第16話「わかってしまいました」

 切れ長の目にシャープな顎。ひかりは写真の女をミズコだと言う。しかし亮介は自分の元妻だと言う。

 あまりにもひかりが取り乱すので、一度寝室の照明を点けて対話をしようと亮介は思った。明るくなった室内でひかりはベッドから動かないので一瞬躊躇したが、亮介もベッドに上がりひかりと対面した。


「大人になってる……?」


 すると明るくなってはっきりした写真を見たひかりが言った。どういうことかと亮介は問い掛けるが、逆にひかりから問い詰められる。なぜミズコと亮介が一緒に写っているのか。先週までの同棲はひかりの体なんだから、写真を撮ったとしても写るのは自分ではないのかと。


 しかし亮介にだってわけがわかっていない。ひかりから何を問われてもその回答は要領を得ず、それならひかりはこの人のことを詳しく話せと食って掛かった。この人とは写真に写っている美姫のことだ。

 死別した元妻である美姫。亮介は彼女のことを話すのに抵抗があった。しかし今目の前にいる取り乱したひかりは、絶対に逃がさないという強い視線を向ける。それを痛感するから亮介は渋々話した。


 話の時間と共にひかりはどんどん表情を無くす。そして亮介の過去をすべて聞いて繋がった。ミズコが誰なのか、わかってしまったのだ。


 瞬間。


「うわーん! あああああ!」


 ひかりはベッドで突っ伏して大声を上げて泣いた。亮介は困惑する。慰めるべきなのか、慰めてもいいのか、触れてもいいのか、状況を理解していないのでやるべきことがわからない。

 ひかりは両手で顔を覆い、ベッドのシーツに額を擦り付けて声を上げて泣いた。それは幼児が泣く時のような豪快な泣き方だった。


「ひっく、ひっく……」


 やがて嗚咽はまだ止まらないながらもやっと顔を上げた時のひかりは、せっかくの美貌をぐちゃぐちゃにしていた。しかしその瞳に亮介を非難するような色はない。ここでやっと亮介は手を動かせた。優しくひかりの両頬に指をあて、ひかりの涙を拭った。


「どうしたの?」

「ひっく……、ミズコが誰なのかわかってしまいました」

「説明してもらえる?」

「はい……ひっく」


 亮介は急かすことなくひかりの呼吸が整うのを待った。ひかりは一度深呼吸をして亮介を見据え、意を決したように言った。


「ミズコは………………です」

「は……」


 亮介は固まった。ひかりの頬に指をあてながら、表情を無くした。一度大きく脈打った心臓が徐々にまた大きな波動を起こす。呆然自失になったままの亮介に、ひかりは自分の考えを説明した。

 信じられない。そんなはずはない。そう思うのに、ひかりの話は隙がなく、否定の言葉が浮かばない。


 ひかりが話を終えて暫く。亮介はベッドの枕棚に背中を預け、ひかりは亮介に後ろから包まれていた。落ち着くためにどうしても人肌が必要だった。ひかりの腹の前で亮介は両手に写真立てを持つ。お互いに会話はなく、ぼうっとその写真を見ていた。

 それから更に時間が経過し、夜中の三時を過ぎた。壁掛け時計を見た亮介が言う。


「ひかり、時間だ」

「はい」


 二人はベッドから立ち上がった。ひかりの父親と居候の女が寝静まる時間。それまでに気持ちを整えようと二人身を寄せ合って過ごした。その時間が来て、二人は緊張を胸に動く。

 部屋着のまま外に出るのも目立つので、二人は外出用のラフな私服に着替えた。そして部屋を出て十五分ほど歩く。ひかりの案内で亮介がたどり着いたのはひかりの自宅だった。

 正面からは入らず、敷地を回って垣根が削られた場所から身を滑らす。するとそこは離れの蔵のすぐ脇だった。


 亮介は蔵と垣根で一度身を隠す。母屋に行っていたひかりが蔵の鍵を持って戻って来た。南京錠を外し、重そうな扉を開ける。ひかりは白熱電球を灯して陰影の濃い蔵を進んだ。そしてすぐに大鏡の前にたどり着く。

 滑らかな彫刻に朱色の漆塗り。ひかりは迷わずその両開きの鏡を開けた。


「あれ? ひかり?」


 鏡の中から現れたのは畳に座る少女だ。切れ長の目に丸みのない顔。


「ミズコ」

「どうしたの? こんな時間に。今日から亮介さんのとこ……」


 ミズコから尻すぼみに言葉が消えた。視線はひかりの肩越しに彼女の後方を向いている。ミズコが捉えたのは濃い陰影の陰から出てきた男、亮介だった。


「お父さん……」

「やっぱり」


 ミズコの口から零れた言葉にひかりは確信を得た。ミズコは完全に表情を無くし、呆然とした様子を見せる。しかしそれは一瞬で、ミズコは俯いて寂しそうな笑みを浮かべた。


「こんなに早くバレるとはな……」

「美姫……?」


 亮介は靴を脱いで畳に上がると、勢いよく鏡に向かった。そして鏡面に両手をついて膝立ちでミズコを見据える。自分の姿が映っていない。蔵の中の雑多なものは映っているのに、生きている自分とひかりは映っていない。それなのに鏡の中には美姫がいる。

 いや、違う。ひかりから説明をされた。信じられない気持ちが多大にあった。しかし目の前には前妻の美姫と顔も声も瓜二つの少女。そう、少女だ。美姫が自殺をしたのは二十六の時。残っている写真だと二十二歳。だから違うとこともわかる。けれどミズコは学生の時の美姫そのものなのだ。


「違うよ、お父さん……」


 間違いなく鏡の中の少女が語っているのに、脳に直接届いているかのような声。亮介は震える声で語り掛けた。


「僕の子供……なのか?」


 眉尻を垂らして問い掛ける亮介に弱い笑みを見せるミズコは頷いた。膝立ちをしていた亮介は力なくその場に腰を落とした。ひかりは亮介の斜め後ろで様子を窺う。そんなひかりを見てミズコは言った。


「バレるのは時間の問題だと思った。気づいたのは寝室の写真?」

「そう」

「ひかりなら一緒に寝ようとはしないと思ったんだけどな。だからまだ時間がかかると思ってた。寝室にはお父さんが入れたの?」

「違う。私が勝手に忍び込んだ」

「これは予想外だ」


 ミズコは頭をかいた。そして次に顔を上げた時は亮介を見据えていた。


「改めまして、初めまして。私がお父さんの娘です。名前はありません。初めてひかりに会った時は水子って名乗りました」

「ミズコってお腹の中の子供、水子のことか……」


 亮介は涙を堪えきれなかった。そして「ごめん、ごめん」と何度も謝った。


「謝らないで、お父さん。私はお父さんを恨んでない。もう当時の父さんとお母さんの年齢を過ぎて私も理解してる。むしろ一緒に生活できて、私のお父さんは優しくて暖かいんだってわかったから嬉しかった」

「そんな、そんな……」


 涙を流す父にミズコは優しい眼差しを向けた。美姫がよく見せた母性のある笑顔だ。

 ここでひかりがミズコに問う。


「亮介さんから聞いた。亮介さんは十五の時に当時交際相手だった美姫さんを妊娠させてる。その時の子がミズコだね」

「そうだよ」


 ミズコはどこかスッキリした表情も垣間見せる。


「堕胎の日はいつ?」

「ひかりももう気づいているんでしょ? 十六年前の十月二十八日。ひかりの誕生日だよ」


 人外だとは理解していた。しかしミズコは死者だった。先ほど亮介の部屋でそれに気づいた時、ひかりは悲しくて涙が止まらなかったのだ。


「私が生まれた日、ミズコは堕胎されて精神だけ私に宿った」

「正確に言うと、本当は産みたいという両親の愛情を強く感じて、堕胎直前に精神だけひかりのお母さんのお腹に逃げた。その時物理的に一番近くにいたから」

「そういうことか。それで直後に生まれた私の体にミズコは同居することになった」

「そう。だから本来生まれるなら私はひかりより一つ年下。けどひかりと同時に現世に出たから、鏡に映る時はひかりと同じ成長スピードで容姿が変化した」

「現世って……」


 ここで声を出したのは亮介だ。彼はやっと止まった涙を拭いながら顔を上げた。それにミズコは優しい眼差しを再度向ける。


「私が言う現世っていうのは、簡単に言い換えると外気に触れたってこと。けど正確に言うと、私は体がないから現世に出たのはひかりだけ。水子は外気に触れた時にはもう死んでると解釈される。それから私はひかりを宿主にしてひかりの中に住んでた」

「この鏡は?」

「この鏡は現世の人たちの迷信で言うところの三途の川。死んだ人の魂が四十九日だけ留まれる場所。私は生を受けられなかったのに、しぶとくも精神だけひかりに巣食って生き残ったから、中途半端な存在でここにいることができる」


 普通に考えれば信じられない話だ。しかしそもそもミズコと不思議な人生を歩んできたひかりにも、ミズコの父で堕胎の記憶がいまだに鮮明な亮介にも、その事実はすっと腹に落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る