奥梨トンネル

月平遥灯

奥梨トンネル

 桃木愛良ももきあいらです、よろしくおねがいします。と叫んで私は席に着く。転校初日から遅刻すれすれで職員室に飛び込んだ私を、担任の倉持くらもち先生は慌ただしい子と評したに違いない。山間部に位置するこの村の学校は、一年生から三年生まで同じクラスで授業を受ける。それだけ人口が少ないということ。



「桃木さんよろしくね」



 隣の席の楠田くすださんが私に振りまく笑顔は、屈託くったくがない。中学二年生の私が思い描く青春とは程遠くなってしまったものの、東京の生活に比べてみれば、自然豊かな環境に少しだけほっとした自分がいた。もう誰も私を傷つける人はいない。きっと。



 給食がない学校は、みんな持参した色とりどりのお弁当をまみながら、会話に花を咲かせる。楠田さんのお弁当は卵焼きとウィンナー、それにサバの切り身にブロッコリーとプチトマトで彩られていた。わたしは……菓子パン。



「ねえ、桃木さんって東京にいたんでしょう? 放課後とか遊んだりした?」


「……うん。でも、あまり」


「いいなぁ。わたしなんてずっとこの田舎だし」


「楠田さんは、将来この村を出たりするの?」


「——出られたらね」


「そうなんだ」



 なにも言わずに頷く楠田さんは、ブロッコリーを一齧ひとかじり。緑の粒子が唇について、まるで森を征服した巨人みたい。ウィンナーを飲み込んだ時には、楠田さんは、ごちそうさま、と言ってお弁当箱をバンダナで包んでいく。その瞳に少し、冷たさを感じた。気のせいかな。



「桃木さんの家って坂城さかきの方だよね? 帰り道にほこらがあるんだけど、必ず手を合わせて」


「祠……? どうして?」


「みんな必ずそうしているから」



 昇降口を出て、校門をくぐる西日の強い午後。車がなかなか通らない道は、歩道などなく、草が生い茂る山肌を不気味に思いながら歩いていく。すると、すれ違う老人。腰の曲がったおばあさんは何も言わずにこちらを一瞥して、ぶつぶつとつぶやき始める。いったいなんなの。



「こんにちは」



 挨拶したわたしの顔を覗き込み、こんなところに来るんじゃないよ、と。ますます意味が分からず、不気味な老婆を横目に歩いていく。



 赤い欄干らんかんの橋を潜って進むと暗いトンネルが見える。あそこを通るのは少し、いやかなり嫌だな。よくテレビで見る心霊スポットみたい。だけど通らなければ帰ることができない。やがて差し掛かるトンネルの前で立ち止まり深呼吸。ふぅ。


 ぽつりと落ちる水滴がなんなのか。トンネルの天井は湿っていて、耳を凝らして聴く鍾乳洞のリズミカルな音のよう。だけど現実はそんな幻想的なものではなく、気を抜いたら幽霊に取り憑かれてもおかしくない状況。リュックサックのベルトを強く握りながら進む濡れたアスファルトは、少しだけ滑りそう。



 思ったよりも呆気あっけなく抜けたトンネルの先に鎮座している祠は、きっと楠田さんが言っていた例の祠。手を合わせないといけないのよね。道の片隅に置かれた小さい神社の両脇に立てられた白い紙垂しでは薄汚れていて、しめ縄が屋根の端から端を繋いでいる。あまり気にすることもなく、手を合わせて後にした。



 異変に気付いたのは、それから一〇分くらいしたときだった。先ほど通った道に戻ってきてしまったのではないかと思うほど、酷似したトンネルが目の前に見えたから。こんな不気味なトンネルが二つもあったなんて知らなかった。トンネルの入り口上部に掲げられたプレートに書かれた名前は、奥梨トンネル。滴る水滴がぽつりぽつりと。



 恐怖でしかなかった。とにかく走った。走った。走った。走った。



 ————走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。走った。



 そして、抜けた先に見えたのは、祠だった。やっぱり。どこかで迷って同じ道に戻ってしまったんだ。祠を横目に通り過ぎると、先ほどと同じ両脇に草が生い茂る細い道。この先に五軒ほどの集落があって、その中の一軒がわたしの家のはずなのに。そう、さっきと同じ光景。迷うことなんてないはず。いったいどこで戻ったというのだろう。



「もう、泣きそう」



 独り言をいいながら歩く道は、どこかで松虫が鳴いていて、残暑の残る秋は二学期のはじめ。あと一年半もこの道を通らなくてはいけないと思うと気が重い。



 下を向いて爪先が前へ前へと、振り子のように向かう先を見ながら進む道は、やがて湿っていく。あれ、と顔を上げると見える、奥梨トンネルの入り口。なんで。今度は真っ直ぐ歩いてきたはずなのに。



 したたる水滴を見ながら、一歩も進むことができなくなってしまった私は、ただ奥梨トンネルを望む。誰かが来るのを待った方が良いのか。それとも、来た道を戻って助けを呼ぶべきか。分からない。ここはどこなの。いったい何なの。



 ごくりと呑んだ唾が喉元を過ぎた頃、後ろから迫りくる気配を感じた。恐る恐る振り向くと、こちらをにらむように見る老婆の姿。腰の曲がったその老婆は、おうり、おうり、と呟きながらゆっくりと近づいてくる。あまりの恐怖に駆け出した。



 踏み込んだ水たまりの跳ねた泥で靴下が汚れようが、降り注ぐ水滴が頬を打とうが、出口の向こうから吹く生ぬるい風が前髪を揺らそうが、ただ息を止めて走った。かぶりを振りながら走る眼前に見える祠の前で立ち止まる、いや、足が勝手に止まった。



 後ろを振り返ると、先ほどの老婆がゆっくりとこちらに向かってくる。トンネルの暗闇に塗りつぶされた輪郭は、腰の曲がった鬼婆おにばばあのよう。包丁こそ持っていないものの、きっとわたしを取って食うに違いない。早く行かなくちゃいけないのに、膝が震えて言うことを聞かない。なんで動いてくれないの。肘を目一杯動かしてなんとか踏み込もうとする足は、金縛りにあったよう。



「祠に手を合わせたのか」



 トンネルを抜けた老婆が訊ねる言葉に、吸った息が肺を停止させるように詰まる呼吸をそのままにして頷く。何度も。


 私は気を失ってしまった。眠る様にすっと入るもやのような意識に私は倒れこんだ。



 目を覚ました私は、気付くと神社の社で横になっていた。なぜこんなところで寝ているの。全く理解ができない自分の置かれた状況に、心臓が派手に踊り狂い、駆け巡る血流が脳内を白く染め上げた。涙とはなで顔をぐちゃぐちゃにしながら暗くなる外を見ては再度泣きじゃくる。


 外を見ると、神主さんと、村の村長、それに村人が数人でわたしをちらちらと見ながらなにかを話している。駆け付けたお父さんとお母さんが神社の入り口で村人に足止めさせられていた。まるで万引きをした犯人を見るような目の村人からわたしは顔を背けた。



 やがて、話し合いが終わった神主さんと村長がわたしに近づき言う。もう手遅れかもしれないけれど、隣村に腕の良い祓い屋がいるから頼んでみる、と。もうわたしは帰れないの。



 それから二時間ほどして軽自動車で乗り付けたはらい屋は、白い着物を着た若い女性だった。まだ二十代前半くらいの綺麗な人。長い黒髪を背中で一本に縛り、榊を片手に私の前に正座をする姿は、祓い屋というよりも巫女さんに近いのかも。



「わたしは、神無月かんなづきという者です。あなたはなぜオクナシ様の祠に手を合わせてしまったのでしょうか?」


「同級生に手を合わせるんだよ、って言われたから」


「なるほど。では、オクナシ様をなぜ見つけることができたのでしょう?」


「え。だって、歩いていたら道に祠があったから」


「なんと。オクナシ様の祠は道になんてありませんよ。オクナシ様は、たたり神の一種です。拝めばき殺されてしまう。手遅れかもしれませんが、最善を尽くします」



 そう言って神無月さんがふところから取り出した写真は、朽ち果てた祠だった。トンネルを抜けた先で見た祠とは程遠い廃墟のような祠は、やぶが屋根に掛かり、山奥の土手に座している薄気味わるい小さい神社のような場所。とても、自分が手を合わせたような祠ではない。



「違う。わたしが見た祠じゃないです」


「いや、確かにオクナシ様だと聞いたよ。たまたま通った人が車でここまで運んできてくれたんだ。あんな場所で眠っている子がいるなんて、と言って」


「え……どういうこと」


「その人も夢を見ているようだったと言っていたから、オクナシ様の祟りにあったのかもしれないね。それに、そういう不思議な現象が起きる時は決まってオクナシ様なんだ」



 神主さんは、眉尻を下げてわたしに告げる。しかし、わたしは全く身に覚えがない。そんな山に入った覚えもないし、歩いてきた道は一本道だったことを記憶している。



「あ、そういえば、おばあさんがいたんだった。おばあさんが追いかけてきて」



 しかし、そんな私の訴えにも、神主と村長は顔を見合わせるばかり。特徴を話しても、分からないの一点張り。



「どちらにしても、オクナシ様の祟りから免れるためには、はらってみるしかありません」



 神無月さんは立ち上がり、目配りをすると、神主さんと村長は頷いて社を後にした。扉が締められると、中は真っ暗で、神無月さんの顔すら見ることができない。社の四隅に燭台しょくだいを置くと、蝋燭ろうそくに火を灯す神無月さんは言う。少し辛いかもしれませんが耐えるのです、と。



 わたしの頭の上をさかきで何回もぎって、口に含んだ清酒を神無月さんが吹きかけてくる。そうしているうちに、気を失ってしまい、わたしは何をされたのか覚えていない。



 翌日、気付くと自宅の布団で寝ていて、何事もなかったかのように起こされて、朝食を食べると学校に向かう。登校をした限り、道の中にトンネルなんてなかったし、まして祠などなかった。では、わたしはどこで祠を見つけたのだろう。



 学校に着くなり、隣の席の楠田さんに話を聞こうと待っていても、彼女が登校することはなかった。そうしている内にホームルームが始まってしまい、楠田さんが欠席のまま授業は進められていく。気になったので先生に楠田さんのことをくと、思わぬ返答があった。



「楠田さん……楠田のおばあちゃんの家の子でね。でも、先週おばあちゃんと一緒に亡くなったんだ」


「え……だって、楠田さんって確かに隣の席に」


「ああ、そうだね。桃木が転校してくる前は、確かに桃木の隣の席だったよ。亡くなったばかりだから、みんなその話をしてるのか。全く」


「楠田さんとおばあちゃんは何で亡くなったのですか?」



 ————トラックにかれたんだよ。



 トンネルの前で。おばあちゃん想いだった楠田は、歩けなくなったおばあちゃんの手を引いて歩いていたら、居眠り運転のトラックが突っ込んできたらしい。二人とも即死だった。



「どこですかッ!? その場所はどこですか!?」


「ど、どうしたんだよ。そんなに身を乗り出して。えっと……」



 思わず乗り出した身を戻して、先生の座る席の前でわたしはうな垂れた。もしかしたら、わたしに……。




 奥梨おうりトンネルの前だったかな



 あとから聞いた話だと、奥梨トンネルという場所は確かに存在していて、そのトンネルの向こう側には祠があるらしい。事故に遭う人が多く、その鎮魂のために建てられた祠と奥梨トンネルは、私の通学路の一本向こう側にあることも知った。



 今でもたまにその前を通ってしまうことがあるけど、には決して手を合わせないようにしている。例え、楠田さんが眠っていようとも。


 ちなみに、オクナシ様という祟り神の祠は未だにどこにあるのか分からない。

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奥梨トンネル 月平遥灯 @Tsukihira_Haruhi

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