9年後、そしてあとがき

パン屋はなくなった

 パーティーを抜けて1階まで降りると、広場に出た。揃いの作業服を着た男たちが街路樹にクリスマスの電飾を飾っていた。街路樹の葉っぱはディルという名のハーブによく似ていた。昔通っていたパン屋でよく見かけたハーブだった。


 秘書の女の子からのメールに返信して、ぼくは広場を出てすぐの車道まで歩いた。冬だった。広場とショッピングモールの境目には小さな保険代理店があり、サンタの帽子をかぶったアヒルのぬいぐるみがこちらを見ていた。


 車道に出ると、秘書の女の子が運転するポルシェがこちらに近寄ってくるのが見えた。ポルシェはぼくの右足を軽く轢いてから停車する。飲みたくもなかったシャンパンが胃の奥でまだ弾けている気がした。要するに嫌な気分だった。


 流れる街灯を見つめながら、さきほどの男たちが設置していた電飾が何色に点灯するのかを考えていた。時期的に、赤と緑のクリスマスカラーに違いない。その光はたぶん広場の端の保険代理店(不意に思い出したが、そこには昔、すごく高いパン屋が入っていた)まで届くんだろう。


 携帯に誰もが知る有名女優からの着信履歴が残っていた。きっと引っ越しの段取りについての話だと思う。来週末からぼくはその女優と一緒に暮らすことになっていて、本当ならすぐにでも電話を折り返すべきなんだろうけど、さっき轢かれた足が赤と緑をぐちゃぐちゃに混ぜたような変な色に腫れてきていて、それどころではなかった。この足で新婚旅行に行くと思うと、気が滅入った。

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今田の「高いパン屋に46日連続で通う人」 @1mada

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