第38話 野乃香家に連れ戻される

 一週間後の試験は、二人ともそれなりの成果を上げることができた。俺にとっては以前在学していた高校で勉強した内容だったし、元々成績は良かったので、クラスではトップの成績だったし、野乃香も上位の方に入った。友人の美留久は、野乃香の進歩に目を見張っている。


「野乃香、いつそんなに勉強したの。凄いじゃない」

「あら、美留久だってよかったじゃない」

「ひょっとして、来夢に教えてもらった?」

「少しは、ね」

「やっぱり。いいなあ」


 羨ましがる美留久の言葉を聞き、野乃香は誇らしい気持ちになる。来夢の事も褒められたような気がするのだ。実際は、教えてもらったからだと言って自慢したい気分なのだが、それは抑えている。色々な事が順調に進むと、気持ちが晴れやかになる。



 何もかもが順調に言っているかのように思えていた。来夢の家に向かって帰宅していたところでメールの着信があった。姉の梅香からだった。


(お母さんが、家に戻って来てるの! 野乃香、すぐに帰ってきて。これから三人で暮らそうって言ってるのよ。狭いから無理だって説得したんだけど、三人で家賃を払えば広いところで暮らせるって言い張ってるの。とにかく家に戻って。あんたが来夢と暮らしてい事、知らないんだから)


 野乃香は急いで返信して、家に戻ることにした。


「来夢、実は、お母さんが帰ってるんだって。今度は家に戻らなきゃならないかもしれない」

「……そうなの。随分突然だね」


―――なんてこった!


―――野乃香のお母さんはどれだけ自分の子供たちを振り回せば気が済むんだ!


―――人の気も知らないで、今度は家族水入らずで暮らしたいだなんて、呑気も甚だしい!


「ごめん。せっかく私を置いてくれてたのに」

「いや、仕方ないよ。とりあえず戻って。事情が分かったら、後で連絡してね」


 平静を装うが、心中全く穏やかではない。


 家に帰った野乃香は、呑気に部屋でくつろぐ母の姿を見つけた。


「お母さん、今度は一緒に住もうって、どういうことなのっ」

「まあ、野乃香怒らなくたっていいじゃないの。久しぶりに親子三人で暮らそうと思ったのよ。私も色々あったから、あなたたちが独立してバラバラになってしまうまで、一緒の時間を過ごしたくなったの」

「はあ、いまさら何をいってるの。私達はお母さんがいなくてもやって行けるように、必死で独立しようとしていたのよ! お姉ちゃんも何とか言って!」

「もうお母さんの決心は固いようよ。仕方ないわ、暫く三人で暮らしましょう。そのために部屋も調べてあるって言うんだから」

「もう、どこからそんなお金が出るのよ!」

「私もまた働き始めたから、三人一緒の方が広いところに住めるわ」

「まったく……こちらの都合も考えないで」

「あら、野乃香。こちらの都合ってどういうこと? 何か隠してることでもあるの? 話してよ」

「べ、別に、何もないわよ」


 梅香が二人を取りなすように言った。


「まあ、二人とも喧嘩しないで。お母さんの気持ちもわからないでもないわ。野乃香、暫くの間、三人で暮らさない。交代でやれば、家事が楽かもしれないじゃない」

「ま、まあ、そうだけど。じゃあ、暫くの間、ってことね」


 結局、母親の意志が押し通された形になり、三人で新しい住まいに引っ越すことになった。



 荷物を取りに、来夢の家に入った野乃香は、すっかり二人の荷物で一杯になった部屋を見回した。二人で生活することが楽しくなり、買い揃えたものだ。すべてに思い出がある。


「あ~あ、こんなに私の洋服があるのに、又持って行かなきゃならないのね。いろんなものを買い揃えたのに、やだよお! 寂しいよお、来夢う!」


 野乃香の瞼は、涙で一杯になっていた。そんな顔をされたら、俺だって泣き出したくなる。


「あのさ、全部持って行かないでよ。いつでも、ここに戻って来られるように、置いといてよ。いいだろう?」

「あああ、来夢うう! 感激です! そうよね、荷物画を置いておけば、いつ戻って来てもいいよね。そうする、そうする。何だか、とっても嬉しい」

「そうじゃないと、悲しむと思ってさ……それで、いつまで三人の暮らしをするんだろう」

「そ、それは分からない。お母さんが止めようって言うまで……かな」

「本当に君のお母さんて、気まぐれなんだな。じゃあ、またすぐに飽きて出て行っちゃうかもしれないよ」

「そうかもね。そうだといいけど」


 部屋で話をして、かなり気持ちが落ち着いてきた野乃香は、バッグに入るだけ服を入れて、来夢の家を出ることにした。


「ねえ、野乃香」

「うん、なあに、来夢」

「暫くお別れなのに、冷たいぞ」


 夕闇が迫る部屋で、来夢は野乃香のうでを引っ張り自分の胸の中に引き寄せた。


「あっ」

「黙って!」


 誰も見ている人などはいない。オレンジ色の夕日が二人を照らしているだけだ。来夢は、夕日で茜色に染まった野乃香の顎をくいッと持ち上げて、彼女のふっくらとした唇に自分の唇を重ねた。胸にしびれるような切ない気持ちが広がる。いつまでも離れがたく、二人は何度も何度も唇を重ねた。野乃香の瞼から、ツーッと一滴涙がこぼれて落ちた。俺はそれを指でぬぐった。暖かいぬくもりが、指に伝わった。そのうち苦しくなってきて、ようやく唇を離した。


「く・る・し・い」

「大丈夫だ。キスをしすぎて死んだ人はいない」

「そう、なの?」

「た・ぶ・ん」


 それからしばらくお互いの体を抱きしめていた。太陽が隠れてしまったのを合図に、野乃香は来夢の家を後にした。

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