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(先生が悪魔だなんて僕にはまるで信じられず、だって先生はどこから見ても先生なのだ、丸い眼鏡も優しそうな目もとも先生としか言いようがなく、ただよく泣いて笑われる先生である。

 僕は先生と暮らし始めて先生というものでも好き嫌いをなさるのだと知った。食事のお作法が少し汚いことを知った。先生も僕と同じだ。今も先生は鯖の煮たのを少し食べこぼしている。鯖が先生の頭の周りを泳ぎ回って抗議をしているが僕は博愛の人ではないので無視をする。先生には見えていらっしゃらないので。お優しくある必要はないので。先生が食べこぼされたのを拭いてやるとありがとうございますと言われ、僕は嬉しくなる。

 

 先生が好きだ。悪魔であっても好きだ。)





 初めてあれのことを聞かされたとき、俺は「何を馬鹿なことを」と思った。幽霊が見える癖に悪魔を信じない方が馬鹿げているかもしれないが、当時の俺は、はっきり言って非現実的なものにうんざりしていたのだ。人に見えないものが見えるばかりに、家を追われるように出てきたばかりの時だった。


『「知恵の悪魔」と私たちが呼ぶものは』


 呂街くんと出会う半年前、俺はがらんと広い会議室の真ん中のパイプ椅子に座らされ、たった一人で壁に投影されたスライドを見ながら、これは一体何の冗談だろうと考えていた。


『観測以前の量子不定状態を維持したまま収束しうる観測値を算出し発生しうる事象可能性を書き出し可能にする霊的存在です――すなわち、「知恵の悪魔」を適切に運用することで未来のあらゆる可能性を予知し、危機回避に活用することが出来るのです』


 天井のスピーカーから流れだす機械じみた女性の声による解説はまるで飲み込めなかった。スライドに並ぶ馴染みのない文字列の脇に、どれだけの意味があるのかも分からない樹形図が添えられていた。


『不定状態にある霊的存在を固定し、書き出しを実行させるのが観測者の業務になります』


 洋館の写真にスライドが切り替わる。一般的なガーデニングの域を超えて、偏執的なほどに花で飾られた、こぢんまりとした家だ。あの時の俺は可愛い家だなとしか思っていなかった。とんでもない話だ。


『閉鎖空間に存在域を限定し、触媒となる生体エネルギーを供給した状態で霊的存在を観測する技能を行使することで、霊的存在は観測者に観測できる状態に固定されます。この場合の霊的存在の外見は観測者の認識に依存します』


 技能、技能か。別に使える技だと思って意識的に使ったことなど無かった。ただ見えるのだ。暗がりに、道端に、悍ましい姿で立ちすくみ、未練の詰まった視線を投げかけてくる存在を俺だけが見てしまうのだ。

 確かに見えるものを否定される痛み、正気を疑われる苦しみ、蔑まれることへの怒り、「技能」が俺に与えたのはそんなものばかりだ。そしてそれは近しい人、同じ景色を見ているはずの人との間に深く刻み込まれる。

 友だち、恋人、家族との間。

 思い出されるのは父母の白い目、沈黙、俺をきつく睨む兄の冷たい表情。


『「知恵の悪魔」とコミュニケーションし、支障なく不確定事象の書き出し――未来予知を遂行させるのが観測者の職務です。観測者に適合するのは一万人に一人とも言われています。誇りを持って就業していただくことを期待しています』


 全ては、白々しい電子音声がそう話を締めくくるのを聞きながら予感していた通りになった。俺はついぞ誇りなどは持てなかったのだ。

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