その36 聞こえない悲鳴

 目を覚ました時、真っ白な天井が見えた。

 視線を横に向けると、大きな窓ガラスの外は真っ暗で、もう夜だった。

 壁にかかっていた時計を見れば、八時を少し回ったところだ。


「っ……、痛」


 全身が痛み、起き上がろうとしたが途中で力尽きる。

 腕には点滴の針が刺さっていた。

 それ以外、特に拘束もないので俺の怪我は重たいものではないらしい……それには少し安堵した。


 まあ、覚えている限り、車に撥ねられただけだ。

 意識が戻らないから点滴だけされているのかもしれない。

 外傷も少なく、包帯が巻かれているだけだ。

 骨も折れているわけではない。


 ただ、体がまだ痛むので、自分の足だけでは歩くことすらままならないだろうが。


「お姉ちゃん……」


 俺が寝ているベッドの脇に、ニヨが顔を突っ伏して眠っていた。

 目元が赤くなっており、泣き腫らしたのだろう。

 少し肩を揺すってみたが、起きる気配はなかった。


 ……目を覚ますのをずっと待っていてくれたのかもしれない。

 疲れて寝ちゃったみたいだけど。


 ちょっとの物音では起きないだろう。

 それは好都合だった。


 もしもニヨが起きていれば、絶対に外へは出してくれないだろうから。

 点滴の針を抜き、ベッドから出る。

 用意されていたスリッパを履き、杖を手に取った。


 病院が用意してくれたものではなく、老人が使っていそうな、イメージ通りの杖だ。

 確か、じいちゃんが似たような杖を持っていたような気がする。

 ただ、まだまだ杖を使うほど体が弱いわけではないので、滅多に見ないが。


「やっぱ、動くと痛いな……っ」


 足だ。

 上半身は動くが、下半身が痛みでぎこちない。

 杖がなければ病室からも出られないだろう。


 病室のベッドから廊下まで、たった数メートルの距離だったが、五分も時間がかかってしまった。

 この短い距離でこれなら、目的地まで何十分かかるか……いや、何時間、か。


「どこへ行く気だ、良」


 真っ白な扉を開けるとまだ消灯時間ではないらしく、廊下は明るかった。

 病室の目の前には長い椅子があり、そこにじいちゃんが座っていた。

 俺が抜け出すのを見抜いていたかのように見張っている。


「考え過ぎだ。たまたまここで休んでいたら、お前が出て来ただけのことだ」


 ああ、そう……。


「それで。どこへ行く気だ? 退院はまだだぞ」

「トイレ」

「そうか……、無理をするなよ」


 あっさりと信じたじいちゃんに背を向け、トイレに向かいながら出口を目指す。

 看護婦さんと何度かすれ違ったが、意外となにも言われなかった。

 病室から出て歩いている入院患者は周りを見ればたくさんいるし、俺を担当している先生でないと俺が目を覚まして歩き回っている、とは気づかないのかもしれない。


 中を歩き回っていただけでも分かってはいたが、外に出て病院名を確認してみたら、有名な病院だった。

 なるほど、大きくて広いわけだ。


 スマホを置いてきてしまったので現在地が分からないが、病院名が分かったのでなんとなく自分がどの区にいるのかも分かる。

 後は町中にある地図を見れば、目的地までの道のりが導き出される。


 いや待て、スマホがなければ財布も持っていない。

 もちろん、電車賃もなく、ここから徒歩で向かわなければならない――さすがに、怪我をした足で踏破できる距離じゃ……、


「トイレ、じゃなかったのか?」

「じいちゃん……」

「戻れ、良。ニヨが心配する」


 目を覚まして、いるはずのベッドに俺がいなかったら、お姉ちゃんをもっと悲しませることになる。

 一度、顔を泣き腫らすくらい不安にさせてしまったのだ。

 これ以上、お姉ちゃんを裏切りたくはない――。


 だけど。

 今しかないタイミングで、今しか救えない誰かがいると知ってしまったら。


 大切な人の涙を拭く手を止めてでも、行かなきゃならない。


「どうしてお前が行く必要がある。誰かに頼めばいいではないか。頼りになる後輩が、いるのだろう?」

「俺が行かないと、意味がないんだ」


 俺が行かないと。

 俺が言わないと。

 怪我をした俺が、それでも伝えないと意味がない。


「俺が生徒会の会長だったって知ってるだろ?」

「ああ、ニヨから聞いている。お前はそういうことを言わないからな」


 不正をしていたのがばれて会長をクビになった、とまでは知らないらしい。

 ニヨも言わないでいてくれた。

 俺もわざわざ報告する気もなかったし。


「会長である以上、部下のみんなの命を背負っている、と言ってもいいよな」

「だが、学生だ。限度がある。死にかけたその体で、しかも今、お前がやり遂げなければならない仕事ではないはずだ」

「仕事じゃねえ。そんな冷たい感情で動いているわけじゃないんだよ」

「ニヨ以外に向けた恋慕だとでも言うのか?」


 違う。


「――俺が、会長だからだ」

「……分からんな。お前、初めから説明する気などないだろう。感覚で言っているようにしか聞こえん。お前の中に答えがあって、それを外に出すのを、嫌がっているようにも見える」


「詳しくは言いたくないけど、遊びに行くわけじゃないってのは本当だ」

「この状況で遊びに行く馬鹿な孫なら、治療費を払わずに見捨てるぞ」


 今の言葉は本気だった。

 さすがにそんな馬鹿な真似はしないが……ゾッとした。


「……このままだと、相棒が、いなくなっちまう」


 ニヨだけいればいい、そう思っていた時期もあった。

 学園で一人きりになった時、ニヨが傍にいてくれて、救われた。

 けど、浦島と出会い、金山先輩に誘われて、ニヨがいれば寂しさを紛らわせてくれた日々が、楽しくなった。


 仲間がいるだけで、生活は色をがらっと変える。

 かつては――相棒が。

 彼女が、その役目を果たしてくれていた。


 今は少し距離ができてしまっているけど、俺にとっては今も変わらない仲間だ。


「今、あいつは一番、傷ついてる。後になってしまえば絶対に治らない深い後悔だ」


 時間は今しかない。

 いま行かなかったら、そして間に合わなかったら――俺が後悔する。


 あの時に死んでおけば良かった……、そう思ってしまうような後悔だ。


「じいちゃん」

「…………なんだ」


「会長は、副会長を助けるもんだろ?」



 大きな溜息。

 そして、じいちゃんが懐から一万円札を取り出した。


「勝手に行け。電車じゃ目立つだろう……タクシーを使えばいい。これで足りるだろ」


 じいちゃんが俺の胸に、一万円札を押しつけた。


「…………ありがとう」

「ニヨへの弁明は自分でしろ。そのためにも、成功して帰ってこい」


 じいちゃんに見送られ、タクシーに乗り、行き先を告げる。

 きっと、俺以上に怪我を負ったあいつは、あの場所にいるはずだ。



 タクシーから下りて夜の学園に辿り着く。

 当たり前だが、校門は閉まっていた。

 柵を登ってもいいが、一応、エリート高校、不法侵入者対策で警報が鳴っても困る。

 どうしたものか……と悩んだが、俺が二人目であるなら一人目の道筋をなぞればいい。


 学園をぐるっと回ると、教員用の出入口である扉が開いていた。

 試しにドアノブを捻ってみたら、案の定、カギがかかっていなかった。


 静まり返った廊下……自分の足音がよく響く。

 見回りの警備員もいるだろう、杖の音を極力小さくし、目的地を目指す。


 広い校舎のせいで何度か俺を狙う懐中電灯の光に遭遇し、ひやっとしたものだが、見つかることはなかった。

 かなり迂回してしまったが、無事に目的地に辿り着く。


 生徒会室。

 カギは……かかっていなかった。


 ゆっくりと部屋に入り、後ろ手で扉を閉める。

 部屋を見渡しても、人影は見当たらない。


 俺には見えていなかった。


「…………」


 久しぶりの生徒会室だ、しかし、懐かしんでいる場合ではない。

 生徒会長の席。

 ……もう、俺の席ではない。

 ――なのに。


 机の上のレイアウトはほとんど変わっていなかった。


「……残してある、わけねえよな」


 俺が戻るのを待ち望んでる? 

 もしそうなら嬉しいが、あり得ないだろう。


 今の俺が戻ったところで、力になれるとは思えない。

 力が使えるならまだしも、俺自身の実力なんてたかが知れている。


 学園の順位は下から数えた方が早いくらいだ。

 副会長の席もレイアウトは俺が知っている当時のままだ。

 この席はまだ埋まっていないため、単に誰も使っていないから変わっていないだけかもしれないが。


 椅子を引いてみた。

 なぜか机の下に収まらずにはみ出ていた椅子を退かし、屈む。


 四角い空間。

 その奥へ手を伸ばしたら、手の平に感触があった。

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