揺籃の国

四 西伯へ

　春先のまだ冷たい風を切って、智至（ちたる）国の漕ぎ船は疾走していた。

　左手に岸を見ながら走る船には、肩から腕の筋肉が異様なほど発達した十六人の水主（かこ）が櫓（ろ）を漕ぎ、船首に立っている男が水主（かこ）たちに指示を出している。

（あの人が船長か。なら、この使者は船を使っている立場なのかな？）

　アカルと夜玖（やく）は少しせり上がった船尾にいた。座れるように横木が渡されていたが、アカルは波よけ板にもたれて立っていた。

　岬を過ぎると、アカルは遠い岸辺に目をこらした。

　探しているのは、十年前に贄（にえ）にされかけた川の里だ。

　大きな川と潟湖がある岸辺は岩の里からもそう遠くはなく、海から見る景色ですぐにわかった。

（案外、何も感じないものだな）

　何度も何度も夢を見るのは、忘れられないほど恨んでいるか憎んでいるせいだと思っていたけれど、春の光に照らされた平和な川の里の風景を見ても、アカルの心には何の感慨も生まれてはこなかった。

（なんだ）

　ほんの少しがっかりした。

（そうか、私はあの里を憎んでいた訳じゃなくて、人に幻滅しただけなのか）

　納得したアカルが岸辺から視線をそらすと、不機嫌な夜玖（やく）と目が合った。

「なに？　言いたい事があるなら、今のうちに言いなよ」

　アカルが首を傾げてそう言うと、夜玖（やく）は忌々しそうに鼻に三本筋を刻んだ。

「お前はどう見てもあの里の人間じゃないだろう。何故、あの里で巫女の真似事などしている？」

「ああ……」

　この男はなんて頃合いでその質問をするのだろうと、アカルはもう一度、川の里の岸辺に目を向けた。

「十年ほど前に、長雨が続いて川が氾濫した年があったんだ。その時、川に投げ入れられて水神の贄にされた私を、岩の巫女が助けてくれたんだ」

　夜玖（やく）はギョッとしたように息を呑んだ。

「あの年……は、どこも水害が酷かったからな。そうか。お前はその時いくつだった？」

「五歳だ。私は森で狼に囲まれているところを、川の里の人間に助けられた。もともと無いはずの命だった。さすがに、贄にするために命を救われたと知った時は心が凍ったが、川の底で水の神に困った顔をされた時は、もっと辛かった。神は贄などいらなかったんだ」

「そうか……」

　返事に困っている夜玖（やく）の顔が面白くて、アカルは意地悪な気持ちになった。

「あなたたちの巫女は贄を必要とするようだが、神は迷惑そうな顔をしていたぞ。古（いにしえ）の民たちのように、削り花や酒を献上するだけでいいのではないか？」

「俺は武官だから、巫女や祭事のことはわからん。ただ……お前は災難だったと思う」

　夜玖（やく）はぶっきらぼうにそう答えた。鼻の三本筋は消えていたが、まだ不本意そうに口を真一文字に結んでいる。

「別に……おかげで人を疑うことを知ったのだからいいさ。私は、古（いにしえ）の民以外は信用しないことにしている」

　アカルがニヤリと笑うと、夜玖（やく）は困ったように視線をそらした。

「生まれは何処だ？」

　視線をそらしたまま、夜玖（やく）は話題を変えてくる。

　アカルは軽く肩をすくめた。

「それが覚えてないんだ。贄にされた時に忘れたのか、それとも狼に襲われた時に忘れたのか、とにかくそれまでの記憶は無いんだ。狼に襲われた話だって、川の里の人間がそう言っていただけで、私が覚えていたのかすら定かではない」

「なるほど、仔細はわかった」

　夜玖（やく）は改めてアカルに向き直ると、威嚇するように腰に手をあてた。

「だが、俺はまだ、お前を岩の巫女の代理だと認めた訳ではない。そもそも、我々が手を尽くしても取り除けなかった千代姫さまの病を、あのギョロ目の巫女が治せるなどと信じている訳ではない。だが、これは水生比古（みおひこ）さま直々の命だ。俺は何としても千代姫さまの病を治さねばならん。お前も、今さら治せぬなどと言えば命はないと思え！」

　気迫のこもった夜玖（やく）の言葉は、アカルの気持ちを奮い立たせた。

「わかったよ。あなたにとってその人が大事なように、私もあのギョロ目の婆様が大事だ。命の恩人だからじゃなくて、尊敬する師として大事だ。西伯（さいはく）の王女を助けることが、私に下されたばば様からの命なら、私は命も、持てる力の全てをかけても、必ず西伯（さいはく）の王女を助ける！」

　右の拳をどんと胸にあて、アカルは海風にも負けない声で誓った。

　夜玖（やく）が、わずかに目を見張るのがわかった。

「……お前の覚悟、確かに受け取った」

　そう言って、同じように拳を心臓の上にあてる。

　不思議な沈黙がふたりの間に流れた。

　アカルは知らなかったが、それは武人同士がする誓いの儀式だった。

　やがて、沈黙を破るように夜玖（やく）がガシガシと短い髪を掻きむしった。

　巫女としてのアカルを信頼できないという思いと、堂々とした覚悟を受け取ってしまったという事実との間で、板挟みになっている様だった。

　彼はもう、神経質そうな男には見えなかった。

（案外、単純な武人のようだな）

　アカルはほんの少し呆れた。

　やがて、夜玖（やく）は真正面からアカルの視線を捕らえた。

「済まなかったな。俺は……水生比古（みおひこ）さまに命じられて来たものの、古（いにしえ）の巫女というものが西伯（さいはく）や智至（ちたる）の巫女より力があるとは思えなかったんだ。無礼なことを言った」

　アカルはプッと吹き出した。

「いいよ。気にしない。確かにばば様は偉大な巫女には見えないからね。それより、私も聞きたい事があるんだ。西伯（さいはく）の王女の病気を、どうして智至（ちたる）王が治して欲しいんだ？」

　アカルは西伯（さいはく）の王女の詳細を知らされていない。

「ああ、それはだな」

　夜玖（やく）は難しい顔をして腕を組むと、船の横木に腰を下ろした。アカルもつられて夜玖（やく）の隣に腰を下ろす。

「千代姫さまは、元々は小国の王女だったのだ。今は西伯（さいはく）の弥山（みせん）の宮に住んでおられるが、この度、水生比古（みおひこ）さまの養女として、大陸の金海（きんかい）王国に輿入れされることが決まったのだ」

「へぇ、西伯（さいはく）のお姫さまが、智至（ちたる）の王さまの娘になるのか」

「ああそうだ」

「遠い異国に輿入れするなんて、大変なことだな」

　アカルは肩をすくめた。

（王女になんて生まれるものじゃないな）

　元々は小国の王女だったということは、千代姫は西伯（さいはく）に飲み込まれた国の王女だったのだろう。その王女が、西伯（さいはく）をしのぐ大国の智至（ちたる）王の養女となり、見たこともない異国へ嫁ぐ。

　波乱に満ちた人生というなら千代姫の方が相応しいのかも知れない。

（千代姫の病が本当に呪いだとしたら……その結婚話を壊したい奴の仕業かも知れないな。やはり、外の人間は恐ろしいな）

　岩の里の人たちのように幸せに暮らすだけで満足すればいいのに。外の人間は満ち足りるという事を知らず、餓鬼のようにさらなる富や権威を欲しがる。

　アカルは眉間のしわを深く刻んだが、用心深く言葉にはしなかった。

　その日は夕暮れと共に船を浜に上げ、大きな川沿いの集落で一泊した。

　翌朝、出港するとすぐに大きな山が見えた。まわりの山々よりも群を抜いて高くそびえる、裾野の広い美しい形の山だ。

「あれは大神岳（おおかみだけ）といって、古来より神の宿る山だと言われている。あの山裾に西伯（さいはく）の都、弥山（みせん）の宮がある。もうすぐ着くぞ」

　夜玖（やく）の言葉通り、太陽が高く昇る頃には大きな川の近くにある潟湖の港に着いた。

　港からの景色を見るなりアカルは息を呑んだ。

　こんなに大きな人里を見るのは生まれて初めてだった。

　大小様々な船が停泊している港には、荷を積み込んだり降ろしたり、たくさんの人々が働いて活気に満ちていた。

　潟湖の畔には高櫓（たかやぐら）や倉庫、船宿らしき建物がたくさん並んでいたが、その向こうに目をやると、大神岳（おおかみだけ）の裾野が広がるなだらかな斜面いっぱいに、田植えを始めたばかりの田んぼや畑が広がっていた。

　緑に彩られた広大な農地の先にある高台には、幾重もの塀に囲まれた立派な高殿の大屋根が見えた。

「すごいな」

　アカルが思わずつぶやくと、夜玖（やく）は胸を張った。

「そうだろう。この弥山（みせん）の宮も立派だが、智至（ちたる）の斐川（ひかわ）の宮はもっと立派だぞ」

　どこまでも自国の自慢をしたいらしい夜玖（やく）を、アカルは面倒くさそうに見上げた。

　高台の宮殿へつながる道沿いには、いくつかの集落があった。そこで働く男も女も、走り回る子供たちも、みんな明るい顔をしている。

（豊かな国だな）

　宮殿を囲む三重に張り巡らされた塀にはそれぞれ立派な門があり、槍を持った門番が二人ずつ立っていた。夜玖（やく）はどの門番にも顔を知られているようで、いちいち名乗らなくても開けてくれた。

「ヤゴはすごいな」

「夜玖（やく）だ！」

「ああ、ごめん。あなたを知らない人はいないみたいだね」

　アカルがそう言うと、夜玖（やく）は満更でもない様子で首を振った。

「いや、水生比古（みおひこ）さまの命で何度か行き来しているが、そんなに知られているとは思わなかったなぁ」

「ふうん……じゃあ、門番が優秀なのか！」

　アカルが門番を褒めると、夜玖（やく）はわかりやすくしょぼくれている。

「今日中に千代姫に会えるのかな？」

「ああ、会えるさ。西伯（さいはく）の青影（あおかげ）さまとて、お前の疲れを気づかうより、千代姫さまの体の方が心配だろうからな」

　当然だとばかりに夜玖（やく）は笑う。

「……だろうね」

　まんまと反撃されたアカルは、小さく肩をすくめた。