地上に楽園はなくても

悠井すみれ

地上に楽園はなくても

 重機を使うのは、地表の土を取り除くためのごく最初の段階だけだ。スコップを使うのも、骨が見え始めるまでのこと。無造作に地面に突き刺しては、埋まっている遺体を損なってしまうだろうから。だから、後は人の手で少しずつ進めなければならない。手袋を嵌めて、ゴーグルで目を、マスクで口を覆って、独裁時代の犠牲者たちの亡骸をひとつひとつ丁寧に救い出してあげなくてはならない。


 私の後ろで、誰かが嘔吐する音が聞こえた。ボランティアの学生か誰かだろう。崇高な目的のために集ったはずの若者でも、掘っても掘っても現れる白骨の山は精神に堪えるものらしい。遺体の全てが綺麗に白骨化している訳でもなく、中には死の苦しみを残した顔が地中から覗くこともある。ミイラ化してはいても、人の死体の臭いというのは──独特だし。嘔吐した誰かが去っていった後も、土を掻き分ける静かな音や、掘り出された骨が積み上げられる一種音楽めいた音に混ざって嗚咽が聞こえてきていた。泣きながらでもこの事業に参加しようという人は、きっととても高潔な志の持ち主なのだろう。


 私はというと、淡々と手を動かし、骨を掘り出し続けている。できれば頭蓋骨を、砕けてしまっている場合は手足などの太い骨を。顔貌復元や遺伝子鑑定によって、身元が分かる可能性を少しでも上げるためだ。近くに遺品が残っていれば、もちろんラベルを付して出土した場所が分かるように記録する。私にとってはもう何十年も続けていること、死臭にもとうに慣れた。最初のころは完全に白骨化した遺体の方が稀で、もっとひどい臭いがしたものだ。参加している多くの人にとっては、人の死体は恐ろしく、かつ、弔いもされずに地中に埋められるだけの「埋葬」は痛ましいものなのだろうけれど、私にはそんな感慨はない。心身共に何ら支障はなく、割り当てられた区画が終わったら次へ、また次へ。言われた通りに進んでいくだけだ。人は死んだら終わりなのだと教えられたのが、いまだに染みついていてくれるお陰だ。人だったものの抜け殻を幾ら積み上げたところで、悲しいものでも恐ろしいものでもないのだ。


 「父」は、私たちに語ったものだ。死後や天上に楽園などないのだと。そのような美辞麗句は、王侯や聖職者が民衆を騙すために造り上げた欺瞞であって、いまだに人々の心に深く根付いたその幻想は打ち砕かねばならないのだと。楽園とは人が自らの手でこの地上に造り上げるもの。幻想の楽園に慰めを見出すのは許しがたい怠惰であり逃避にほかならないのだ。


 父といっても、遺伝上の父のことではない。この国の──この国の民の父と呼ばれていた男のことだ。地上の楽園の実現のために邁進していたはずの彼は、後には地上に地獄を築き上げたと言われて殺された。私にとってはまったく不思議なことだった。少女時代の私は、確かに彼の楽園に住んで和やかに楽しく暮らしていたというのに。

 それこそが欺瞞だったのだ、と言われたのを受け入れるのに何年かかっただろう。美しい少年と少女だけが暮らす「楽園」なんてあり得ない。少年たちは畑を耕し牛や羊を追い、娘たちは糸を紡ぎはたを織る。夜は歌を歌い語らって、拙い手作りの飾りを贈り合ったり平和な遊戯に興じたりして団欒する。そんな前近代的な社会が保たれるはずはないのだと──私は楽園の「外」を知ってようやく理解した。私たちは自分たちの労働と勤勉さによって楽園を維持していると信じていたけれど、結局あれは子供のままごとに過ぎなかったのだ。「父」の圧政に苦しむ多くの民に、その貧困は努力不足ゆえだと信じ込ませるための、どこか遠くにはすでに楽園が実現していると見せるための箱庭に住まわされた人形、それが私たちだったのだ。




 休憩時間になって、マスクとゴーグルを外して息を吐いていた私に近付く者があった。何とかいう雑誌の記者だと、その男は名乗った。


「『楽園の乙女』だった方が『再葬』事業に携わっていることについて、ひと言いただきたく──」

「ああ……」


 よくあることではあったから、私はすぐに心得た。既に何度も話したことがあるような内容を、多少、細部に違いを凝らして語るのだ。あたかも心から湧き出る思いを述べているかのように。


「──独裁政権下で、多くの人の命が奪われたこと、それ自体が大変恐ろしいことです。しかも、当時は各民族の伝統や信仰に基づいた葬儀さえ許されませんでした。身近な人々の遺体を、ただの物体として捨て置かなければならなかった人たちの心痛はいかばかりだったでしょう。当時、『楽園』にいてその惨状を知らなかった自分が許せなくて──生涯を、償いに捧げなければならないと考えたのです」


 「父」は、天上の楽園を否定した。よって、当然のように死後の救済を願ってのもろもろの儀式や祈りや供物もまとめて否定されなければならなかった。その思想に従って、かつては人の死体は単に穴を掘って埋められるだけだった。敵対勢力への見せしめや、伝統的な文化や宗教を断絶させる意味があったと言われるけれど、私としては「父」は本当にそれで十分だと考えていたのだろうと思っている。けれど、大多数の人々にとってはそれでは済まないことらしい。「父」が失脚して何十年も経った今でも、「遺棄された」人々を発掘し、「しかるべき」埋葬をし直すという事業には終わりが見えない。

 「父」が犯した罪と呼ばれることの中でも、死にまつわる信仰を否定したこと──死者を軽んじたことがとりわけ許しがたい大罪であるかのように語られるのが、私にはまだ今ひとつ腑に落ちてはいないのだけど。だって、人は死ねばそれで終わりだ。数えきれないほどの死者を掘り出してきた年月の中で、人の霊とか魂とか、人知を超えたものの存在を感じたことは一度たりともないというのに。


「ご立派なお考えです。貴女の姿は、恐ろしい時代の教訓を読者に考えさせてくれるでしょう」

「そうだと良いと思います。新しい時代のため、過ちを二度と犯さないためにも」


 記者は満足そうに微笑み、私は沈痛な面持ちで──そう見えるらしい態度で──目を伏せる。望まれるようなことを口にし、望まれるように振る舞うのは私にとってはいつものことだ。「楽園」にいた頃から、ずっと。ただ、望まれる内容が正反対になっただけで。あの頃の私は、外国から訪ねてきたという使節や学者や役人に、満面の笑みで語ったものだ。


 楽園に住むことができる私たちは幸せです。「父」は素晴らしい指導者です。何も不満なんかありません。世界中すべてが、この国のようになれば良いのに。


 ただ、あの頃は今と違って、私は自らが語ることを信じていた。同じように微笑む兄弟姉妹たちもそうだっただろう。──多分、ほとんどは。楽園を飛び出していった者も、いないではなかったけれど。「彼」はいったいいつ、「欺瞞」に気付くことができたのだろう。「彼」だって私たちと同じように微笑んでいたのに。

 懐かしく美しい過去に彷徨いそうになった私の意識を、記者の質問が現実に呼び戻した。


「貴女がたは、親元から引き離されて『楽園』に集められたのだとか。実のご両親を探し出したいと思ったりはなさいますか?」

「そうですね、もう存命ではないでしょうが、本当の故郷を知りたいとは思います。この事業に携わることで、根源となる民族や文化を持つことのかけがえのなさを痛感しています」


 私はまた、記者を喜ばせるような嘘を吐く。「父」の施策はことごとく過ちであったのだと、「楽園の乙女」だった老婆が語る──そんな絵を、彼らは望んでいるのだ。そうすれば、あの頃と同様に暮らしに不自由しなくて済むのを、私は早いうちに学んでいた。

 本当のところ、実の両親や故郷への愛着など私には一切ない。「父」は楽園に相応しい子供たちをしばしば強引に攫ったそうだけれど、かつての兄弟姉妹の中にはその時にどれほど恐ろしい思いをしたのかを語る者もいるけれど、少なくとも私にはそんな記憶はない。それほどに「父」の楽園は美しく豊かで平和で、疑問を抱く余地などなかったのだ。

 外の世界を知り、真実と呼ばれることを教えられた後でも、「父」は私の父であり、楽園は私の故郷だった。そこを追い出された後で、信仰というものがあること、多くの人にとってそれは重要なものであることを理解はしても、別の世界のことを本や映画で見るような思いしか抱くことはできなかった。


 肉親の遺体に再会して涙する人々。個人を特定できないまでも、地域を挙げて盛大な葬送の儀式を執り行った人々。遺体そのものも、当時は禁じられていたのだろうに様々なお守りや晴れ着で見送られた形跡があることも多い。一方で、「父」に加担していた人々が埋まっていた地では、発掘された骨は念入りに、そして恨みを込めて砕かれて野に撒かれた。

 彼らにとっては確かに実在するらしい死後の楽園も地獄も、私には感じられない。いまだに私の奥深くに根付いた「父」の教えは私に告げる。死ねば何もかも終わりなのだ、と。


「今後の人生について、目標などはお持ちですか?」

「こんな私が、個人の幸せなど考えてはいけないように思います。あえて言うならば、祖国が豊かに平和になったところを見届けてから死にたいものです」


 祖国が──かつての楽園のように、とは言わない。言ってはならないのだ。私には豊かさや平和という理想の実現そのものに見えたあの狭い世界は、外の人々の犠牲の上に成り立っていたというのだから。そして同時に、多くの人が言うように死ぬ、を天に召されるとか神の御許みもとに行く、などと美しい言い回しで表現したりもしない。私にとっては死はやはり無であり、その後のことなど考えられはしないのだ。ずっと、そうだった。

 でも、いざ死を間近に感じる年齢になると、何もないということが不意に恐ろしく感じられる瞬間に、たびたび襲われるようになってきている。




 休憩時間が終わると、私は再び作業に戻った。今まで何十年と繰り返してきた作業だ。「楽園の乙女」だった女が、迫害されることなく生きるために。「父」の死を知ってすぐに国外に逃げることができた何人かの兄弟姉妹たちよりも、私はのろまだった。でも、時代が変わったのを受け入れることができなかったほかの何人かよりも賢かった。多くの国民が飢えていたのを他所に楽園に暮らしていた罪を償うという姿勢を見せれば、とりあえず食うには困らない。私を利用しようという人たちは大勢いる。

 でも、生きた後はどうなるのだろう。「父」が教えたようにそれで終わり、で済むのだろうか。「父」が私に与えてくれた世界は確かなものに思えたのに崩れてしまった。天国や地獄なんてない、という「父」の教えは、ならば真実ではないのかもしれない。だって、他の人たちは死後の世界の存在を当然のように信じている。

 死後に何もないならまだマシで──私は、私だけがいなくなるのではないか、という妄想めいた考えを振り払うことができない。信じる者は救われる、と説く神もいるのだというけれど、ならば信じていない私には救済の手は差し伸べられないだろう。神を信じるに足るような奇跡の何も、私は体験できていない。多くの善男善女に天国の門が開かれる一方で、私の魂──そんなものがあるなら──はひっそりと消滅するのだ。愚かな妄想だと分かっていても、あるいは妄想だからこそ、私には否定できる材料がない。だから、怖い。どれだけ骨を掘り出しても、死者のために祈るだとか魂の安寧を願うだとか、そんな思いを実感することはいまだにできず、神の存在はあやふやなままだ。


 またひとつ、頭蓋骨から土くれを払いのけながら、私はまた遥かな「楽園」での日々を思う。


 かつての兄弟姉妹たちは、みんな私と同じ思いを抱いているのだろうか。この不安を語り合いと思っても、国内にまだ存命している者はごく少ない。それに、会えたところで互いの本心について立ち入ったことを打ち明けることはできないだろう。私が聞こえの良い嘘を語り続けたのと同様に、彼ら彼女らも保身のための論理を身につけなければ生きていけなかったのだろうから。

 私の助けになってくれるとしたら──「彼」くらいだろうか。「楽園」から飛び出した彼。「父」の教えと恩恵を授けられながら、どういう訳か「父」を疑うことを思いついた彼。私が添うことになっていた相手で、だから過ごした時間も長かったはずなのに、彼が何を考えているのか、私は何も気づかなかった。彼がそれを言い出したのはあまりに突然で、理解することも及ばなかった。


 「父」が間違っているだなんて。「楽園」は偽りのものだなんて。だから、逃げなければならないなんて──頷けるはずが、なかった。


 衝撃のあまりに首を振ることしかできなかった私に悲しそうな目を向けて、彼は姿を消した。その胸に、私が贈った首飾りが揺れていたのが手ひどい裏切りのように思えたものだ。「父」に背を向けて私を捨てて行く癖に、どうしてそれを持っていくのか、と。私に格別の思いがあるならば、彼はあのようなことをしないはずだと思ったのだ。もしかしたら、彼の方こそ裏切られたと思ったのかもしれないけれど。危険を冒して声を掛けた相手が、何ひとつ分かっていないと突き付けられたからこその、あの眼差しだったのだろうか。


 だから彼にまた会えることなど願ってはならないのだろう。私の方こそ彼の期待を裏切ったのだから。


 手袋越しに感じる冷たく湿った土の感触は、私の心を掘り起こすようでもあった。じっとりとして後ろ暗い、浅ましい感情に向き合うかのようで。新しい時代の宣伝に、転向した「楽園の乙女」として協力することで彼の目に留まることがあるのかも、なんて。彼ならば私が変わることなどないと看破するだろうし、そもそもまだ生きているかどうかも分からない。私には奇跡は起きないのだ。


 指先に硬いものが触れた。また遺体がひとつ、と思って丁寧に土を除ける。見慣れた頭蓋骨の丸み。比較的状態が良いだろうか。頸椎から鎖骨まで揃っているのがすぐに分かる。折れた胸骨の下では、背骨も肋骨もひと塊になっているようだった。その中に、錆びた鎖が絡んでいる。遺品ならばラベリングが必要だ。脆くなっているであろう鎖をそっと摘まみ上げ──その先に下がっている飾りを見て、私は息を呑んだ。


 私が作ったものだった。間違えようもない、小刀で木片をり抜いた形も、刻んだ模様も木目も覚えている。彼に贈ったものだ。他の者の手に渡った? いいや、こんな拙い細工を、死ぬまで身につける者がいるとは思えない。彼のほかには。彼だって、私のことをそこまで思い続けることがあるなんて信じられないけれど。

 でも、この骨はいったいいつ死んで、いつ埋められたのだろう。これが彼なら、そして私と別れてすぐだったとしたら、もしかしたら? 彼が息絶えた時に、私の姿、若く美しかったころの私が目蓋を過ぎったりもしたのだろうか。楽園の子が、楽園を遠く離れたこんな場所で。「父」が許さなかったのか、父の敵対者が彼を見逃さなかったのか。

 何もかも分からない。とりわけ、どうして私がこれを見つけたのかが。


「待っていたの……?」


 呟いた声に応える者はいない。当たり前だ。死者の魂など存在しないのだ。神が引き合わせてくれた? それもあり得ない。神を信じない私に、神は奇跡を授けたりしない。でも、神は信じられなくても、彼ならどうだろう。長い時を越えて、私に何かしらの手を差し伸べてくれた? それもまた、信じがたいことだ。そんな都合の良い偶然に飛びつくのは愚かなことだ。でも──私がこれまでに見聞きしたことを総合するに、都合の良い偶然を、人は奇跡と呼ぶのではないだろうか。意味がないことに意味を見出し、神の名を言い訳にして赦しを得るのだ。私には神はなく、父の欺瞞も知ってしまった。でも彼は。彼だけは。かつて私に手を差し伸べてくれた。


 私と同様に、彼の肉親ももうこの地上にはいないだろう。楽園の兄弟姉妹たちも散り散りになってしまった。だから、この奇跡の遺物は私のものと思ってよいのではないだろうか。私の手元に来るべくして、ここに埋まっていたのではないだろうか。少なくとも、私はそのように信じたかった。神でもなく「父」でもなく──彼を、なのだろうか。何を信じるかも分からないまま信じるのは、私がついに理解できなかった信仰に似ている、気もする。


 訳の分からない理由によって高鳴り始めた心臓を抑えながら。私は注意深く周囲の様子を窺うと、首飾りをそっと自分の胸にかけて服の中にしまい込んだ。

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