第6話 マシ

 その日は。


「ありがとね。話聞いてくれて。ちょっと楽になった。あの人も、別にずっと怒ってる訳じゃないんだよ。普段は優しいの。だからその時に、落ち着いて話してみるね」


 そう言って別れた。無理矢理の笑顔を浮かべて。


「うん。何かあったらまた言ってよ。話は全部、聞くから」


 僕はそれ以上、何も言えなかった。乗り込んで『止めろ』と言う? そんなのできるわけない。僕の中で、会ったこともない『こーちゃん』は。とても怖い人になってしまっているんだ。

 どうすれば良いのだろう。ご両親も警察も駄目なら。真愛さんの実家はとても遠い。交通費だけで凄く掛かる場所だ。

 本当に大丈夫だろうか。凄く心配だ。僕の存在が原因なら、もう会わない方が良いのだろうか。でもそうしたら、優愛は。


——


 色んなことを考えながら、帰宅する。明かりは付いていない。誰も居ない、一軒家。

「……ただいま」

 意味はない。言うだけだ。おかえりなんて、もう何年も聞いてない。

 パチ、とリビングの電気を付けると、テーブルの上にメモがあった。使い古された、しわしわのメモ。内容は読まなくても分かる。


『お父さんの所に行ってくるから』


 から、なんだよ。


「……はぁ」


 無視して、戸棚を開ける。買い込んでいるカップ麺をふたつ取って、電気ポットのスイッチを押す。

 テレビを付けて、カップ麺の包装を破きながらソファに座る。お湯が沸くまで、1分。


 ほぼ毎日、夜はカップ麺だ。ひとつじゃ足りないからふたつ。朝は無し。昼は購買のパンとか弁当とか。

 料理なんかできない。ウチのキッチンはオーダーメイドのシステムキッチンなのに、殆ど使われていない。

 真愛さんの手料理、滅茶苦茶美味かったな……。母さんの料理なんて、最後に食べたのはいつだろう。

 父さんが単身赴任になったのが、中学一年の時だったっけ。じゃあそれより前だな。


 ピー、と。お湯が沸いた合図。カップ麺を持って注ぎに向かう。今日はシーフードとカレーだ。嫌いじゃないけど特別好きにもなれない。


 ちらりと、和室を見る。ドアが開きっぱなしだ。

 ……ベビーベッドが見える。今日もきっちり、連れていったのか。僕には絶対に、任せられないらしい。


——


 以前父さんに、メールしたことがある。母さんが、気になったからだ。地方でひとりでお仕事頑張ってるから、ちょくちょく様子を見に行くからと。母さんが行っていたけど。

 確かに、月に1度くらいは会いに行っているらしかった。最初の1年くらいは。

 いくら、中学生とは言え。僕にも分かった。だって、そう言って出掛ける時。母さんは念入りにお化粧をして。化粧棚の引き出しに指輪を仕舞ってから、出掛けるんだ。


 父さんは、会社で結構凄いらしく、家も大きいし、母さんが専業主婦をできていた。僕のお小遣いもあるし、スマホも買って貰った。

 だけどそれが、必ずしも『幸せ』には繋がらない。少なくとも母さんは満足していないらしい。


「……ごちそうさま」


 食べ終わると、22時45分。スープまで全部飲み干して、ゴミ箱に捨てる。それからお風呂だ。大きい湯船に、お湯も何年も張ってない。毎日シャワーだ。一年中。

 上がったら、寝るだけ。洗濯があるときは洗濯する。自分の分だけ。籠に入れていても母さんはしてくれないし、なら僕も母さんの分はしない。


 でもまだ、ましな方だと思う。幸せな方だと思う。

 失礼だけど。真愛さんを、見てると。


——


——


『今どこ?』

「えっ」


 7月16日、20時52分。まさかの電話が掛かってきた。母さんから。

 眠る優愛を抱きながら、電話を取る。


『鍵忘れて出ちゃったから。開けてくれない?』

「……もうちょっとで帰るから、ちょっと待って」

『今どこ? 早くしてくれない。そもそもいつも言ってるけど、補導されるわよ。恥ずかしいから夜遊びなんてやめて』

「…………」


 もうそろそろ、真愛さんが戻ってくる。それからダッシュで帰っても。20分くらい待たせてしまう。

 それは、母さんは許さないと僕は知っている。


「……分かった。すぐ戻るから」

『早くしてね』


 すぐに、また公園に戻ってきたら良い。そう思って、僕は優愛を抱っこしたまま家へ向かった。真愛さんにメッセージして。

 流石に、優愛をひとりにしておけない。


——


——


「遅いから。……何その子」

「……なんでもないよ。はい鍵。僕、また戻るから。この子送らなきゃいけないし」

「何それ。変なトラブルに突っ込んでないでしょうね」

「……友達の妹さんだよ」

「不良の友達ね。止めなさいそんなの。そもそもあんた子守りなんてできないんだから」


 母さんとの会話は、好きじゃない。いつも、否定しかされないから。

 僕から鍵を奪い取って、僕がまだ帰らないと知るや否やさっさと入ってしまった。


「……自分は遊びまくってるくせに」


 ドアが閉まりきってから呟いて、踵を返す。

 夫の単身赴任を良いことに、息子を騙してまで不倫してる母さんの言葉なんか。なにひとつ、入ってこない。

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