和解

早坂慧悟

第1

「その板前の娘というのが偶(たま)に店に立つんだが、どうも正直な所、雰囲気といいあまり店の空気といい塩梅じゃない。あんまり綺麗じゃない子だからな。」


親父はタバコの吸い殻を車内の灰皿に乱暴に擦りつけると、そう臆面無く言った。この車は禁煙だったがそんなこと意に介さずにいた。やがて静かに紫煙は車内に拡がり、煙草の紙が炭になる瞬間の焦げ臭いにおいが籠る。鼻をつく焦げる臭いに耐え切れず勇人は思わず少しだけドアガラスを下げた


「そうかしら・・そんな、見た目だけじゃその人がどんな人なのかよく分からないわ。案外気立ての良い方かもしれないし・・・ねぇ。」


車内で母が誰にとはなしに同意を求めた。親父のこんなくだらない話を早くやめさせたいらしい。しかし無神経な父はその話を続けた。


「いやいや。女は見た目だよ、見た目が第一。男は顔なんて大してどうでもいいが、女は醜く生まれちゃそこでおしまいよ。ジ・エンドさ。その後の人生を挽回するのは相当に大変な事だよ。」


そう熱心に話す親父は一歩も譲る気はないらしくそう言い切った。



東京の栄寿司への道中、車内で親父はなぜかそんな話をした。初めて家族に紹介する沙希が同じ車内にいるというのに。


「ところで、父さん。その板前の大将の口癖が面白かったんだっけ?」


困り果てた母の姿を見るに及び紗希のいる手前、話題を変え父の話をこの女性論をから遠ざけることにした。


「おお、そうそう。『お客さん、寿司の味本当に分かるの?』ってやつな」


親父はそう言って笑うとタバコ臭い息のまま得意になって話し始めた。


「この大将ってやつがまぁ意地の悪いやつでさ。一見客や見知らぬ人間には滅法厳しいんだ。カウンターでムスッとして挨拶はまずしない、相手が注文をしても聞こえない振りや忘れた振りをしてなかなか握ろうともしない。終いには相手をおちょくって怒らしちゃう始末でさ。」


 ある時年配の女性客がやって来て大将の握る寿司の旨さに大将を褒めたらしい、すると大将は平然と云い放ったそうだ。この値段なら何処で食っても旨いのは当たり前です、俺はもっと若い人にこのネタを食べてもらいたかったね、その方が魚たちも浮かばれるってものだ。


 かといって若い客が気に入ってるかと言えばそうでもない。あるとき若い女性客が2人でやって来くると大将は注文も取らずに卵巻きととびっこの軍艦巻、納豆巻等のお子様メニューを一通り握ったっきり仕事をせず腕組みしてしまったそうだ。そしてこう諭したそうだ。いいかい寿司屋なんて若い娘が自分のカネで食いに来るところじゃねえんだ。若いねえちゃんたちは連れて来てもらうとこなんだ。こんなところに自分のカネでご飯食べに来ちゃだめだ。お代はいいから帰んな。」


 なんていう絵に描いたような頑固オヤジだろうか、まるで昭和の産物。こんな唐変木がいまだいることが信じられず、呆れてしまった。車内には父がさっき揉み消した煙草の残り香がまだ残っていた。


 隣の沙希は平然とした表情でこの話を聞いていた。最後の若い女二人の客の話くだりのときは口元を抑えてくすくす笑っていた。


 「ごめんなさいね、沙希さん。この人いつもこんな嫌な話ばかりするのよ。」


 母が深刻な顔で沙希に言った。


 「いえ、わたしもともと実家が九州なのでそんなおじさんよく見てきましたから、よく分かります。とても面白い人なんですねその大将。」


 勇人は沙希の実家が九州にあることを知らなかった。それを聞くと父はまた無遠慮に言った。


 「ほう九州出身なんだ、能見さん。いい所だねあっちは。3歩下がって亭主の後ろを歩く女房てやつだね。」


 「あなた、いい加減にして!すみませんねえ沙希さん。」


 沙希はちいさくはいと言ったが、全然気にしている素振りは見せず相変らずにこにこしていた。今日は勇人の両親とこうして会食し、勇人との同居生活が確実なものとなり上機嫌でいたのだ。


 紗希は思わず勇人を見つめる。未曽有の就職氷河期だというのに勇人は既に極東商事に内定が決まっていた。他にも時計の精密部品の会社とか海外からドックフード用の家畜肉を輸入する企業など数社からも内定を受けたらしい。なんて優秀なんだろうと沙希は思った。自分の彼氏ながら誇らしかった。自分なんかは本格的に演劇を勉強するために就職はおろかアルバイト生活を続けているというのに。


 沙希の脳裏に先月相談を受けた千早のことが浮かんできた。もういやだ、別れたいと何度も涙を流しながら沙希に訴えていた。あの悲しみに満ちた顔は暫く忘れることが出来ないだろう。千早の彼氏はもう夏も終わるというのにまだ就職が決まっていなかった。最近では自暴自棄になり会う度に酒を飲んで暴れるという。殴られそうになったことも1度や2度ではないらしい、その日も彼女の頬辺りにある薄い痣のようなものが気になった。彼は過度のストレスから精神科の診療を受けていて処方された薬を酒と一緒に飲んでしまうので、千早にはもはや手の施しようがないそうだった。一度前、勇人にこの話をしたが彼は大した関心も示さず、みんな大変なんだからとか今はそういう時代なんだからと言って取り合わなかった。確かにいまは大変な時代なんだから、みんなが精一杯頑張るしかないのだ。最後に沙希は自分にそう言い聞かせそれ以上友達のことで悩むのは止めにした。




「ところでやっぱりあそこに住むの?」


勇人の父と母には当面近くの駅に近い安アパートで暮らすことを言ってあった。勇人の親は、特に母の方がどうも沙希たちが住もうと決めた場所が気に入らないらしい。


勇人は車を運転しながら優しく聞いた。


「母さんやっぱり気に入らない、あそこ?でもあそこが家賃も安くて今の僕らにはちょうどいいんだよね。」


母は暫く黙ってしたか。やがて口を開いて言った。


「あの場所はね、母さんの子供の頃はススキ野っ原と呼ばれていて周囲の住民は誰も寄り付かなかった場所なのよ。昔の合戦で焼き討ちにあって全滅した集落の跡地とも言われていてね。いままで鎮守にいくつも寺が開かれたんだけどみんなすぐに廃絶してしまって、当時の墓石が埋もれたままだっていう噂もあるいわくつきの場所なのよ。」


 勇人はまたかといった感じであくびをすると答えた。


「普段昼は仕事や学校でいないんだから大丈夫だよ。すぐにお金を貯めて引っ越す予定だしさ、安心してよ。」


それでも母は合点いかないまま、そうだねと言ったきり黙ってしまった。すると今度は父の方がカラ元気な声で会話を取り持った。


「まあいいさ、勇人たちがそう決めたのなら親が今さら口出すものでもない。引っ越し代などの初期費用やしばらくの間の家賃くらい出せるから安心しなさい。それで働き出してからお金を貯めてもっといいところに越せばいい。そのかわり社会に出てからは自分たちで払うんだぞ。」

父は最後にそういった。


第2

1

4月に入社して以来、数少ない新人のうちの一人である湯本は社内で時間的に又精神的に余裕の無い多忙な日々を過ごしていた。新卒採用は湯本を入れてわずか4人だけである。たしか会社の説明会には数千人を下らない応募者があった筈だから、ここで働いてることは奇跡に近いことだった。しかしこの就職氷河期の時代、新人に対して手厚い教育プロクラムやOJT制度で援助をしてくれる会社などない。即戦力という待遇でこの会社になんとか就職した湯本勇人は仕事を業務の中でこなして覚えていかねばならなかった。


 何とか仕事のルーティンは覚えたが、商社の特性上、常に新しい業界やサービスについて学ばねばならない。来週から新たなシークェンスで取引先との商談をしなければならなかった。英語が堪能な勇人は欧州鉄鋼関連のセグメントから先週、米国情報知財を管轄するセグメントへ異動となった。ようやく仕事に慣れた矢先のことだ。しかもそのセグメントではプロジェクトリーダーの先輩が体調を崩しすでに退社していた。勇人にとって、他の部門のように先輩や古参社員に叱咤され業務を教わりながら仕事を進める方がどれだけ楽だったか。


 昨日も会社を出たのは零時過ぎだった。タクシーでは帰宅代がかかってしまう。まだ新人の勇人にはタクシー券を月に何枚も申請出来るほどの実績もなかった。すべて定時に仕事を終わらすことのできない自分が悪いのだ。

ここのところ土日も会食や接待ゴルフに追われ、久しく休日と縁遠い生活を送っていた。最後にプライベートで遊びに行ったのは何時だったろうか。


その日も疲れ切ったまま勇人は帰宅した。住んでいるアパートは駅から近い割に周囲は閑散として静まり返っている。アパートの周囲に生い茂る雑草はいつの間にか腰の高さに届くまで育っていた。部屋に帰るといつものように沙希が晩飯を用意して待っていた。何か鼻を突くにおいがする。見ると玄関先の棚に変わった草花が活けてあった。


紫色のヒマワリのような形をした見たこともない大きな花が太くしっかりした茎の先から垂れさがるように三輪、花瓶から顔を出している。


「これなんだい?」


勇人が指さして聞くと、食事を運びながら沙希が言った。


「ああこれね、『無謬草』という野花らしいの。この辺でよく咲いてるんだって。」


ふうんと勇人は興味なさそうに言った。


「隣のおばあさんがくれたの。」


「隣におばあさんなんか住んでたっけ?」


花瓶壺に活けられたその花は近づくと更にあまったるい強いにおいがした。譬えるならハッカと熟したバナナを足して割ったような不思議なにおいだ。


「虫よけにもなるらしいの。ドライフラワーにしとくとずっと虫が湧かないんだって。」


「へぇー、ハッカ科の植物なのかな。でも見た目がなんかグロテスクだね。」


「おばあさんが言うには東北の方ではお通夜までの期間、仏様の枕元に置いとくんですって。悪い鬼や腐敗から仏様の身体を守ってくれるという言い伝えがあるらしいの。そうねハッカのような効果があるのかもね。」


「お通夜に使う花か、なんか縁起悪いね。」


すでに作り終わっていてすっかり冷めてしまったおかずを温め直しながら沙希は言った。


「今日は割と早かったね、この調子なら日曜日だいじょぅぶね」


「日曜って?」


「言ったじゃない」


「ああ、あれね」


そうだずっと前から沙希はこの日だけは絶対明けておいてと念押しをされていた日だった。壁に掛かったカレンダーにもしっかりと二重丸で印がつけてある、沙希がサインペンでつけたものだ。蒲鉾の揚げ物をつまみながら、ああまかしといてよと言うと沙希は安心しきった顔でこっちを見てずっと微笑んでいた。



2

しかし二日後、ようやく休めると思っていた日曜日に突然また社用の約束事が入ってしまった。会社の創設以来、福祉文化事業の一環として出資をしている『極東管弦楽財団』の定期コンサートにオブザーバーとして出席依頼が舞い込んできたのだ。渋る勇人に直属の主任は申し訳なさそうな顔をしながら言った。


「湯本、本当に申し訳ない。自分の家族ごとでなんだが、事情が出来てしまって行けないんだよ、課長代理もその日は別の要件が入っていて行けないというんだ。君しかいないんだ。なに、昼前にホールに行って数時間演奏を聴いていればいいだけだよ。たまには音楽でも聴いて疲れでも癒してみたらどうだ、案外その管弦楽も気に入るかもしれないしー」


適当なことを言い、彼はこの用事を勇人に押し付けた。それは、こつちにも私事があるからと言って断ろうとすれば断れたはずの話であった。そもそも紗希との約束は数カ月前から決まっていたものであり、信義的にも優先されるべきものであった。しかし会社での立場上、勇人は受け入れてしまったのだった。




「その日は大丈夫って言ってたじゃない!もう何カ月も前から約束してたことよ。」


家に帰り今度の日曜に仕事の用事が入ったことを告げるや否や、沙希はいつになく強くそう勇人に言った。


「わかってるよ、でも仕方ないだろ仕事上のことなんだから。上司の命令に背くわけにはいかないだろ?」


納得がいかない沙希はしばらくそのまま立ち続けていた。


「九州からお母さんが来るのよ。勇人に会うのを楽しみにしてたのに。」


勇人は冷蔵庫に向かうとビールを一つ取り出しグラスに注ぎすらせずそのまま缶のまま飲みだした。


「日程だって前もって勇人の仕事のない日を聞いて選んでなんとか調整して決めたんじゃないの、今更駄目になったなんてひどいわ。わたしお母さんにどう説明すればいいのよ。」


勇人は正直沙希にはすまないと思ってはいたが、そんな大騒ぎするようなことではないと考えていた。確かに遠方の九州からこっちの方にわざわざやってくるのは大変なことだろうとは思う。だけどこっちは仕事上仕方ないのだ、その辺をもう少し紗希にはわかって貰いたかった。そしてもう一つ、沙希がわざわざ実家から母を呼んでまで勇人に会わせようとするのは何か魂胆があってのことだろうと勇人は感じ取っていた。同居を始めて以来年月が経つというのに勇人から一向に結婚の話が出てこないことに、沙希は内心何かもっているのではないか。毎日手弁当を持たせようとするのも、いつも帰宅は深夜だというのに毎日ちゃんと夕食の準備をして待っていてくれるのも、暗黙に将来の妻としての地位を勇人に知らしめるためなのではないかとさえ訝しんだ。そしてそれは年を追うごとに冷たい猜疑になっていった。


ある朝、いつものように朝弁当を作っている沙希に聞いてみたことがあった。そんなもの毎朝作るのは大変だろうからもういいよ、仕事で時間がないときは食えない時もあるしさ、と。すると沙希瞳に一点の曇りもなくこう答えた。いいのよいつも昨晩のおかずをつめているだけだから、具材には困らないの。


何とはなしにそう実直に答えた紗希の言葉だったが、猜疑心の塊となっていた勇人にはそれは毎晩作って準備している夕食を食べない自分への非難と捉えた。暗に自分を責めてるんじゃないかと思い、それ以来沙希の料理はのどを通らなくなった。





3

「あの、湯本さんですか?」


ようやく管弦楽コンサートが終わり、眠たげな眼のまま席を立とうとした勇人に前方から呼び止める声があった。目を上げると青いコンサート用のドレスを着た瀟洒な女性がそこに立っていた。


「水野さんから今日の代打を湯本さんにお願いしたと聞いておりましたので。わたし当楽団のメンバー兼責任者の水原と申します、今日はご来場ありがとうございました。今日の演奏どうでしたか?」


水野とは、勇人にこの日の代役を無理やり頼んだあのいい加減な暫定プロジェクトリーダーの名だった。そしてこの水原という女子社員。わざわざ毎回会社の管理職がオブザーバーとして演奏を見に来るのはこの水原という女子社員がいるからだときいたことがあった。どうも社内のお偉方の子女らしい。名前だけ社に置いていて出勤していない謂わば幽霊社員なので普段社内で見ることは滅多にない。勇人もこのとき初めて彼女の名前と顔を知った。


感想を聞かれ普段管弦楽など聞いたことのない勇人は返答に困った。いつも車の中でヒップホップを聞くくらいしか音楽には縁のない生活を送っている。


「なかなか壮大でよかったです。感動しました。」


勇人は適当な出まかせで何とかその場を取り繕うとした。


「ところで、水原さんは何の楽器の担当なんですか?」


大して興味もないくせに社交辞令から興味のありそうなふりをする。この女子社員に勇人は興味深そうに聞いた。


「オーボエです。」


女性は静かに答えた。


「おお素晴らしい。よく響いてましたよ水原さんのオーボエ。」


それから、この水原社員の実質主導する弦楽楽団の定期コンサートがあるとオブザーバーとして勇人に出席が依頼された。いい加減仕事に差し支える面倒なことだったので上司に懇願してこの役から外してもらうことを直訴したこともあった。するとそれ以降依頼ではなく命令という形で勇人に出席の任が届くようになり、とうとう勇人も観念した。


コンサートが終わると毎回、水原女子社員は勇人に挨拶に来た。共通の話題も管弦楽の知識もない勇人は適当に水原や楽団の演奏を誉めてその場をやり過ごした。体面を取り持つため勇人はある程度管弦楽について精通しているふりをして水原の話をさも分かったかのような振りをして頷いて聞いていたが、それがバレないようにもっぱら聞き役に徹していた。



4

「音楽事業の新規立ち上げを、大阪でですか?」


それからすぐのある日。突然部長に呼ばれ、勇人はこのことを告げられた。


「大阪プロジェクトの一環として公共事業体との共同出資という形をとる予定だ。行く行くはわが極東企業グループで全社的な取り組む事業となるはずだよ。まず新時代の産声は大阪からだ。知ってるだろ、水原現相談役の故郷は大阪でお母様が由緒ある宮家の管弦家だってこと。」


「しかし音楽なんていまさら何を核(コア)に行うつもりですか?・・。ソニーですら失敗して、CDもレコードも昔みたいにまったく売れない。配信も利益が出ない・・・こんな時世にですよ。将来を望めるような事業ではないと思われますが。」


「そう言うなよ。まずは手始めに非営利コンサートの手配とかだ。わが社の管弦楽団あるだろ、あれだよ。」


「ありえないです、あんなママゴト楽団のために事業部を拵えるのですか。採算は?」


部長は勇人の杞憂に対して、これは取締役会直轄で運営される非営利事業なので採算面での心配はいらないと申しつたえた。


「それで、水原取締役のお嬢様がキミをえらく気に入ってるみたいでな。今度一緒に大阪に行ってプロジェクトを立ち上げてほしいということなんだ。湯本君、きみ結婚はまだしてなかったよな?」


勇人は突然のこの質問にムッとした。


「それはどういう意味ですか?」


部長は目の前の端末画面の電源を切ると笑いながら言った。


「言っておくが、これはまたとないチャンスなんだぜ。どんなに優秀だろうと社員は社員、経営者のコマに過ぎない。この世は経営者側に入らなきゃいつまでも使われる側の立場なんだぜ。上を目指すならこのまたとないチャンスを生かすべきなんだよ、結婚も含めてね。まぁ君にはすでに相手がいるようなら仕方ないけど。とにかく今後のことを先方もいろいろ話したいらしい。いいね君は、運がいいよ。うらやましい限りだ。もし若かったらわたしが替わりにいきたいくらいだよ。」


そう言って部長は綺麗な装丁紙に覆われた一通の招待状を勇人に渡した。裏には「帝国ホテル」と記されていた。




水原からのその招待を何度か辞退しようとしたが、結局勇人はその夜に帝国ホテルに着いていた。さすがに高級ホテルだけあって重層な造りにきらびやかな装飾が目立つ立派な外観である。いざここまで歩きで向かうとなると正体を怪しまれホテルの中に入れてくれないのではと勇人は心配し、わざわざ少し離れた場所からワンメーターだけタクシーに乗ってホテルに到着するという気の入れようだった。


招待状には家族との記念日に是非来ていただいて色々なお話を伺いたいという趣旨の言葉が連なっていた。いろいろなお話とは何だろうか?会社や組織のことだろうか、そんな訳が無い。まだペーペーの自分にそんなことを聞いても何の足しにもならないだろう。


そんなことを考えながら広い応接間を通り抜け慣れない装飾品の数々に囲まれ進んでいくと、水原の待つ「松露の間」にたどり着いた。


松露の間にはまだ誰も到着していなかった。部屋にはいる前に入口でクロークに外套や荷物を渡す。


部屋はかなり広く和風のインテリアを設えた室内に、ちょこんと洋風の大きなテーブルと何席かの椅子が置いてあるだけであった。調度品としてはそれくらいであとは高そうな箪笥や大きな鏡や壺などが調度品として置かれているくらいである。正面の壁に日本画で虎が描かれていて、それが部屋全体に緊張感を与えていた。


その時、ドアが開いて水原が現れた。


「あら湯本さん、早かったんですね」


約束の時間は唐に過ぎている。


「こんばんは」


しかしその勇人の返事には見向きもせずに水原はドアの向こうに何か言った。


「ほらお母さん、こっちよ」


すると水原の背後から腰の曲がった女性が杖をつきながら現れた。どうも水原の母らしい。見た目はそれほど老けて見えない。腰か足でも悪いのか杖をついてゆっくりと歩いている。二人とも服や身に付けているものは高級そうなものばかりだ。


「母です。今日はよろしくお願いします」


簡単に紹介すると水原は母親をテーブルの席へ座らせた。そして勇人にも席に着くよう促した。水原の母親は勇人に何度もお辞儀をした。恐縮して勇人も返す。


「父は今日、来れなくなっちゃったんです。」


水原から湯川に送られた招待状には明確なものは何も書かれていなかったが、ただ水原の誕生日には家族三人でここ帝国ホテルで簡単なディナーを部屋貸し切りでするのが常だったらしい。いつもは会社の人間など呼ぶことは無かったが、代役とはいえわざわざ自分の休みの日の予定までも潰して楽団を見に来てくれた湯川の義理への、これささやかな償いなのだろうと彼はすぐに感じた。


「この大きな間に毎年親子三人だけじゃちょっともったいないと思って、今年は誰かを呼ぶことにしたの。もうしばらくしたら大阪に行くことになってるから、ここ来るのも最後かもしれないし・・・」


そう言って水原は例の大阪プロジェクトも含めて、今の自分の身の上話をし始めた。




「おう、やっとるようだな」


水原の話もひと段落して会食が始まった丁度そのころ、見ると初老の男性が間に入ってきた。一目で仕立てが良いと思われるスーツ、高そうな鞄を手に持っている。どこかの会社の重役かなにかに見えるオーラを出している。


「あら父さん、来たの?来れないとか言ってたくせに」


これが水原の父である水原元相談役らしかった。今の会社の源を一人で作り上げたわが社の創業者のような人物だが、見た感じそんなに老けていない。みしろ若々しく見えるくらいだ。


「君が社員の湯本さんか、よろしく頼むよ」


湯本はその言葉を待たずに直立不動で立ち上がると元相談役にお辞儀をした。


そんな湯本を手であしらうと、水原元相談役は深々とイスに腰掛けた。


「いやあ、実につまらん会合でね。途中で抜けてきた」


そう言ってワインの瓶を手にすると湯本に注いだ。そして自分も注いで飲み始めた。


「お父さんがお気に入りの銀座のあの店だったんでしょ?何が不満だったのよ」


水原が更にワインを注ぎながら父に聞くと、元相談役は首を横に振りながら答える。


「集まった人間がだめだよ、爺さんばかりでさ。引退した経営者の集いだから仕方ないのかもしれんが、皆話すのは昔の事ばかりで決まって今の若いものを批判する。やれやれだよ」


元相談役はそう言うとやってきたホテルのボーイに「いつものやつ」と何かを注文をした。


「おい一人追加だが大丈夫だよな?追加料金は払うからさ」と元相談役が最後に言うとボーイは恐縮したまま「とんでもございせん水原さま」と頭を下げて去っていった。




ワインを一気に煽ると元相談役はテーブルの上のパンをちぎりオリーブ油に浸してもぐもぐと食べた。


「あのクラブもよい店だったんだが、いつもいたバーテンが居なくなってね。かわりにその息子がいたんだが、どうもあいつじゃ店の雰囲気としっくりこない。いい塩梅じゃないんだよ、余り凛々しい男じゃなかったからな」


横でそれを聞いた水原はあきれたように言う。


「そんな見た目だけじゃどんな人かわからないじゃないの。案外いいバーテンさんかもしれないし、ねえ」


水原は父の言葉でその場の雰囲気が悪くなるのを避けようとしていた。


「いやいや、男は第一印象が重要だ。それが駄目な奴は仕事も人生もろくなのになりゃしない。だいたい人が寄り付かんだろうから友達も恋人も出きなんだろうし、あわれだね」


お構いなしに水原の父は持論をぶち続ける。困った顔をして横で水原は黙りこんでしまった。その時だった、水原の母親が話しに入ってきたのは。


「あなた銀座の『リシュール』かしら。懐かしいわ。あのバーテンダーの坂井さん、お酒作るだけじゃなくてお話も面白い方だったものね」


元相談役は妻のその言葉に大いに反応した。


「そうそう、奴のキメ台詞覚えてるか?『お客様。うちのお酒のおいしさがわかりますか?』ってやつ。この坂井ってバーテンがまあ唐変木な奴でさ。俺のような社長や会長が店に来てもまったく物怖じせずへっちゃらなんだよ。日本一のバーテンとの噂を聞きつけて昔大臣が飲みに来たらしいんだが、大臣に『なんでもいいから適当にうまい酒を』と言われて瓶ビールだけを大臣の目の前に置いたらしい。あまりのことに目を丸くする大臣に言ったそうだ。『お客様。わざわざ目の前までビールを運んだのは、当店のサービスでございます』」


少し酔ってるのか上機嫌で元相談役はそんな話をした。勇人にはこの話のオチがさっぱり分からなかった。銀座の高級バーでこんな事をされれば普通怒って帰ってしまうことだろう。しかも相手は大臣ではないか。


「ごめんなさいね、湯川さん。父は酔っ払うとこんな話ばかりするのよ」


水原が申し訳なさそうに言う。


「いいえ、もともと僕も実家は下町の方だったので、そんな風にはっきりと物事を言う威勢のいい大人ばかりでしたから」


「おっ湯川君、江戸っ子かい。いいねー!江戸っ子は金離れよし・お人よし・吉原よしの三よしとは昔からよく言ったものさ、『江戸っ子のーわらんじはーくらんがーしーさー』」


ワインがきいてきたのかそう言って元相談役は歌いだした。


それを必死に止めようとする水原だったが、湯川にはこの家族が醸し出す雰囲気は嫌いなものではなかった。







5

「出ていくってどういうこと?」


勇人の突然の言葉に紗希は気色ばむよりもむしろ言葉がなかった。スーツ姿のままネクタイも外さず無言でいる勇人は紗希の注いでくれたビールも飲まずただ項垂れて座っていた。


紗希は無言でいる勇人をそのままにさっさと夕食の後片付けをし始めた。


しかし心の中の不安からか、皿を洗う動作がいつもより緩慢でぎこちないように思われた。


「とにかく大阪で新規事業があって、そっちに携わらなければならないんだ。」


沙希は洗い場で洗い物をしながら後ろ姿のまま聞いた。


「それって転勤なの?だったら私もついて行くよ。」


勇人はその答えに曖昧な表現で答えた。


「いや、まだ先行きわからない事業だからさ、取り合えず向こうについてからこっちに連絡する。大阪に沙希を一緒に連れて行くわけにはいかないんだ。」


「じゃあここはどうすんのよ。」


洗い物をがしゃんと流しに置くと、感極まった表情で沙希は勇人の傍にやってきて言った。


「勇人、最近おかしいよ。今回のことだってわからないよ。私が嫌になった?別れたいの?」


いつもの穏やかな沙希には見えない気色ばむ姿がそこにはあった。


この場で勇人はじっとしたまま何も答えなかった。沙希だけが下唇を噛みしめながら問い糺すように勇人に言葉を向けた。




この日深夜まで勇人は沙希と話し合った。長くても一年後には大阪から戻ってくること。電話で毎日一日の終わりに報告を沙希にすること。月に一回は東京本社に業務報告のため帰るからその時はここに必ず顔を出すこと。


そして勇人は取り合えず向こう一年分のここの家賃は大家に入れておいた旨を伝えた。あとは少しではあるが預金口座とカードを沙希に渡した。ここから生活費を捻出してあとはアルバイトなどで戻るまで何とかやりくりしてほしい、と。


そして最後に一番大事な話をした、もし万が一、自分がやんごとない事情でここに戻ってこれなくなった時はとりあえず沙希は生活のために一時九州の実家に戻っていてほしい、と。


最後まで暗い顔をしながらも沙希は勇人の言い分を聞き全部受け入れた。


「わかったよ。じゃあ勇人の出発の支度を手伝うね。出発はいつなの」


その夜、勇人が寝静まると誰にも聞こえないような声で沙希は小さくつぶやいた。


「勇人、私はずっとあなたを待っているからね。」



第3

                1

毎月勇人から届いていた葉書が届かなくなったのは八月頃のことだった。赴任以来、新しい住所も教えてくれず、それどころか携帯すら通じなくなった状況に沙希は危機感を募らせ何度も連絡を取ろうとしたが、やがてすべて通じなくなった。そのうち沙希のもとに一枚の葉書が送られてきた。勇人の勤める会社の写真が載った葉書で、写真の横に勇人の簡単な文章でそれが新しい大阪の社屋であることだけが書かれていた。差出元はその会社だったので、沙希はいそいで封書で思いのたけを伝えることにした。もうすべてを知りたいとは思わないから、せめて携帯くらいは繋がるようにしてほしいと。それも無理ならメールか手紙で連絡が取れるようにしてほしいと。伝えたいことや訴えたいことは山ほどあったが取り合えずその旨だけをなるべく簡潔にまとめると最後に自分の近況を記して勇人の勤務先宛てに封書を送った。しかし返事は返ってこなかった。


 その代わりに毎月、会社の葉書に事業の近況を簡単に載せた知らせだけが沙希のもとに届いた。それは大阪慈善コンサートだの新時代メディア戦略だのと銘打ったのお知らせが載った企業のPRハガキと言っていいほど無味なもので、勇人からの個人的な通知も二人の間に共有すべき通信もそこにはなかった。


 無味乾燥な一枚の葉書が届くたびに沙希はその不安な思いの丈を、極力文字数を削ってもそこそこの文面になる便箋で何度も送った。勇人からの通知が簡略で短いものになればなるほど、沙希の送る便箋の内容はあつくなる一方だった。仕舞には先日勇人の実家に連絡を取った日の出来事について記そうかとしたが、まだ彼を信じ切っていた沙希はそのことで勇人に誤解を与えるのが嫌でやめにすることにした、きっと何かの間違いに違いないのだから。


勇人はもしもの時は九州の実家に帰って自分をまっていてほしいと言っていたが、それは沙希の耳には当初から入らないものだった。東京の学校に行きたい彼女の願いを聞いてくれたのは実家の祖母だけだった。昔気質の父は女一人で東京に行くこと自体反対だったらしい。父とはそれ以来帰省しても口を利くことはなかった。兄とはもともと折り合いが悪かったが沙希が東京に行くと決まってからは更に仲は険悪になった。家族の中で祖母だけが沙希のことをわかってくれ、その意思を尊重し東京の学校への学費などを全部工面してくれたのだ。しかし、その祖母ももはやもういない。沙希が学校を卒業するかしないかの時に、急病で倒れそのまま還らぬ人となってしまったのだ。祖母の葬儀の時以来、沙希は九州の実家に帰ってはいなかった。祖母の葬儀の時ですら、そのまま泊まらずに東京に帰ってきた。一度だけ無理を言っておとなしい母に東京まで来てもらえたことがあったが、母は紹介したいと言っていた人物に会うことが出来ず落胆して帰っていった。あれが家と折り合う最後のチャンスだったかもしれない、それ以来母がこっちに来る機会は二度となかったのだ。もう沙希にとって故郷はの実家と呼べるものは勇人と暮らすこの東京のアパートしかなかったのである。






2

 家中に赤ん坊の泣き喚く声が響き渡る。妻はまだ帰らない。赤ん坊を放り出して毎夜外の世界を飛び回っているなんて母親として、いや人としてどうかしている。しかし気が付いたときはもう遅かった。


一応妻が不在の時は実家の妻の母やベビーシッターが来ることになっているがそれは日中の話だ。夜までだれか部外者に赤ん坊の面倒を見させる夫婦がこの世の一体どこにいるというのか。


勇人は仕事帰りに買ってきた蓬莱の弁当と缶ビールを居間に放り投げると、泣き喚く赤ん坊の側に駆け寄った。オムツが湿っていて黄ばんでいた。ベッドの上のシーツも何か戻したのか嘔吐の跡があった。こんな状態で赤ん坊をほっぽらかしていったいどこに行ったのか。勇人の胸中にやるせない怒りの気持ちが生まれた。


オムツを変え、汚れた体も綺麗にしてシーツも換えると赤ん坊は勇人の腕の中ですやすやと眠り始めた。


無音声でテレビをつけ、夕食の弁当を食べていると妻が家に帰ってきた。


ドタドタと靴や着物を脱ぎ捨てるような騒々しい音がすると赤ら顔の妻が居間にやってきた。


「なんだ帰ってたの?あれミカさんは?」


ミカさんとはお手伝いを頼んでいる女子大学生だ。もう夜の八時だから家にいる訳がない。お手伝いの時間は夕方の六時までときまっていた。ミカさんがいようといまいが妻は泣き叫ぶ赤ん坊の窮状を知っていたはずだ、なぜそんな嘘をつくのだろうか。


「サトル泣いてたぜ。オムツのシーツも汚れっぱなしでなにやってたんだよ。」


妻は赤ん坊に見向きもせず、ふーん とだけ言うと冷蔵庫からチューハイの缶を出して飲み始めた。


「ごはんはちゃんとあげたのかい?ちょっと吐いたみたいだったよ。」


台所をふらふら歩きながら妻は、ミカさんがあげたでしょ。とだけ呟いた。


妻は服を着替えに自分の部屋に向かう。その途中でお風呂つけてくれた?と勇人に聞いた。


勇人が、いや俺も帰ったばかりだからまだつけてないよ、と言うと。ちっと舌打ちをした。


結婚当初からこんなだった。妻は家事を全くしない。料理など作ったためしがなく勇人はいつも帰りに弁当を買うか外で済ませてきた。仕事が終わると急いで家に帰って妻の代わりに部屋の掃除や風呂の用意もした。赤ん坊の世話は妻の実家の母やミカさんが日中してくれるのでなんとかなったが、問題は彼女らが帰ってからの夜だった。妻は赤ん坊が泣こうが叫ぼうが一切関与せず眠り続けていた。



思えば大阪に来てしまったのがすべての誤りの始まりだったのだ。生来わがままで自己中心的な妻は、自分の力の入れている会社の慈善管弦楽団のことしか頭になかった。新事業を打ち出して大阪に住まわせたのも、そんな娘の将来を案じた前相談役の親心からだった。遅い歳にできた子供だったので水原相談役は甘やかして自由に娘を育てた。妻の実の母親は早世したため妻の母親も後妻さんで妻との血のつながりのない方だった。


妻のその熱意ー音楽や慈善事業に関して言えば妻は確かに秀でたものがあった、しかし人として何か大事なものがかけていた。それに勇人が気付いたのは結婚後すぐのことだった。他人に対する思い遣りや愛情、こういった基本的な何かを妻は欠損しているのだ。綺麗な高級マンションの華美な装飾と反比例して勇人の大阪での生活は荒み切っていた。


親の思惑で、なんとか結婚をした妻はそれ以上の理由も愛情も夫や子供に持ちえなかったのかもしれなかった。


着替え終わって妻が居間に戻ってきた。赤ん坊には相変わらず見向きもしない。


ビールを飲み終えると勇人は妻に言った。


「ちゃんとみないとだめじゃないか、自分の赤ん坊だろ。」


その言葉に妻は勇人を無視するかのように言い放った。


「だってこの子全然かわいくないんだもん、誰かさんに似て。」


そのまま風呂に入ると、妻は居間に戻ることなく自分の寝室に入ってしまった。


勇人は残された居間で、いつまた泣き出すかわからない赤ん坊が心配でそのままソファーに横になって寝るしかなかった。




照明がついたままのだだっ広い居間の白い本革のソファーに横になりながら、勇人は天井を見つめた。そこには妻が選んだ手の込んだガラス細工装飾の照明が曙光で部屋を照らし続けていた。勇人はううんと少し唸り声をあげると今度は横向きになり、テーブルの上をじっと見つめた。そこには自分の置いたビールの空き缶とコンビニのおにぎりが散乱していた。酒の酔いと怒りで興奮状態で眠れそうになかった。なんだか無性にサヤインゲンの味噌汁が飲みたくなった。東京にいた頃よく飲んだ味噌汁。アパートの庭にこっそり植えた菜園から採れたもので沙希が毎朝丁寧に筋を取って作ってくれたあの柔らかいサヤインゲンの味噌汁がたまらなく懐かしかった。


沙希となら、こんな風なことはまずない。彼女は優しい性質の女だったから。疲れと酔いからか、久しぶりに勇人の脳内に沙希という単語が浮かんだ。もう2年以上連絡を取っていない。あの約束を勇人が守っていたのははじめのうちのほんの半年にも満たない時期だった。こっちに来てからの新しい生活が忙しいのもあったが、何しろ厄介な妻との赤字同然の新事業のことに忙殺されてそれどころじゃなかったのだ。例の口座への入金は久しく途絶えたままだ。まじめな沙希のことだ、金がなくなれば東京での生活を諦めて実家に帰ったはずだと勇人は確信していた。






3

「湯本さん、湯本さん。」


どんどんと朝からドアを叩く音に流し台で朝食あとの洗い物をしていた沙希はいそいで玄関に出た。ドアを開けると大家の田口が玄関先に立っていた。


沙希が挨拶をすると田口は太った巨体を揺らすようにハンカチで顔の汗を拭きながら言った。


「どうですか決心つきましたか?」


真夏の暑い日差しが田口の背後から部屋に入ってくる。暑い日差しが応えるのか初老の大家は息も絶え絶えにそう沙希に聞いてきた。


「はい、あの・・まだ主人と連絡が取れないもので、・・もう少し待ってもらえませんか?」


沙希は気まずそうに下を向きながら頭を下げた。


ふとっちょの田口は体をゆすりながらズボンのポケットから封筒に入った紙を取り出した。


「えーと・・そうはいいましても、もう残っているのはお宅だけなんですよ。2階の溝口さんも来月には出て行ってしまうし、こんな老朽アパートにこれ以上住ませて置けないんです、どうかわかってくださいよ。」


悲壮な顔で田口は沙希に向かって言った。手にはすでにもう沙希には送られている「転居のお願い」についての書面が握られている。


「転居費用だってうちの方で全部見ますし、こんなところよりはるかに条件がいい建物をご紹介するというのに、何が不満なんです?あまり大家をいじめないで下さいよ。」


そう言って大家の田口は懇願するような眼差しを沙希に向ける。沙希は本当に済まないという表情をしてただ黙っていた。


「でも、主人が帰ってきたときに私がいなかったたらあの人困ると思うんです。家に帰って誰もいなかったら、あの人途方に暮れてしまうかもしれません。」


田口は頷くでもなく口をうむうむ言わせると告げた、


「なら転居先を相手にわかるようにしときますから、旦那さんから連絡が来たら。ね?」


なんとか立退の同意を取り付けようとする田口の顔は、あまりの暑さに熱で上気し赤らみはじめていた。


しばらく黙っていた沙希であったがまた口を開いた。


「でもやっぱり主人と約束したんです。彼が帰ってくるまではここで待ってること。大家さん、本当にもうすぐだと思うんですあの人が帰ってくるのは。だからもうすこしだけ。もう今日か明日には帰ってくるんじゃないかしら・・・」


「そうですか、でももういい加減にしてもらえませんかね。少しはこっちの事情も考えてくださいよ。」


田口はあきれた顔をすると、最後にそう言い残して去っていった。






4

「この大阪プロジェクト部を閉鎖しろだと?」


直属の森山部長代理は眉間にしわを寄せて、勇人に問い質した。


「はい。今ならまだ閉鎖したとしても影響はさほどありません。・・・現在は非営利財団という形をとっていますから、グループ本体へ与える影響も表面上は見えてこないからです。しかし先日レポートでお示しした通り、今後事業化の過程で本社との連結財務に組み入れるとなれば話は別です。まったく事業化スキームの目途が立たず事業として耐えられません。そもそもこの脆弱な収益基盤は非営利団体だからこそ成り立つ・・・・・」


大阪に来て以来、勇人の鬱憤が限界まで達していた。はじめの内は新しい事業の立ち上げということもあり凡そのことには目をつむり仕事に前向きに邁進していた。しかし1年がたち2年がたつと、この事業の実態が見えてきた。それはなんら実体を伴わない本社と関係がない事業であるばかりか、内容のどれもが社長の娘である妻の所有する管弦楽団や彼女が熱心に取り組む海外文化事業に関するおかしなものばかりだった。租税回避・・・利益隠し・・・資金還流・・・・調べれば調べるほど怪しい資金の流れや帳簿が出てくるのだ。そしてここが一種の社内ペーパーカンパニーであるということにようやく気付いたのだ。


大森は机の上の新聞を横にどけると静かに言葉を遮った。


「仮に君の言っていることが正しいとして、今になって経営陣の考えを覆せると思うかい?それこそ自分たちが立ち上げた事業を否定しておいて今さら何を云わんかだ。この大阪プロジェクトも立ち上げて漸く二年が過ぎたばかりじゃないか。君を見損なったよ。」


理で攻めるだけの勇人には、まだ情を以って人を制するような老練さは持たなかった。この直談判もレポート上の数字を羅列するに終始するだけのきわめて無味なものだった。実際、勇人は今言ったこと以上の疑念をこの事業所に持ってはいたが今はそれを主張する確たる証拠がまだ足りなかった。


「しかし、もう自分は限界ですよ。これ以上は無理です。 」


そう言うと頭を下げて勇人は部屋を出ようとした。上着のポケットに忍ばせた退職願を今日はどうも出せそうにない。もしも彼の提案に同意しない場合は自爆する形でこの事実を公にする決心でいた。しかし・・それは自らの職を失うことを意味する。勇人にここを辞めても他に行き場所はなかった。


部屋を出ようとする勇人の背後から森山は言った。


「ははーん」


部長代理は勇人の後ろ姿を見て、いやらしい笑みを浮かべた。


「水原元相談役がいなくなったから、君は早速ここには未練がないという訳だな」


その一言に勇人は動揺せざるをえなかった。


「なんですか、それ」


「つまり事業云々はともかくとして、君はこれを機に東京に帰りたいだけなんじゃないのかね。」


水原元相談役が自宅で倒れたのは先月の事だった。一線を引退した後もこれまで精力的に事業所の視察や役員との意見交換会などを日々こなしていたのだが、彼も高齢には勝てずこの日を境に入院してしまった。もはや今までのように会社にもこの地元のプロジェクトにも顔を出したり意見を具申したりするのは出来ないだろう。勇人も何度か妻と共に見舞いに行ったが、元相談役は意識はあるものの嘗てのような精錬さは今や見る影もなく弱弱しい老体をさらすだけとなってしまっていた。


それ以来、妻は事あるごとに勇人に真意を教えてなど変な質問をするようになった。昨日も自宅でワインを飲みながら勇人に、父の力が無くなったらあなたはここにいる意味ないわねと独り言のように呟いた。あたかも勇人が水原元相談役の娘という理由だけ自分と結婚をしていると言わんばかりだ。それは自分の不安や心配を連ねた心情ばかりが優先する、会話にならない一方的な感情の投げかけだった。いくら勇人が何か云っても、疑心暗鬼に陥った妻はまったく勇人の言葉を信じなかった。そんな毎日に勇人はウンザリしていた。


 「は?」


気色ばんで勇人が聞き返すと、


「いや、何でもないよ」と言って部長代理はデスクの書類に顔をそむけた。





5

大阪と言っても酒飲み場は安い店ばかりではない。確かに関東で言う立ち飲み風な店で安いところもあったが、だいたい常連の老人や自営者が毎日のように顔を出していて狭い店内でひとつの保守的なコミュニティを形成していた。だから背広姿の勇人は安いからとはいえ毎日のようにそんな場所に出入りするわけにもいかなかった。


梅田も新開発が進み古い建物や地下街は一掃されつつあった。あの地下街の暖簾を垂らしただけの立ち飲み屋もひっそりと影を潜め見ることが無くなった。乗り換えで駅の地下を通るたびに見たあの少し汚ない風景があまり好きではなかった勇人さえ寂しさを感じるほどの変わりようであった。そんな開発が済んだ後の店々は小奇麗で明るかったが何を頼んでもめっぽう値が張った。そしてみな同じところから仕入れしているのか何処で食べても味は一緒だった。この日はいろいろと嫌なことが重なり、勇人はこの夜何軒か梯子した。今夜の飲食代は相当な金額になるだろう、無意識で全部カード決済にした彼は酔いながら家に帰宅してそう思った。


 家の中は真っ暗だった。もう十一時を回っているから妻がいないのも変だ、遅く帰った俺への当てつけに真っ暗にしていったのか、鍵を掛けて締め出されなかっただけでもマシだと泥酔しながら勇人は思った。乱暴に玄関で革靴を脱ぐと応接に入った。部屋の電気を付けようとすると部屋の片隅で啜り泣く声が聞こえる。しかし酔っ払って気の大きくなった勇人は今日こそは言ってやらねばと決心していた。妻に母として主婦として果たすべき役割がある筈だろと滔々と説教する積りでいたのだ。それで少しずつでも意識を変えて言ってくれれば自分たちは夫婦としてやっていける未来が残っている気がした。


 「帰ったぞーー」


わざとひどく酔っ払っている振りをして部屋の電気を付ける。部屋の真ん中に小さいベットがあるがその中に赤ん坊はいなかった。かわりに憔悴しきった表情で座り込んでいる若い女性がいた。


 「ミカさん!こんな時間までどうしたんですか、早く帰らなくちゃ・・・」


 「非常ベルで呼ばれてさっき駆け付けたんです。それよりこの子、もう」

その腕の中には生気のない赤ん坊が抱かれていた。鼻や口からたくさんの吐瀉があふれ息をしていない。


「なんどもさすったんです。でもサトル君わたしが来た時には息をしてなかった。こんなに小さい子なのに。なんで助けてあげなかったのよ、あの人・・・・」


そういって赤ん坊を抱きしめる姿こそ、母の姿そのものだった、しかし実際の母は家のどこにもいない。


「ミカさん、落ち着いて。・・・・取りあえず、えっとー。救急車、救急車は、と・・」


「救急車ならさっき奥様が・・さっき。でも呼んだあとにどうしていいか分からないから取り合えず実家へ相談に行くって、そのまま・・・出て行かれましたけど。」


抜け殻の様に憔悴しきった彼女はそう言うと、まだ動かない赤ん坊を摩り続けていた。


「ああ、あいつどこ行ったんだよ。赤ん坊がこんな時に、どうして母親が出て行けるんだ」


近づいてくる救急車のサイレンを聞きながら、勇人は誰ともなく天に向かってそう呟く他なかった。





6

あの大家の田口の姿が見えなくなってから、代わりに不動産業者が毎朝来ては部屋のドアをがんがん叩いていくようになった。最近沙希はこの来客が来るといつもベッドの下に逃げ込んで居留守を使った。聞くところによると大家は秋に入り体を壊して入院してしまったらしい。息子が莫大な借金をしていたらしく最近こういう怪しい風体の男たちが黒塗りの車で乗り付けてアパートや大家の家にいるのをよく見るようになった。


 そして気づいたときには沙希はすでにここを立ち退いていることになっていた。夏以来家賃の振込先口座もなくなり誰にも家賃を受け取って貰えなくなったからだ。すでに解約されているらしくアパートの電気もガスも止まってしまっていた。アパートの敷地には「管理物件 立入禁止」を示す杭打ち看板がいつのまにか設置された。


 もはや万事休すだったが、ここに及んでも勇人が帰ってきてくれさえすればまだどうにかなると沙希は希望を抱いていた。部屋のベッドの下にはまだ例の物が置かれた儘だったのだ。勇人が帰ってきたらちゃんと説明して渡そうと思い、その包みを手で摩りながら沙希はなんとかこの状況をやり過ごそうとしていた。


 沙希は勇人の実家に電話した時のことを、うっすらと思い出していた。家人は沙希からの電話だと判ると一様に驚いたような対応をした。それは次第に困惑へと変わっていった。勇人の両親とは4回ほどしか会ってなかったからそんなに親しくはなかったが、沙希は婚約者のつもりでいた。しかし相手方はどうもそう捉えてなかったらしい、勇人が家族にどう言って説明したかは知れなかったがその後二人は当の昔に破局したらしかった。勇人の両親はアパートなんかとうに引き払い、沙希が九州の実家へ帰ったものだとばかり思っていた。


「勇人はもう大丈夫だから、このままそっとしておいてください」


最後にこう言った勇人の母の言葉が沙希にはさっぱり理解できなかった。これではまるで沙希の方から破談を申し込んだような感じではないか。勇人は両親にいったいどんな風に言ったのだろうか・。



第4

1


 

かつて勇人が住んでいたコーポ港南のアパートは周囲を背の高いススキの草に覆われ、まるで荒れ果てた廃墟のようだった。この古びたアパートに沙希はまだ住んでいるのだろうか。勇人は月明かりに照らされたアパートの裏に回ると昔住んでいた部屋の様子を外から伺った。一階の部屋の窓に小さなピンク色の光がうっすら映ってるのが見えた。いつも沙希が寝るとき付けていたピンク色のシェードランプ、これはその灯りだ。


沙希がいる!沙希がまだ俺のことを待ってくれている!


勇人は正面玄関の方に急いで駆け戻ると、見慣れた部屋のドアをノックし何度も沙希の名を呼んだ。


薄い玄関扉が開くと、後ろの薄明かりを背景にして目の前に沙希がぼんやりと立っていた。あれから何年経ったことだろうか、別れた日と同じ寝間着姿のままそこに立つ彼女を見て勇人は時間の経過を忘れて過去を未来と錯覚した。


沙希は勇人を見ると「あっ」と小さく声を上げた。あの時と本当に変わっていない、心なしか頭に白髪が少し増えて見えた。夜の闇を背後にする勇人とアパートの奥からの薄明かりを背後にする沙希は計らずともしばらくお互いそのまま見つめ合った。勇人には言葉は何もなかった、沙希を捨てて出て行った当の本人は弁解も謝罪もする機会を逸して、なんら有効な言葉を持ち合わせてなかったのだ。


沙希は驚きのあまり玄関扉にもたれ掛かるように倒れ込みそうになった。驚いた勇人は咄嗟に沙希を抱きかかえるとその身を支えた。


「帰ってきたの?勇人。」


か細い声で沙希がそう呟いた。思いのほか体が痩せ細っていた。 


「ああ、入るよ。悪かったね。」


勇人は落ち着き払ってそう言うと、沙希を抱きかかえながらアパートの中に入っていった。


 部屋は電気を止められて久しいらしく、奥の部屋の窓辺に小さな明かりが灯されているだけだった。部屋の中は雑然としていたが、出て行った当時の面影がまだ残っていた。沙希はこの部屋で勇人が帰ってくるまで、当時と変わらぬ生活をずっと続けていた。貯金も収入もないだろうからてっきり実家に帰ったとばかり思っていた勇人はそのことに衝撃をうけた。


「何もなくて、本当に何もないのよ。お茶も出せないでごめんなさいね。」


寝間着姿のまま少しやつれた顔で沙希は勇人にそう言った。電気はおろか水道まで止められてしまっているのか・・・。居間で小さなテーブルを挟んで向き合うと、こんな過酷な環境に長年沙希を放置し続けたことを勇人は悔い、心から沙希に謝罪するのだった。


「いいのよ私は。勇人が元気でいてくれたのを知って。戻ってきてくれたんだもん、それだけで十分。他に何もいらないわ。」


健気に彼女は偽りない眼差しでそう言うばかりだった。


「大阪の方は大丈夫なの?仕事は順調?ちょっと痩せたね、勇人」


突然帰ってきた勇人を非難するどころか、寧ろ帰ってきた彼のことを心配をする沙希の姿を見て、勇人はあらためて沙希の心の優しさを知った。


「大阪の仕事の方は、いろいろあって・・・今度またゆっくり話すよ」


「そう・・」


「でも驚いたよ、ここにまさか沙希がまだいたなんて。てっきり引っ越したとばかり思ってたから、何か沙希の消息が分かればと思ってここに来たんだ」


すると沙希は少し悲しそうな顔をして笑った。


「そう・・。でも久しぶりにここまで来て疲れたでしょ。今日は泊まっていって。久しぶりに一緒に寝ようよ。」


そう言って寝具が置いてある奥の部屋に案内する沙希の足取りはふらふらで覚束ないものだった。勇人は沙希の後ろから支えるようについて行った。部屋のところどころ絨毯に染み出た黒い染み(シミ)やこび付いた黒い埃の塊のようなものがあった。なんだか気になるが部屋が暗くてよくわからなかった。あんなに綺麗好きで毎日掃除をしていた沙希だったのに、体を壊してから昔のように掃除をすることができなくなってしまったのだろうか。そう思うと彼女の今日まで不幸を思い勇人は悲しい気持ちになった。自分はこの世で最愛の女に対してなんというひどい仕打ちをしてしまったのだろうか。


沙希と勇人は暗がりの部屋の中で小さなベッドの上に横たわった。昔近所の総合スーパーで買ったそのベッドは寝転んで動くたびギシギシとバネの音し、昔と変わらなかった。音はせまい部屋に木霊(こだま)した。


「覚えてる?このベット。二人で西友に買いに行ったのよね。わたし、勇人が出て行ってから毎晩ここで寝るのが嫌だったの。昼間はあなたのことを忘れたつもりでも、夜になりここに一人で寝てると一人きりの実感がじわじわ押し寄せてくるのよ」


沙希は生気無い声で深いため息をついた、何か病気なのだろうかその息は腐ったようなにおいがする。


「ここであなたを待ちながらひとりで寝るのが本当に寂しくて。」


沙希は勇人とベッドの上で真近に向き合ったまま顔を手で覆うとシクシクと泣き出した。痩せ細った体はその声とともに震えていた。


「ごめんな・・。」


勇人はそれ以上何も言えなかった。勇人は沙希の体を抱きしめながら静かにそう呟いた。

すると沙希を抱きしめた瞬間、勇人の体中から沙希を愛していた頃の感情や記憶がよみがえり、まるで自分が会社勤めになる前の、無邪気な沙希と付き合っていた頃に戻ったような心持になった。それは幸福と悲しみが交差する不思議な感情だった。その恍惚感に痺れ暫く勇人の体も心も動かなくなってしまった。目からはとめどなく涙があふれとまらなかった。

 そんな勇人の様子を目の前の沙希は黙ってじっと見つめ続けていた。目の前にいる紗希こそ、勇人が愛した女性だった。この思いやりにあふれ慈悲深い女性こそが、彼が世界でただ一人愛した女性であったと気付いたのだ。


 沙希はやがて気丈に元の優しい表情に戻ると生来の明るさを取り戻して勇人の顔を見ながら言った。


「でも、今日は久しぶりに会ったんだから楽しい話をしましょうよ。ねぇ私たちが出会ったときのこと覚えてる?」


涙顔の沙希はにこりと笑うと自分を抱きしめる勇人の手を優しく撫でながらそう言った。


それから勇人は沙希と一晩中、2人の出会った頃の話をした。大学のサークルで偶然隣の席になった日、忘れてきた大事なガイダンスの登録予定表をカバンの中を引っ掻き回すように探している勇人に沙希が自分の物を渡してくれた時のこと、それから二人は話をするようになったこと。野球が好きな彼女のため苦労して券を手に入れた初めてのデート、その帰り後楽園遊園地で遊んだこと。二人で山に行った日途中豪雨になり大変な思いをしたこと。誕生日プレゼントに指輪を買ったこと。親を紹介し一緒に住み始めた時のこと。それらすべての約束、信頼が思い出と優しさに満ちた過去の日々はどの思い出も燦然と輝く美しいものばかりだった。

話は尽きることがなかった。


久しぶりに勇人に会って疲れたのか、暗いベッドの中で沙希の顔は次第に暗くなり声も小さくなっていった。


「沙希、疲れたろ、もう休もう。続きはまた明日。俺はもうどこにも行かないから、明日また続きの話をしよう。だから今日はもう・・」


暗闇の中で顔を横に振る沙希の気配が見て取れた。


「・・・やだ。わたしもう少し、勇人とお話がしたい。久しぶりに会ったんだもん。」


 しかし彼女の声はますます小さくかすれ聞き取りにくいものになり、勇人は沙希の身体を心配した。

こんな環境で飲まず食わずの生活を長年強いられてきたのだ。彼女の心と体の負担は、いかばかりのものだったろうか。彼女の健康が心配になった。

 もし彼女がこのまま死んでしまうなんてことがあったら大変だ。とりあえず今夜はゆっくり休ませて、明日朝になったら沙希の様子を確認しよう。まず朝食を作ってやって部屋をきれいにして、風呂に入れてあげて病院にも連れて行こう。いや場合によっては救急車を・・だっ・・て・・・・だっ・・・・て・大・・事な沙希に・・・・・もしものことが・・・・あったら・・・今度こそ・・今度こそ・・俺は・・・・・俺は・・・・・・・・


 沙希のとなりで勇人は知らず知らずのうちに深い闇の中へ意識が落ちていくのを感じた。その意識が完全に落ちる瞬間まで、勇人は沙希が楽しそうに思い出話を擦れた声でしているのを聞いていた。






2


目覚めるとバタバタと人の足音が騒がしかった。むかし、大学時代に飲み会で一気飲を繰り返して倒れて救急搬送された時のことを勇人は思い出した。なんだかあの時に聞いたサイレンと怒号が寝転んだ勇人の耳から聞こえる。


〈阿佐ヶ谷14。マルヒを1名確保したが、意識混濁のため救急搬送する。搬送先は荻窪総合病院〉


〈ガガー本部了解。阿佐ヶ谷14、発見されたマルタについて再度情報求む、どうぞ」


〈アー、阿佐ヶ谷14。マルタの性別・年齢とも不詳。状態は極めて悪し、現場の保全及び周辺封鎖、鑑識の出動が必要と思われる。現着へのPC応援要請、すでに杉並署刑事課が手配済み、どうぞ〉




救急車の担架に乗せられながら勇人は救急隊員に何か聞こうとしたが声が出なかった。


「ぐぇっど!ぐえっどのぎだみがいがが!ごべんなざひ!だががだずげぇで!!」

涎を垂らしながら何かを言おうとする勇人を救急隊員が必死に押さえた。


「動かないでください。しゃべらないでください。」


殆ど意識のない状態のに入ると勇人は繰り返し繰り返し何度も同じ夢をも見続けた。


 丁度それは勇人がこのアパートを出ていく日のことだった。朝起きて出勤しようとすると珍しくいつも見送る沙希の姿が無い。気になって寝室に戻るとそこで沙希は何かをしていた。

 ベッドの下で何かこそこそしている沙希の姿を見て、何事か尋ねると沙希は勇人を遮りそれを隠そうとした。「ねえ本当にお願いよ。勇人、絶対見ちゃだめだからね。」

 そういわれて部屋を出ると周囲の光景が一変する。瞬間的に時間が流れアパートは古びた廃墟となった、その部屋は腐りきり閉鎖された密室となり真っ暗闇になった。あわてて沙希のいた部屋に戻るとついさっきまで沙希であった何かが朽ち果て黒い塊となってこっちを見たまま炭のように黒ずみ腐って固まっていた。勇人は恐怖に絶叫した。そして意識が遠のいて・・・・。



 玄関の近くで大家の男が刑事たちから尋問を受けていた。甲高い声が聞こえる。2人の警官が110番通報で現場に到着すると対応あたった第一通報者の男で、このアパートの所有者でもあった。


「すぐに取り壊してマンションを建てるつもりだったんですよ。でも工事が終わらんうちに父が急逝してしまいまして。アパートだけが残ってしまいました。」


警官たちが玄関から入っていくのを見て大家は頭を下げ、そして話を続けた。


「・・・そんなわけで、あの奥さんはアパートに最後まで残ってしまわれましてね。わたしとしても入院したりして家にいないことが多かったから、立退き業者にお願いしたんですよ。しぼらくして業者から出て行ったと連絡があって。転居先は聞かなかったからてっきり実家に帰ったと。部屋に入ってみましたけど誰もいなかったです。ベッドの下?見てません。そこに何か?」



救急車に乗せられる勇人を見届けた後、先ほど本庁と無線連絡していた警官が小声でつぶやいた。


「しかし主任。なんですかこれ、さっぱり状況がわかりませんよ。あいつこの廃アパートの封鎖されたドアを蹴り壊してわざわざ中に入ったんですかね?」


誰も住まないアパートの玄関と窓は全て留め板で幾重にも釘打ちされ目留めされていた。建物の周囲は立ち入り禁止のロープが張られ、背の高い雑草が生い茂っており普段は誰一人近づくものなどなかった。


昨日の深夜のことだった。誰もいないアパートから叫び声や物を壊す音が聞こえると通報が寄せられ交番の警官がアパートまで見に行ったがアパートに人影はなかった。そして朝になり今度は大家からアパートに侵入したものがいると通報が入った。警官が駆け付けると玄関が破壊された部屋の中で死にかけた男が死体と共に倒れていたのだ。


「死体はミイラ状態らしいですよ。」


青いシーツがかけられた一角を見ながら警官が言う。さっき主任と呼ばれた年取った警官が顎に手を当てながら答える。


「わからんな、こんな奇妙なこと後にも先にもないだろう。遺体の様子からマルタはこのベッドの下にうずくまるようにしてだいぶ前に死んでいたらしい、死体のシミはそこのベッド下が一番ひどくてな。それをあの男は引きずり出して居間やベッドに運んで一晩一緒に過ごしたらしい、何を考えてんだか・・・。遺体を引きずった跡が部屋中ひどくてな・・。」


警官はマスクをした口を押えながら言った。


「クスリでもやってたんですかね?しかしよく死体と一晩過ごせたものですね。」


「とうにいかれちまってんだろう。腐乱死体を抱きかかえながら笑顔で寝入っていたらしいからな。・・・この臭い・・もう耐えられんな、あとは鑑識に任せて俺たちはやっぱり出よう。」


頭の髪を専用のビニール帽で覆った鑑識と思しき人員が現場に到着し始めた頃、二人の警官はこの部屋の現場保存を後続の鑑識に任すと部屋を後にした。


玄関先には青々とした植物が紫色の大輪の花を咲かせていた。こんな水がない環境で何年もよく枯れなかったものだ。すると年配の警官が指さして言った。


「これは、無謬草だな。ここいらであまりみなくなったと聞いていたが、まだ生えていたんだな。」


「無謬草?」


「おい、あまり近づいてにおいを吸い込まん方がいいぞ。粉にしたら麻薬になる花だ。ひどい幻覚作用を起こすアルカロイドを含有する花で、欧米だとこの種の花は禁制品らしい。」


主任と呼ばれていた警官が表札を見ていった。


「あれはここに住んでいた奥さんなんじゃないか。かわいそうに都内で行き倒れってパターンか。いまの日本は不景気でロクな仕事もないからな。まったく未来がないねえ。」


部屋のドアの表札には消えかかった文字で湯本と書かれてあった。


現場にはパトカーのサイレン音が鳴り響き、警官は増える一方だった。





3

宝寿司の大将は今日も饒舌が絶えなかった。夜になり久しぶりに顔をみせた赤坂亭の社長が来てからというもの、調子があがる一方で誰も止めるものとてなかった。


「おや!社長、久しぶり!しばらく店に来ないからとうとう会社が潰れて首でも括ったのかと思ってたよ!」


社長の方は慣れたもので大将を指差しながら笑っている。


「大将!あい変わらずだな、あんまり口が悪いと客が逃げちゃうぜ。」


そう言いながらどっしりとカウンター席の木製のイスに腰を下ろす。


「へい!社長がもしこのまま来てくれなかったら、おいらももう店を閉めて夜逃げしようか首括ろうかと思ってたところなんですよ。社長が来てくれて助かりました。」


社長は馬鹿言ってらと笑い、何も言わず大将が置いた徳利の熱燗をお猪口に注いで飲み始めた。


「社長、いつものでいいですかい?」


上機嫌の大将はニコニコしながら社長に聞く、自分から注文を聞くなんてこの唐変木には珍しいことだ。


「ああ任せるよ。なあ飯食いながら言う話じゃないが、首括りと言えば・・・大将知ってるかい?」


社長は他にいる一組の客に気を遣ってちらっとそちらを見た。その客は暗黙に大丈夫ですよと言わんばかりの体であったが、しばらくするとお会計をして去って行ってしまった。


「世界大戦の頃、ドイツ人がポーランドで死刑になった時のことなんだが。」


大将は寿司を握りながら顔色ひとつ変えずに返事をする。


「死刑になるくらいなら、そいつ相当ひどいやつなんですかね。」


社長は徳利の酒を次ぐと続けざまに2度飲んだ。赤ら顔に更に赤みが増す。


「まあ戦犯だな。収容所で面白半分に民間人をたくさん殺したらしい。で奴の死刑の時にね、そいつ背が高すぎて2回も絞首台のロープが切れてしまったんだってよ。それで3回も絞首台を昇る羽目になった。3回目にやっと成功。昇天さ。」


社長は目の前で自分の首を絞める振りをする。


「嫌だねえ、一回でも死ぬのは嫌だけどその男は3回も死ぬことになったんだぜ。」


それきり社長は話すのをやめしばらくして酒を飲んでいた。さっきまで男女の客がいた席を見ると大将に言った。


「大将、さっきそこに仲の良さそうなカップルがいたね。」


大将は造りを社長に出しながら言った。


「社長、若い男女が仲がいいのは当たり前でっせ、だから一緒にいるんでさ。社長の得意な同伴とはちょっとわけが違うんで。しかしあんな風に若いうちから身銭切って好きな女を寿司屋に連れて行ってやる男には悪い奴はいませんぜ。あの男はしっかりした男ですわ。あれは女を裏切らない。ウン、まず別れないでしょう。実はあの二人、前にも親御さんを連れてうちにきてくれたんです。大層うちの店のことを気に入ってくれたんですよ。」


「ほう。」


「今日は転居祝いにわざわざうちに来たんだそうです。若い人はいいですな、夢がある・・純真さがある・・正直さがある・・・いいことばかりじゃないですか。 まあ・・・世の中には平気で女を裏切って捨てるような男も沢山いますがね。まあそんな男には生きてても何の価値もありませんな。」


そういうと大将は手を洗いに流しに向かった。そばにいた店員に「おい」と声をかけると入り口の暖簾を仕舞うよう告げる。夜はすでに更けていて、宝寿司も間もなく閉店の時間らしかった。



             〈終わり〉





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和解 早坂慧悟 @ked153

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