第6話 酒席

6-1 バー<月見亭>

 地下鉄を乗り継いだ2人は、都内某所で下車し、高層ビルが林立する中、路地裏とも言えそうな地区に入って行った。

 その地区は、居酒屋やバーも多い地区である。所謂

 <赤提灯>

もあり、仕事帰りのサラリーマン、OL等が酒を飲んで楽しんでいるのか、そこここから、笑い声が聞こえて来た。

 「ここよ」

 楓が言った。西洋風のバーであるらしく、入口の脇には、木製の看板があり、縦書きで

 <月見亭>

とあった。

 葵は、夜空を見上げてみた。今日は暑い一日だったせいか、青い夜空には雲も然程なく、月が煌々と輝いていた。

 <月見>

をするには、良い天気であろう。

 「こんばんは」

 楓が木製の戸を押して、店内に入った。葵が続いた。

 「よっ、いらっしゃい、警部補!」

 マスターの声が勢い良く、店内に響いた。

 「今日は同僚と来てるの」

 楓に続き、店内に入った葵は、

 「初めまして、お世話になります。塚本の同僚の山城葵と申します」

 「へえ、こちらも刑事さん?」

 「そうよ、同じ警部補、警視庁の刑事」

 「いらっしゃい、楓ちゃんとそれに山城さんでしたか、御2人とも、こちらへ」

 カウンターにいたマスターは、2人を自身の正面のカウンターに案内した。

 葵にとっては、ここは初めての場所である。カウンターの背後には、様々な洋酒とみられる酒瓶が並んでいる。天井には、プロペラ状の扇風機、店内には丸テーブルと椅子。マスターは50代半ばといったところだろうか。

 葵は、何だかテレビやスマホで見るドラマの1シーンの中に入ったかのような感覚に襲われた。

 「何、飲みます?」

 マスターが早速、聞いてきた。

 「私、ウイスキー、いつものやつ」

 「じゃ、私も同じで」

 初めての場所に戸惑いつつ、何を注文して良いか分からない葵は、楓と同じ注文となった。

 「何か、食べる?」

 楓の質問に対し、

 「何があるの?」

と、葵は返した。

 「マスター、メニュー」

 「はい、どうぞ」

 勢いの良い返事と共に、2人の前にメニューが差し出された。

 「サンドイッチ、チーズの盛り合わせ、後は追々ね」

 「かしこまりました」

 まずは2人の前にウイスキーが差し出された。

 「じゃ、今日も1日、お疲れ様!」

 楓の音頭に合わせて、2人は乾杯した。

 「ほんと、今日1日、暑くて大変だった。でも、奇麗なお月様が見られて良かった」

 葵は1日の疲れを吐き出し、自身を労うかのように言った。

マスターが楓に言った。

 「楓ちゃん、最近どう?あまり顔を見せないから、さびしいものがあったよ」

 「まあ、ぼちぼち、とりあえずは、何とかなってます」

 2人の会話を聞きつつ、疲れもあるからか、葵は、ウイスキーに少しく酔った。

 「あかん、あかん、なんか、酔うて来た」

 心中、自身を自制しつつ、葵は初めての場所ということもあり、何を話すべきかと思いつつ、

 「まあ、月並みな事でも聞いてみるか、店の看板にも≪月≫いうて、書いてあるんやし」

と心中で思いつつ、マスターに声をかけてみた。


6-2 <ツキ>

 「マスター、この店の名って、≪月見亭≫って言うんですよね。今日も、外の月がきれいだけど、どうして、≪月見亭≫って言うんですか」

 マスターは、注文されたサンドイッチととチーズの盛り合わせをカウンターに置きつつ、言った。

 「ああ、名前の由来ね」

 マスターは、そう言うと、名前の由来について言った。

 「ツキって、ほら、ツキって言うじゃないですか?」

 「?」

 葵は、今一つ、分からない。

 「刑事さん、分かりません?」

 「ええ、ちょっと」

 マスターは、カウンター上にあったメモ用紙を手にすると、ペンで書き、葵の前に差し出した。

 

 ・ツキ=運


 このバーの

 

 ・ツキ


は何らかの形で、


 ・幸運


と掛詞になっているのだろうか。

 「マスターのおっしゃる<ツキ>って、幸運のことかしら?」

 「そうです、幸運のことなんですよ」

 「幸運か、ここに来ると、幸運になれる、だから、是非、一度はお越しください、という意味かしら?」

 心中にて、そう思った葵は、それをそのまま、声にして、マスターに問うた。

 「まあ、それもありますね。というか、私自身の人生についての掛詞でもあるんです」

 「?」

 「私はもう、50代半ば、30代の刑事さん達より年を喰ってしまいました。私が若い、というか就職適齢期なんて言われた2000年前後は、所謂、就職氷河期の延長の不況の頃でね、どこかに就職して、まっとうな社会人になりたくても、なかなか、仕事が見つからなかったんです」

 <就職氷河期>

 あるいは、それを引き起こした異常な加熱景気たる

 <バブル経済>

という言葉を2000年生まれの葵は、言葉では知っていた。日本の社会の需要な転換点として、学校のテキスト等に載っているからである。しかし、当事者の声として聞くのは初めてのことであった。

 「それでまあ、何とか就職してみたものの、それが所謂<ブラック企業>でね、違法な残業はあるは、まともな休日はないわで、大変でしたよ」

 「ふむ、それで?」

 葵は、何かしら、乗り出すように聞き始めていた。刑事の仕事には、今日も行ったように、聞き込みがある。葵は聞き込みをしているかのような気分になったのかもしれない。

 あるいは、その背後に、

 <旺盛な好奇心>

のようなものがあるのだろう。あるいは、刑事は、

 <旺盛な好奇心>

がなければ、成立しない職業とも言える。

 「自分で苦しい中、何とか得た就職先とはいえ、会社のブラックぶりに嫌気がさしてしまったんです。それでとうとう、ある日、仕事を辞めたんです」

 熱心に聞こうとする葵に対し、マスターは続けた。

 「当時、1人暮らしとはいえ、このことを知った親は怒りました。男のくせに根性がないだの、みんな、苦しんだ、お前はそんなことにも耐えられないのかって」

 この言葉に、何か、葵もイメージできることがある。所謂、

 <ジェネレーションギャップ>

である。葵について言えば、毒母・真江子との争いの背後にそれがあるだろう。

 マスターの表情に、何か、少しく怒りのようなものが湧いたようにも感じられた。客の前とはいえ、過去の屈辱とでも言うべきものが脳裏に蘇ったことで、少々、感情的になったのだろう。

 「それで、暫く無職となり、その後はパートやアルバイトで稼ぎながら、安アパートでどうにか、食いつないできたんです。ただね・・・・・」

 続きを聞きたい葵は、その続きを促さんと、

 「ただ?」

と声を出した。

 「親戚がこの店を譲ってくれたんです。私のことをかわいがってくれたおじきがね、元々、この店のオーナーでね、だけど年を喰って、引退するとのことで、この店を私に譲ってくれました。私にとって、それは<ツキ>でした」

 マスターにもなかなか、大変な事情があったようである。

 「それで、ツキを見た、という意味で掛詞として、月見亭としたんだけれども、うちに来てくれるお客さんにも、何らかの形で色々、事情があるだろうから、きっと、≪ツキ、見てえ≫、つまり、≪ツキを見たい≫という人も多いでしょうよ」

 そういって、彼は


・ツキ、見てえ=ツキを見たい


と改めて、紙上に書いた。

 「で、マスターとしては、ここに来てくださるお客さんも、出来れば、今夜のような奇麗な月が見られれば、と思うし、マスター自身も非力だけど、皆さんが奇麗な月のような良い人生を歩めるような何等かの一助としてのツキ、つまり幸運の手助けになれれば、と思っているし、そういうお客さんたちの幸せな人生を見せていただけると嬉しいと思って、≪月見亭≫なのよ」

と、解説の続きは、隣席の楓からなされた。

 楓が解説の続きを為したのは、葵ともますたーとも気心が知れた仲、ということもあったのだろうが、マスターの表情を見た楓の、彼に精神的負担をかけまい、という配慮だったかもしれない。

 葵は内心、少々、後悔し、

 「あかん、あかん、酔いの勢いからか、人を傷付けてしもうたわ」

 とつぶやき、

 「すみません、マスター、初めてなのに、辛い目に逢わせてしまいまして」

 「いえいえ、ろくに良い目をしてない人からすれば、私は良い方です。それに今、楓ちゃんから聞いたでしょう。≪月見亭≫の意味。それこそ、非力な私だけど、苦しい毎日の中で、話を聞くだけでも癒されるお客人もいるようでね、お客人のお話はなるべく遮らずに聞くようにしているし、その流れの中で、今のような話になることも多いですよ。

 葵は思った。

 「客商売は、それこそ、人間相手だから、難しい面もあるんやろうね。せやけど、相手の人間を観察して、何というか、相手の心中に寄り添えるところもあるから、こうした商売も成り立つ。その意味で、このマスターさん、私のような刑事より、人の心中を見抜けるんかもしれんし、せやから、楓が見習うべき存在として、或いは、楓自身も聞いて欲しいことがあることもあるやろうから、行きつけの店にしているんかもな」

 グラスを空にした葵は、同じウイスキーをさらに注文した。


6-3 会話

 同じく、楓も、ウイスキーを空にし、葵と同じく、ウイスキーの更なる一杯を申し出た。チーズをつまんでいる葵に楓が話しかけた。

 「葵、今日のほら、通話記録に出て来た佐藤美紀さんって女性、どんな人かしらね。実験の謎を解く糸口になれば良いんだけど」

 「確かに。だけど、まだ、捜査も始まったばかりで、顔写真もないし」

 「但し、電話番号と住所は分かっているわけだから、任意で話が聞けたら」

 楓は、

 「写真もないので、マスターに聞いても分からないだろう」

と思いつつも、

 「マスター、佐藤美紀さんって方、この店に来たことがある?30前後の方だけど」

と問うた。

 「いや、聞いたことがないな、楓ちゃんみたいな懇意のお客さんなら、色々、話して、名前も聞いたりすることもあるけど。聞いたことない名前だな」

 「今回、私達が担当している事件のちょっとした関係者でね。もし、何か分かることがあれば、連絡して欲しいんだけど」

 「了解、覚えておくよ」

 葵が礼を言った。

 「捜査へのご協力、有難うございます」

 「まあ、俺達、客商売も、治安がしっかり保てられてこその商いなんでね。自分の生活の為にも出来る協力はしなければ」

 マスターの言葉は、それこそ、何の変哲もない言葉であろう。と言うより、

 <変哲>

がないからこそ、毎日の

 <生活>

のかかった言葉と言っても良いだろう。

 以前、担当した斉藤義雄殺人の件については、目を離した隙に、当時の最重要関係者・津島に自殺されたのは大きな痛手であった。又、ちょっとしたミスが、事件の<迷宮入り>の原因になるかもしれない。故に、

 <刑事>

という職業は、常々、気が抜けない職業であり、故に、合間のプライベートな時間、空間は、大きな安息である。故に、毒母・真江子は、その妨害者以外の何者でもなかった。

 葵は改めて、自身のスマートフォンを確認してみた。間違いなく、

 

 ・着信拒否


になっている。

 「よし、大丈夫だ」

 葵は心中にて安堵し、つぶやいた。

 <月見亭>

は、葵にとっては初めての場所とはいえ、楓同様、何かしら、マスターと気が合うようである。葵は今度は1人でも来られるようにと、マスターの氏名を問うた。

 「あ、失礼しました。私、こういうものです」

 そういう言うと、


 ・<月見亭>オーナー


新井 繁之


TEL 090-××××-□□□□


と書かれた名刺を差し出した。

 「有難うございます」

 葵は礼を言うと、名刺を自身の財布のポケットにしまった。

 腕時計を見ると、既に、午後10時を回っていた。

 「さ、そろそろ、おひらきにしましょう」

 楓の言葉に葵も同意した。支払いは割り勘で、約3000円で、計6000円であった。

 「じゃ、また」

 そう楓は言い、葵も続いた。

 「今日は、有難うございました、又、宜しく!」

 背後にマスターの声を聞きつつ、外に出ると、

 「昼の忙しい時でなくて良かった。この雨のおかげで、明日は少々、涼しくなるかもしれない」

 そう思いつつ、折り畳み傘を指した葵であった。楓も折り畳み傘をさし、

 「葵、じゃ、また明日」

 「また、明日」

 そう言うと、2人はそれぞれ、家路に就いた。




















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