよ。音ちゃんみたいな元気でしっかりした女の人と結婚しなさいって」


 そう、意味でもありげに葬儀場の屋根を見上げた。

 音は唇を噛む。

 その言葉が、どれだけせい兄ちゃんを傷付けたのか。思いを馳せ、感情を抑えられなくなりそうだった。


「おばさん、ごめんなさい。今日はもう帰ります。おじさん達にも、よろしく伝えて……」


 声が震えてしまって、音は最後まで言葉が続けられなかった。雨に向かって制服のまま、傘もささずに飛び出す。

 背後でせい兄ちゃんの母親が、なにか大きな声でこちらに言っているのを音は無視した。

 びしょびしょになった制服の袖で頬をぬぐいながら、彼女は走り続ける。


「音ちゃん。……僕はね、この桜の木に恋をしているんだ」


 雨音にまぎれて、せい兄ちゃんの声が聞こえた気がした。






 小学生の頃。放課後にクラスメイトの女の子たちと、好きな人の話をした日。

 勇気を出して、クラスの女の子が好き、と言った音に友達からの視線が集中した。


「音ちゃん、それおかしいよ。女の子は男の子を好きになるんだよ?」


「へんなのー」


「あ、知ってるー!それレズビアンっていうんだよー!」


 興味半分に嘲笑を混ぜたような艶めいた雰囲気が、一瞬で場を包む。

 友達に、嘘偽りのない思いを、少々の緊張感に耐えながら話した音は、その反応が予想外で少なからずショックを受けた。


「じょ、じょーだん冗談!お、女の子を好きになったりするわけないじゃんっ!」


 そんなふうに自分にも周りにも嘘をついて、その日は学校を後にした。

 なんてことはない。

 ああ、ちょっと間違ったことを口にしてしまったな。

 この気持ちは間違いだとは思いたくないけれど。

 あの場でそれを言うのは間違いだったな。

 というくらいのこと。

 なんとなく自分でも、他人とは違うかもしれない、とは思っていた。

 それを改めて、再認識させられただけのこと。

 よかったじゃないか。もうこれで、間違えることはない。これでよかったんだ。


「……………………」


 とぼとぼと一人で歩く音の頬から、涙がつたった。


「音ちゃんじゃないか。どうしたんだい?」


 通学路の河川敷。立派な桜の木が、通る人々を眺めるように生えている公園から、知った声が聞こえてきた。

 幼馴染のせい兄ちゃんが舞い散る花びらを背に、心配そうな表情をこちらに向けている。


 か細い糸がプツリと切れる音が聞こえた気がした。

 堰を切ったように、わっと音はせい兄ちゃんに駆け寄って、彼の胸に顔をうずめて嗚咽した。

 友達への嘘、自分の心への偽り、そんなことは言いたくなかった。したくなかったのに。

 そのすべてを、音は幼馴染の彼に吐き出す。


 すすり泣く声がやんだ頃、せい兄ちゃんは優しい声で、


「音ちゃんは間違っていないよ」


 そう、静かに口を開いた。


「音ちゃん。……僕はね、この桜の木に恋をしているんだ。植物が好き、とか、お花見が好き、とかじゃない。君が女の子を好きになるように、僕はこの桜の木のことが好きなんだよ。……結婚したいと、思うくらいにね」


 まだ熱を感じる双眸を、音は少し上に向ける。眼鏡のレンズの奥で、せい兄ちゃんの瞳は真っ直ぐにこちらを見返していた。


「変だと思うかい?」


 せい兄ちゃんがなにかに耐えるような顔で目を細める。

 見たこともない彼の表情に、慌てて音は首を横に振った。


「……よかった。僕と音ちゃんだけの秘密だね」


 静かに、寂しそうに笑いながら、せい兄ちゃんは人差し指を鼻の前にもっていった。


 どうしてこんな、つらい微笑みを浮かべなければならないのだろう。

 小さいながらにも音は、考えずにはいられなかった。

 自分は、女の子を好きなだけで、あんな好奇の目で見られてしまった。

 桜の木を愛するせい兄ちゃんが抱える苦悩は、いったいどれだけのものだろう。

 いつか自分も、こんなふうに、悲しげに微笑わらわなければいけなくなってしまうのだろうか。


 音はせい兄ちゃんの腰にまわした両手に、力をこめずにはいられなかった。





 どうしてこんなことになったのか。高鳴る胸の鼓動に、音は押しつぶされてしまいそうになっている。

 本当なら今頃、クラスの女友達と街に繰り出してカラオケを楽しんでいるはずだった。

 それがどうして、こんなことになってしまったんだろう。

 クラスの好きな子と一緒に、早退だなんて。


「……音ちゃん、どうしてアタシなんか誘ったの?」


 クラスメイトの美都みとが、気難しい表情のまま、こちらの顔も見ずにつぶやいた。

 こっちが聞きたいくらいだ。


 休み時間にクラスの女友達と楽しくしゃべっていただけたった。いつものように音が会話の中心になっていて、今日は放課後にカラオケに行こう、とみんなを誘っていた。

 そこまでは、いつも通りの日常だった。


「ねえ、美都ちゃん。……美都ちゃんも、一緒に行かない?」


 いつも通りから外れたのは、音からだった。

 ことあるごとに盗み見て観察しているから分かるのだが、声をかけた相手は友達と言えるクラスメイトもいない、いつも窓際で本ばかり読んでいる女の子。

 そして音が、決して表には出さない好意を寄せている相手だった。


「……………………」


 急に声をかけられ、本から視線を外して振り向いた相手は、こちらを見てはいるが返事をしない。

 音はその数秒の間だけでも、心から溢れそうになる緊張や期待、怖れに負けてしまいそうだった。

 どうかしてる、と思う。いつもはこんなことしないのに。

 葬儀で物憂げに微笑んでいた、せい兄ちゃんの遺影が、なぜか頭に浮かんだ。


「……行かない」


 意志のこもった強い言葉が、静寂を切り裂いた。周りの友達は音が美都を誘った時点で、声には出さない疑問を押し殺すように黙っている。


「あ……、ごめん……」


 ショックだった。恥ずかしかった。そして、相手に申し訳ない気持ちが昂っていく。


「謝るなよ、音。こっちの好意をさあ。色違いの本の虫が、カラオケなんかに来るわけないじゃん」


 そんな友達の言葉も嫌だった。フォローのつもりだろうが、自分の好きな人をそんなふうに言わなくてもいいじゃないか。


 目頭が熱くなる。涙が零れてしまいそうになる。


 せい兄ちゃんがいなくなってから、ずっと心が落ち着かない。なにを食べても味はしないし、世界は色を失ってしまったかのように淡々として、時間は意味さえ見出だせないなにかを垂れ流し続けている。頭は他人のことを考える余裕がなくて、心はかんぬきでもかけたかのようにかたくなだった。


 音は逃げるように教室を駆け出した。

 始業のチャイムが鳴っている。廊下を駆け抜けて、保健室の扉を力任せに開けた。大きな音が、廊下に響く。保健の先生はどこかで授業なのか、室内には誰もいなかった。カーテンを乱暴に閉じ、涙を拭って奥のベッドに隠れるようにくるまった。


 どうかしてる。

 なにをしてるんだ、私。

 小学校の時に学んだはず。

 自分の気持ちに素直に動けば、後悔しか生まないって。

 秘密にしようって、せい兄ちゃんと約束したのに。


 また涙がこぼれた。むせび泣く声が部屋に響いているのがわかる。

 保健室に、誰かが入ってくる気配も。


「あの……、なんか、ゴメン」


 白昼夢でもみているんだろうか、と音は思った。美都だ。美都が追いかけて来てくれた。

 布団から音は頭を出す。目の周りが赤くなっていたら恥ずかしい、なんて思いながら。


「謝ってこいって、なんか……、クラスの皆に言われて……」


 静かに動くカーテンが音を立てる。そんな微かな音が聞こえてしまうくらいに、それを閉じている美都の声は後ろの方にむけてデクレッシェンドした。


 誰しも、理由も分からずに謝ってほしくなんかない。そして嫌々謝ってもらいたくないし、むしろ謝りたいのは音のほうだった。

 美都が振り返って、意を決したように顔をあげる。


「ごめん。傷つけるつもりはなかったんだ。泣かないでほしい。どうしたらいい?」


 ああ、やっぱり好きだ、と音は思った。大きな眼鏡に隠れているくっきりとした整った顔立ちも、素敵な髪形も、少し低い声も、こちらのことを慮ってくれない態度も、みんな狂おしいほど、耐えられようがないほど好きだった。


「……一緒に早退して。……私を、家まで送って」


 そんな、心の奥にしまっておくべき願望を、口に出してしまうほどに。


 逡巡があった。それが音には永遠にさえ思えてしまう。

 誰かにこの幸せな二人きりの時間か、うるさいくらいに響く心臓の早鐘を止めてほしかった。


「……わかった。音ちゃん……、名前で呼んでいいよね?音ちゃんのカバンも持ってくる」


 そんな経緯いきさつがあって、今は二人で河川敷を歩いている。


 午後の陽気に、たんぽぽが揺れている。白い綿毛が舞って、二人の目の前を風に乗って行き過ぎる。川から聞こえるゆったりとしたせせらぎの音が、二人の沈黙に聞き耳をたてているようだった。


「た、ただの嫌がらせに……、決まってるじゃない。私の誘いを断った美都ちゃんに、私のカバンを持たせて家まで送らせたかっただけ!」


 素直になってはいけない、と日頃から気を付けてはいるとはいえ、他にも言い方があるだろう、と音は我ながら反省した。ぽかぽかと温かい春の日射しのせいにして、変なこと、一般的ではないことを口に出してしまいそうになる自分を、もう一人の理性的な自分が必死に止めている。


「ふーん」


 心の内をさらけだしてしまいたい衝動を我慢して質問に答えたというのに、相手からはそんなぞんざいな返事がかえってくる。


 ため息を、音は灰色のアスファルトに落とした。

 うつむいた顔を上げると目の前に美都が移動していて、音は驚きを隠せず立ち止まる。向かい合って、二人は見つめ合っていた。


「音ちゃんってさ、いっつもウソばっかり言ってるよね?好きでもないものを周りに合わせて好きって言ったり、他の女の子のマネして、男子に興味があるフリして声をかけたり、たいして楽しくもないのに、楽しそうにしたりさ。なんで?」


 美都のつぶらな瞳が眼鏡の奥から音を、音の心を観察している。その目がとても無邪気に見えしまって、音はまるで心臓をつかまれたみたいに苦しくなった。


「な、なんでって…………」


 答えようとも、口からはなにも出てこない。


「アタシってクラスで浮いてるじゃない?そりゃあ、肌の色もみんなと違うし、髪型だって天パだし、唇だって分厚いからね。それでも、みんなが思うような自分を演じて、明るく振る舞って溶け込んでいこうと思った時期もあったけど、自分に嘘をつくなんて、はっきり言ってバカバカしいじゃない?将来のこと考えて、本でも読んでたほうがマシだって思っちゃって。それをさ、よくやるもんだなって、ちょっと不気味だった」


 後ろで結んだ強い巻毛の頭を掻きながら、美都は視線を逸らさず続ける。


「……さっきまでは、ね。さっきまでは、そう思ってた。ちょっと意外だったっていうか、認識を改めさせられた。思い込みってよくないなって。だからって、それに甘えて音ちゃんがアタシと一緒にいたら、音ちゃんにマイナスしかないからさ。無下に断って、ごめんね。あと……、ちょっと嬉しかった」


 薄桃色の桜の花びらがいくつか、声でもかけるかのように音の目の前を飛び過ぎていった。

 あの公園の前に、いつの間にか音と美都は来ていた。桜の巨木が、すべてを見通すかのように二人を見下ろしている。

 せい兄ちゃんは、あの桜の木と結ばれたんだろうか。

 だとしたら、見守ってくれている視線は、二人分なのかな。

 音はそんな、桜の木に寄り添って、幸せそうな笑顔をこちらに向けるせい兄ちゃんの姿を想像した。


 いつの間にか世界は色づいて、どこか自分から離れていた自分自身も、しっかりと音の胸のあたりに戻ってきている。

 重く閉ざされていたはずのその場所には、一人のクラスメイトがずっといた。


 そして目の前には、いま音が誰よりも好きなその人がいる。


 伝えることはないはずだった気持ち。

 伝わらないかもしれない。

 拒絶されるかもしれない。

 でも、もうこの気持ちを抑えることなんて、音にはできなかった。


 音の唇が、その想いを乗せて、いまゆっくりと開かれる。

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