マジックアワー

白川ちさと

マジックアワー

 

 わたしは長く離れていた故郷の町に帰ってきた。特別におめかしして、お気に入りの白いワンピースを着ている。


 でも帰ってきたと言っても、ずっと住むわけじゃない。この町に居られるのは、ほんの少し。時間も決まっていて、今日の午後六時三十五分まで。


 なんて中途半端な時間なの。魔法が解けちゃうシンデレラじゃないんだから、こんな短い時間しか自由にしていられないなんて神様はいじわるだ。


 わたしがこの町に帰ってきたのには目的がある。


 昔、わたしの家のお隣に住んでいたお兄ちゃんに会うためだ。





 最初にやってきたのは、よく街に行くために使っていた電車の駅。古い造りの駅は、相変わらず壁のペンキが剥げていた。そこから駅前のお店が並ぶ道を歩く。


 ジュージューと懐かしい音が聞こえてきた。お総菜屋さんがコロッケを揚げている音だ。総菜屋のおじさんは汗を拭っている。


 小学生のときは帰りに寄り道していた。少ないおこづかいをやり繰りして、コロッケを買っていたなぁ。お兄ちゃんに受験のお夜食にって差し入れしたこともある。


 いま買っていったら、お兄ちゃんも喜ぶかも。


 そう思いながらも、わたしは先を急いだ。


 駅の時計が指す時刻は六時五分過ぎ。もともと時間はあまりない。





 駅前の店通りを過ぎて少し歩いたら中学校の前に来た。


 金網越しに見つめるのは、広い校庭に大きな校舎。夏休みだから、学生の姿は見えない。結局、二年間しか通うことが出来なかったな。それでも、思い出がいっぱいある。


 夏は夜の学校に忍び込んで肝試しをしたり、秋は落ち葉を集めてコッソリ焼き芋を作ったり。


 お兄ちゃんとは二歳離れているから中学一年のときだけ、一緒に通学できた。お兄ちゃんは優しいから、いつも寝坊して遅刻しそうなわたしを家から引っ張ってくれたんだ。


 名残惜しいけれど、中学校にも背を向ける。


 校舎の一番上にある時計はもう十分近くになっていた。


 のんびりしている場合じゃない。





 息を切らしながら、わたしは住宅街を走り抜ける。


 目指すはお兄ちゃんがいる家。


 角を曲がると見えてきた。大きな木が一本、シンボルツリーとして立っている赤茶色い屋根の家がお兄ちゃんの家だ。


 その隣の家を見て、ぎょっとした。


 元わたしの住んでいた家だ。庭の草がぼうぼうと生え、家の壁も色がくすんでいる。きっとわたしたち家族がいなくなってから、誰も住んでいないんだ。


 少し寂しく思いながら、わたしはお兄ちゃんの家に進む。


 庭に誰かいた。


 隣のおばさん、お兄ちゃんのお母さんだ。そこにおじさんが家から出てきた。


廣吉ひろよしはどうした?」


「ああ、裏山よ」


「……そうか」


 裏山? なんでお兄ちゃん、裏山なんかに行っているんだろう。


 不思議に思いながらも、私は急いで裏山に足を向けた。





 わたしは山を登りながらお兄ちゃんの姿を探す。


 家の裏にある山。


 標高も高くなく、道も整備されているから子供の頃からよく遊びに来ていた。頂上には木の柵で囲っている展望台もある。たぶん、お兄ちゃんがいるとしたら展望台。


 小学生の頃は地面に丸を書いてけんけんぱをしたり、どっちが靴を遠くに飛ばせるか競争したりした。一度靴を失くして、帰りはお兄ちゃんにおぶってもらったな。


 やっぱり頂上の展望台にお兄ちゃんはいた。夕陽をバックにこちらに背を向けている。


「お兄ちゃん!」


 お兄ちゃんが振り返った。二年ぶりに会う高校三年生になったお兄ちゃん。

背が伸びていて、顔つきも大人っぽくなっていた。


「あ、葵……?」


 わたしを見て驚いている。


 そりゃそうだよね。いきなり訪ねてきたらびっくりするよ。


「あ! お兄ちゃん、今何時何分?」


 わたしは大事なことを聞いた。お兄ちゃんはポケットからスマホを取り出して確認してくれる。


「ちょうど、六時三十分だ」


 大変、もうあと五分しかない。


 ずっと伝えたかったこと、伝えないと。


「あの、あのね。わたし、お兄ちゃんに会いに来たよ」


「オレに?」


 驚くのも無理ないと思う。二年も会わずにいて、なんでこのタイミングでって、わたしも思うから。


「わたし、わたし、ね」


 時間がないというのに、私の口からは意味のない言葉ばかりが出てくる。あれも言おうこれも言おうと思っていたのに、どうしてお兄ちゃんを前にすると言えないの。


 苦しくて目に涙が滲んでくる。


「葵」


 お兄ちゃんが優しい声でわたしを呼ぶ。


「ゆっくり息を吐いてごらん」


 微笑みながらそう言ってくれた。


「うん」


 わたしはふーっと長い息を吐く。少しだけ落ち着いた気がした。


 なにより、お兄ちゃんが以前と変わらない優しい眼差しで見ていてくれている。


「ここに来るまでに、町の様子を見てきたよ。駅、変わってなかった」


「ああ、相変わらず古臭いまんまだろ」


「お総菜屋さんのコロッケ、美味しそうだった。また食べたいな」


「……そうか」


「中学校の前も通ったよ。お兄ちゃん、高校は楽しい?」


「……。」


 見つめ合ったまま沈黙してしまう。


 違う。こんな話がしたいんじゃない。早く言わないといけない。


 わたしはもう一度、深呼吸をした。


「あのね。わたし、お兄ちゃんにお礼が言いたかったの」


「お礼?」


 お兄ちゃんは心当たりがないみたいできょとんとした。


「うん。いつも一緒に遊んでくれてありがとう。小学生のときに引っ越してきて、わたし中々友達が出来なくて、お兄ちゃんが遊んでくれたよね。一緒にクッキーを作ったり、おままごとをしたり。お兄ちゃんにとっては退屈だったと思う」


「……そんなことない」


「中学生のときにも、一緒に遊んでくれたし、たくさん相談に乗ってくれたよね。友達のこと、勉強のこと、恋愛のこと……。いっぱい、いっぱいありがとう」


「大したことじゃないよ」


「大したことあるよ!」


 わたしはお兄ちゃんの手を掴もうとした。


 でも、その手はすり抜けてしまう。


 二人ともお互いの手を見つめて、少しだけしんみりした。


「……中学生の悩みなんて大人になったら、すごくちっぽけなものに思えるかもしれないよね。でも、もう私は大人にはなれない」


「……。」


「お兄ちゃんは私の人生の全部。ありがとう。大好きだったよ」


 もう時間だ。


 午後六時三十五分。


 魔法の時間はもう終わり。陽が沈むと同時に、わたしはあるべき場所に還っていった。



  ◇◇◇



 橙色の光に溶け込むように葵は消えていった。


 葵が亡くなったのは二年前。


 春休みに一家で温泉旅行に行った帰り、高速自動車道で転倒したトラックに巻き込まれた。乗車していた家族三人は全員助からなかった。


「どうして、いま……」


 オレはポケットに折りたたんでいた紙を取り出す。


 自分で書いた遺書だ。


 ここから飛び降りて死ぬつもりだった。


 葵が聞いてきて答えられなかったけれど、高校は全く楽しくない。


 陰湿な嫌がらせを受けている。歩いているだけで足を引っかけられたり、鞄にゴミを入れられたり。金を巻き上げられることもあった。


 オレがなよなよしていて男らしくないという理由らしい。嫌がらせする奴の気持ちなんて分からない。だけど死のうと思ったのは、何も嫌がらせを受けているせいじゃない。


 二年前、葵が死んでから何もかもが灰色になった。


 何をしても楽しくない。何をしても笑えない。何を見ても暗く見える。





 葵との毎日は輝いていた。


 そのときは、輝いているなんて気づかなかった。何でもない毎日だったけれど、毎日葵が笑わせてくれた。そばにいるだけで、心が安らいでいた。


 どうして、失ってから気づくのだろう。


 どうして、いま来たのかなんて本当は分かっている。


 きっとオレが呼んだんだ。




 顔を上げて空を見た。


 陽は沈んだけれど、まだ空は色づいている。深い紺色に、白色、橙色、桃色もある。


 葵と子供の頃、ここに遊びに来て見つめたあの色だ。


 葵はきっとその色のどこかにいる。輝きの中にいるんだ。


 遺書を書いた紙を破って、また空を見上げる。


「お礼を言うのはオレの方だ。葵……。オレも大好きだったよ」


 そのまましばらく、ただ移り行く空の輝きを見ていた。

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