六 アカルと山猫の神


『苦しい……苦しい……わらわを苦しめるのはなんだ? 何故こんなに苦しいのだ』


 細い、女の声が聞こえて来る。


 とっぷりと日の暮れた弥山みせんの宮は、静寂に包まれていた。


 わずかな灯りがともされただけの暗い離れ宮には、寝具に包まれた千代姫と、そばに座るアカルの二人きりだ。しかし、開け放たれた戸の向こうには、夜玖やく青影あおかげが武神のようにがっちりと腕を組んで座っている。


 渡殿の先にある隣の建物の回廊や、庭を囲む垣根の向こうには、女官や警護の武人たちが困惑の表情を浮かべたまま取り囲んでいる。


 千代姫の眠る寝具の四隅には削り花が立てられていたが、アカルはまだ黙々と木の枝を削っている。


「おい、それは何本必要なんだ? 手伝ってやろうか?」


 見かねた夜玖やくが声をかけると、アカルは呆れたように振り返った。


「気持ちは有り難いが、あなたが作ってくれた削り花では役に立たない。私はこの削り花に、自分の力を注ぎこんでいる。あなたがた風に言えば、これは呪具だ。悪いな」


「そ、そうか……」

 夜玖やくは肩をすぼめて座り直した。


「巫女殿」

 次に話しかけてきたのは青影だった。

「この呪いは、いったい何なのだ?」


 千代姫が病に倒れてからというもの、薬師や巫女が代わる代わるやって来て様々な手を施したが、どれも成果は得られなかった。そして、青影の問いに答えてくれる者もいなかった。


「まだ……定かではないが、山猫の神のような気がする」


 アカルは自信無さげに青影に向き直った。


「千代姫がなぜ呪いを受けることになったのか、私には全くわからない。呪いをかけたのがどこの誰かもわからない。それは、あなたがたの方が詳しいでしょう?」


「そうだな」

 ふぅー、と青影は重い息を吐いた。


「千代姫の呪いには、たぶん智至ちたる国と金海きんかい国との同盟が関わっている。千代姫が倒れたのは、水生比古みおひこさまが姫を養女に迎えると決定して間もなくだったからな」


 青影は低い声で話しはじめた。


「巫女殿はご存知かわからぬが、いま筑紫ちくしの北部一帯を支配下に置いている海人あま族は、遥か昔から八洲やしまと大陸との間を船で行き来し、交易をしてきた一族だった。

 八洲やしまの国々が大陸と交易をしたければ、海人あま族と手を組むほかに方法はない。しかし、海を制した海人あま族のやり方には不満も多かった。


 様々な国が海人族と対立するようになったが、この北海ほっかい沿岸諸国もそうだった。その筆頭である智至ちたる王は海人あま族に頼らずに交易をすることを望み、それに答えたのが、大陸の一端で力をつけ始めた金海きんかい国だった。

 両国は絆を深めるために婚姻を結ぶことに決めたが、それを良しとしない海人あま族の王が、千代姫に呪いをかけたのではないかと我々は思っている」


「なるほど」

 アカルは無感動につぶやいた。

「千代姫には、とんだとばっちりだな」


 青白い顔で眠る千代姫に、アカルは同情した。


 自分と同じくらいの少女が、大人たちの覇権争いのせいで死にかけている。それがとても腹立だしかった。


 アカルは頭を振って雑念を振り払うと、完成した五本目の削り花をつまんでじっと見つめた。会心の出来に思わず笑みが浮かんでくる。


「今から神と対話する。静かにしていてくれ」


 そう言って夜玖やくと青影に視線を向けると、二人は口を真一文字に結んでゆっくりとうなずいた。


 アカルは四つの削り花で作った結界の中に入り、千代姫の枕元に座り直した。

 五つ目の削り花を両手に掲げるようにして持つと、深々と頭を下げた。



 何が始まるのだろうと固唾を呑んで見守っていた夜玖やくの耳に、歌うようなつぶやきが聞こえてくる。夜玖やくが青影に視線を向けると、青影は無言でうなずいた。


 千代姫の枕元にひれ伏していたアカルが頭を上げた。手にした削り花を千代姫の額に置くような仕草をした時、フッとアカルの姿が消えた。


 一瞬、何が起きたのかわからなかった。


 背後を固めた武官たちの口からどよめきが漏れた時、夜玖やくはようやく我に返った。


「鎮まれぃ!」


 振り返らぬまま、青影は号令と共にその太い腕を振り上げた。

 再び静寂に包まれた離れ宮で、夜玖やくは眠る千代姫に視線を戻した。


 四本の削り花で囲まれた空間から、アカルだけが消えていた。


(頼むぞ、朱瑠)


 夜玖やくは戦いに挑む部下を送り出すような気持ちで、心の中で声をかけた。


 〇     〇


 アカルは暗い場所にいた。


(ここは……黒い霧の根源か?)


 前後左右もわからず座り込んだままでいると、シクシクとすすり泣く女の声が聞こえてきた。


 声の方へ進んでいくと、黒い霧の中にぼんやりと白い女の姿が浮かんできた。体中に黒い霧が纏わりついているが、白い衣を着た白髪の女だとわかった。

 黒霧の中で所在投げに座っている女の前へ行くと、アカルは跪いた。


「神よ。我が力を込めた供物をお受け取り下さい。そして、貴女を縛る禍縄まがなわを断ち切る許可を……」


 投げ出された白い女の手に削り花を差し込むと、女はハッとしたように、手にした削り花に視線を向けた。


『これは……久しく見ない供物じゃ』


 手にした削り花からじわじわと黒い霧が後退し始めると、今まで見えなかった女の白い額に、呪文が書かれた細長い布が張りつけてあるのが見えた。


「神よ、山猫の王よ、貴女の額にある呪符を取り去ることをお許しください」


『そなたは何者じゃ!』

 今初めてアカルに気づいたように、山猫の王は目を細めてアカルを睨んだ。


「その供物を捧げたものです。アカルと申します」

 アカルは丁寧に頭を下げたが、山猫の王はアカルを睨んだまま用心深く身を引いた。


『わらわに近寄るでない、人の子! わらわをこんなに苦しめたのはおまえか?』


「は?」


 とんでもない言いがかりだった。

 あまりにも腹が立ったので、アカルは頭を上げて山猫の王を睨み返した。


「私が貴女を苦しめたって? 私の力を込めた削り花を受け取っといて、何を言っているんだ? その額の呪符とこの削り花が、同じ手によるものだと本気で言っているのか? そんなだから、人の子にとっつかまって呪いの手先に使われるんだ!」


 アカルは容赦なく、山猫の王に不満をぶちまけた。


「貴女、私の供物を受け取ったよね? 回復したよね? なのに、助けてやろうとやって来た人の子に対して、ずいぶん無礼じゃないか?」


 反論する隙も与えないアカルの口撃に、呆気に取られてぽかんとしていた山猫の王は顔を赤らめた。次の瞬間ポンッと白山猫に変化してしまう。


『そなたの言う通りじゃ。わらわは人から忘れ去られて久しく、すっかり力を失くしてしまったのじゃ。悪かった。この呪符を取ってくれ』


 大きな白山猫は、そっとアカルの方へ丸い頭を向ける。


「わかった」


 アカルはうなずいて、白山猫の額に手を伸ばした。

 呪符に触れた指先がビリッと痛んだ。アカルが思わす手を引っ込めて顔をしかめると、白山猫は申し訳なさそうにアカルを見つめた。


『大丈夫か?』


「ああ……うん、大丈夫」


『この呪符には防御の術がついているようじゃな。済まない。そなたが被った穢れの報いは、必ずわらわが返す』


「これくらい、大丈夫さ」


 アカルはニッと笑うと、もう一度呪符に手を伸ばした。今度は指先が痛んでも構わず、グイッと力を込めて呪符を剥がした。

 手の中の呪符がボゥッと燃え上がり塵と消えた瞬間、白山猫の姿も消えていた。


『助かったぞ人の子よ』


 木魂のような山猫の王の声が頭の中に響いた瞬間、ぐらりと目が回った。

 遠のいて行く意識を手放すまでのほんの一瞬、駆け踊る山猫の王の白い姿が何かに跳びかかるのが視えた。

 少女の悲鳴も聞こえたような気がした。

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