ある日、トリケラ

飛鳥休暇

海に向かって

「お前、確か日野原ひのはらと仲良かったし近所だったよな?」


 一学期の終業式の後、職員室に呼び出された僕に担任の齋藤がそう言ってきた。

 普段からジャージ姿の、強面の先生だった。


「はぁ、まぁ」


 彼の言う「仲の良い」の真意が良く分からなかったので、僕は曖昧あいまいに返事をした。


「明日から夏休みだから課題とか渡さなきゃなんないんだけど、お前ちょっと持って行ってやってくれよ」


 そう言って齋藤はプリントの束を僕に手渡してきた。


「先生もほんとは様子を見に行ってやりたいんだけどな。ほら、大会前で部活が忙しくて」


 続けて、聞いてもいないのに言い訳じみたことを言ってくる。齋藤が顧問をしている女子バスケ部は二回に一回は全国大会に出場するほどの強豪チームだった。


「分かりました」


 僕はもらったプリントをカバンから取り出した空のクリアファイルに差し入れる。


「んで、なんか気付いたことがあったら報告してくれな。もうすぐ高校受験も控えてるんだから」


 齋藤はそう言い残し、僕を置いて職員室を後にした。

 部活の指導に向かうのだろう。



 僕はクリアファイルをカバンに入れつつ、彼女――日野原ひのはらあおいのことを思い出していた。





 僕と葵は幼稚園からの幼馴染おさななじみで、家も五十メートルと離れていない場所に住んでいた。


 そんな関係だから、幼いころから互いの家を行き来するような仲だったのだが、中学に入学したころから思春期特有の照れも相まって多少距離を置くようになっていた。


 距離を置くといってもしゃべらなくなるとかそういうことではなく、気軽に家に遊びにいくことは無くなったという程度だ。


 まぁ、結論から言うと僕は彼女のことが好きだ。


 それはもしかしたら、彼女ほど一緒に過ごした異性がいないがゆえの刷り込みの可能性も無くは無いけど、少なくとも僕の中では彼女に対するはっきりとした恋愛感情があった。


 そんな彼女が最後に登校してきたのが二週間前。


 夏服であらわになった彼女の細い右腕に、すごく目立つ包帯が巻いてあった。


「どうしたの?」って僕が聞いても「ちょっと転んじゃって」としか答えてくれなかった。


 そしてその日を境に、彼女は学校に来なくなったのだ。



 僕も気にはなっていたが、いきなり彼女の家にお見舞いに行くような勇気もなく。


 なので今回の担任からの依頼は、僕にとっては願ったり叶ったりだった。




 葵の家に到着し、玄関のインターホンを押してみるが反応がなかった。


 その場から少し下がり、二階の葵の部屋を見上げてみるがカーテンが締め切られており中は見えなかった。


 確認のためもう一度押そうとしたその時、インターホンが繋がる音がした。


「あ、あの。五十嵐です。五十嵐いがらし優斗ゆうとです。先生に頼まれて葵ちゃんに配布物を――」


 言い終わるより先に玄関の扉がゆっくりと開いた。


 中から半分だけ顔を出してきたのは葵の母親だった。


「あ、おばさん。お久しぶりです」


 僕がおばさんに頭を下げると、おばさんは少しだけ辺りを見回し、急かすように僕を手招きする。


 なんだかおかしな様子のおばさんに、僕は首を傾げながらも案内されるがまま家へと入っていく。


 家に入った瞬間に、すぐにそれと分かる葵の家の匂いが漂ってきて懐かしい感覚がした。


 臭いとかそういうのではなく、他人ひとの家の匂いだ。


 

 おばさんは僕が靴を揃えるのを見守ってから、黙ってリビングのほうに歩き出した。


 僕も黙っておばさんの後をついていく。


 記憶にあるおばさんはいつもニコニコしていたので、なんだか今日はおかしな雰囲気を感じた。


 テレビの前に置かれている足の短いテーブルまでくると、おばさんは「どうぞ」と座布団を指し僕に座るように促した。


 指示されるがまま座布団に腰かけると、おばさんも向かいに座ってから「ハァ」とため息をつき項垂うなだれた。


「……あの」


 気まずい空気に耐え切れなくなった僕が声を出すと、そこでようやくおばさんと目が合った。


「……あぁ。ゆうくんごめんなさいね。わざわざ来てくれて」


「いえ、僕は、大丈夫です」


 おばさんはどこか目がうつろで、少しやつれているようにも見えた。


「あの、葵ちゃんは、……体調悪いんですか?」


 戸惑い気味に僕が尋ねると、おばさんは「そうね……」と呟いた。


「ゆうくんなら、もしかしたら葵も話してくれるかもしれないわね」


 そう言うとおばさんはテーブルに手をついてよっこいしょといった感じで腰を上げた。


 僕もつられて立ち上がると、おばさんは黙ってリビングを後にした。


 向かったのは二階だ。階段を上がると左右に三つの扉があり、左手の突き当りの扉が葵の部屋だったはずだ。


 おばさんは葵の部屋の前まで行くと、ふぅと一息ついてから扉をノックした。


「あお――」


「来ないでっていったでしょ!!」


 おばさんの声掛けをさえぎるように、部屋の中から葵の金切り声が響いてきた。


 そのあまりの迫力に、僕は一瞬肩を揺らす。


「違うの、葵。ゆうくんが、来てくれたのよ」


「……ゆうくん?」


 一転して低く戸惑うような呟きが聞こえてくる。


 おばさんは振り返って僕の顔を見ると、少しひきつった笑顔を見せてから僕に扉の前のポジションを開けてくれた。


「……あーちゃん」


 中学に入ってからは、もっぱら苗字で呼んでいたため、かつてのあだ名を言うのに少しだけ詰まってしまった。


「あの、学校の課題とか案内のプリントを持ってきたんだ。……家に入るのは久しぶりだね」


 ぎこちなくそう話す僕に対して、部屋の向こうでは沈黙が続いた。


「あの、……体調大丈夫? 明日から夏休みだからゆっくり休んで――」


「ゆうくん」


 取り繕うように話していた僕の声に被せるように、葵が僕の名前を呼んだ。


「……なに?」


「ちょっと待って。……お母さん。ゆうくんと二人にしてくれない?」


 僕の後ろに控えていたおばさんが頷き、僕に微笑んでから階段を下りていった。


「ゆうくん。そこにいる?」


 おばさんの足音が聞こえなくなってから、葵が声を掛けてきた。


「うん。いるよ」


「……私ね。変な病気になっちゃったの」


 そう話す葵の声はすでに鼻声だった。


「変な、病気?」


「うん。お医者さんには原因不明の皮膚病だって言われた」


「……皮膚病」


 その後少しの間沈黙が続いた。


「……ゆうくん。今から、少しだけ手を出してみるから。気持ち悪かったら、……嫌だったらこのまま帰って」


 葵の言葉に、僕はごくりと唾を飲んだ。

 いったい今から何が起きようとしているのか。


 自分の心臓の音が鼓膜に届くほど強く鳴っている。


 ゆっくりと部屋の扉が開いた。ほのかに女の子の部屋特有の甘い匂いが香ってきた。


 そして、中からすっと差し出された手に僕は言葉を失った。


 それはまるで爬虫類はちゅうるいのようなうろこに覆われていた。細かい鱗ではなくひとつひとつが大きな鱗。例えるなら巨大なリクガメの手だ。


「あーちゃん、これ……」


 僕が声を出すと、手は素早い動きで部屋に戻っていき、再び扉が閉められた。


「……気持ち悪いでしょ?」


 そう言うと、扉の向こうから葵のすすり泣く声が聞こえてきた。


 僕はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、葵の泣き声を聞いているうちに少しずつ冷静さを取り戻していった。


「いや、大丈夫だよ」


 ようやく発した僕の言葉で、葵の泣き声が止んだ。


「……嘘だ」


「いや、本当だよ。……あーちゃん。もしよかったら、開けてくれない?」


 しばらくの沈黙の後、再び部屋の扉が開かれた。


 僕は取っ手を掴み、一息ついてから部屋の中に入っていった。



 葵は力なくベッドに腰かけてた。

 カーテンは閉め切られ、部屋は灰色に感じるほど薄暗かった。


 薄暗い部屋の中で、僕は葵の右手に注目する。


 彼女の二の腕あたりから指先にかけて、固そうな鱗が覆っていた。


「あーちゃん。……どうしたの? その腕」


 僕がゆっくりと話しかけると、葵は左手で自身の硬く豹変した右腕をさすりながら話し始めた。


「初めは、ただの肌荒れだと思ったの。二の腕辺りに角質みたいなのが出来てきたから、お医者さんに行ってみたの」


 伏し目がちに、昔話を読み聞かせるような速度で、彼女は続ける。


「そしたらお医者さんも原因が良く分からないと言ってきて、塗り薬だけ渡されたの。でも、それからどんどん皮膚が硬くなってきて、気付いたら鱗みたいになっていたの」


 いつしか彼女は鼻声になっていた。僕はなにも言わず、彼女の左隣に腰かけた。


「気づいた時には右手がこんなになってて、学校も行けないし、怖くてもう病院にも行ってない」


 そこまで言うと、ついに彼女は嗚咽を漏らしながら大粒の涙を流した。


「ゆうくん。わたし怖いよ。わたし、何か化け物みたいになるのかな? わたし……、わたし……」


 しゃっくりまじりに泣き続ける彼女の姿を見かねた僕は、彼女のがびがびになった手に自分の手を重ねた。


 おおよそ女の子の手とは思えないほどごつごつとしていて、ほんのり冷たいその手は、しかし、僕にとってはとても愛おしいものに思えた。


 葵が驚いて僕の顔を見る。


「……大丈夫だよ。……あーちゃんはあーちゃんだよ」


 言っている僕の目にも涙が浮かんできた。それは悲しいからか、それともつまらない言葉しか吐けない自分の不甲斐なさからか。


 葵はくちびるを噛んで、鱗の手のひらで僕の手をぎゅっと握り返してきた。


 そして僕の肩に頭を乗せてくる。絹糸のようなさらさらの髪がふわりと僕の胸元に落ちてくる。


「ゆうくん。ありがとう」




 それから夏休みに入ったということもあり、僕は毎日あーちゃんの家に通い詰めた。


 あーちゃんの症状は日に日に悪くなっている。


 初めは右腕全体を覆っていた鱗が、徐々に太ももや首筋にまで侵食していた。


 僕は何度も病院へ行くように促したが、彼女はその都度首を振った。


 いわく、謎の研究所に送られるのが嫌だとかなんとか。


 そんなマンガみたいな研究所なんてあるわけないよと僕は笑ったけど、今のあーちゃんの姿を見ていると、あながち冗談とも言い切れないなとも思った。


「じゃあ、僕が治るようにお祈りしてあげるよ」


 そんなことを言って僕は彼女の鱗の手を握りしめて目を閉じる。


 初めは照れくさそうな、くすぐったそうな表情を見せていた彼女だったが、最近は僕が帰る頃になると自分からおねだりをしてくるようになった。「ねぇ、今日もお祈りして」と。



 ある日の帰り際、おばさんが僕を呼び止めて何かを手渡してきた。


 見てみるとそれは家の鍵のようだった。


「ゆうくんありがとうね。……葵のこと、お願いね」


 目を真っ赤にして言うおばさんに対し、僕は黙って頷いた。




 夏休みに入って二週間ほど経った頃。


 僕が部屋に入るのを珍しくあーちゃんが嫌がった。


「なんで? あーちゃんどうしたの?」と外から声を掛けても「うぅぅ」とくぐもった声しか返ってこない。


 しばらく途方に暮れていると、スマホが震えた。


 そこにはあーちゃんからメッセージが届いていた。


『わたし、やっぱり化け物になっちゃった』


 そんな言葉がつづられていた。


「あーちゃん、どうしたの? 何があったの?」


 心配になった僕は軽くドアをノックしながら中にいるであろう彼女に声を掛ける。

 しかし、ドアは固く閉じられたまま反応はない。


「ねぇ、あーちゃん。僕は何があっても君の味方だよ? お願いだからここを開けてよ」


 必死になって懇願していると、ようやくカチャリと鍵の開く音がした。


 僕はあーちゃんを刺激しないようゆっくりと中に入っていく。


 そしていつもより暗く感じる部屋のベッドに腰かけている彼女を見て、僕はあっと息を飲んだ。


 彼女の顔半分が、鱗に侵食されて醜く歪んでいた。


 唇の右側はくちばしのように尖っていて、おでこの辺りは角でも生えてきそうなほど膨らんでいた。


 それは出来の悪い合成写真のようにも見えた。


 僕の姿を確認すると、彼女はわっと泣き出した。


 舌にも影響が出てきているのだろうか、「アォアォ」と聞こえるそれはまるでオットセイのような泣き声だった。


「あーちゃん……」


「ひうくん。はたし、こんなんなっちゃって、ふぉうらめかもひれない」


 まだいたいけな少女の面影が残る左側と、サイやゾウのようにも見える、硬い皮膚に覆われた右側の両方の目から、止めどなく涙を流している。


 その痛ましい姿を見て、僕の目からも涙が溢れてきた。


 僕は思わず彼女に駆け寄り、その身体を抱きしめた。


 柔らかさを感じる僕の右腕と、硬さを感じる左腕。その両方をいっぺんに味わうかのように、強く強く彼女の身体を抱きしめた。


 言葉を発することなく感情を伝えるがごとく、いつまでも強く抱きしめた。



 そうしてどれほど抱き合っていただろうか。


 ようやく落ち着いた様子の彼女が顔を上げたので、僕もゆっくりと腕をほどく。


「ひうくん――」


 と何かを言いかけてから、あーちゃんは枕元に置いていたスマホを手に取った。


 利き腕ではないほうの左手で、ぎこちなく何かを入力していく。


 そして僕のスマホがバイブしたので見てみると『ゆうくんありがとう』というメッセージが届いていた。


 あーちゃんの顔をみると、左側の人間のほうがぎこちなく笑顔を作っていた。


「いいんだよ」


 僕も彼女に微笑み返す。


 そして、静かに話し出した。


「あーちゃんはね、覚えてないかもしれないけど――」



 ――小学生の時さ、いつも一緒に帰ってたでしょ。いつだったか、クラスメイトのやつらにそれをからかわれたことがあってさ。「やーい、カップルだ。いやらしい」なんて言われて。僕は悔しくて悔しくて、泣いちゃいそうだったんだけど、あの時あーちゃんは「ほっときなよ。私は好きでゆうくんと一緒に帰ってるんだからさ」って真っすぐ前を向いて言ってくれたんだ。何気ない一言だったんだけど、僕はそれがすごく嬉しくてさ。その時に。……うん。僕はその時にはっきりと自覚したんだ。この子のことが好きだって。


「……あーちゃん。好きだよ」


 僕の言葉を聞いて、あーちゃんがまた顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。


「あ、あたひも、……あたひもすひ」


 自由の利かない口を必死に動かして、彼女がそう言ってくれた。


 僕はもう一度彼女を抱き寄せ、きつくきつく抱きしめた。




 それからも日を追うごとに鱗の侵食は進んで行った。


 半分だった顔の侵食は、すでに八割ほどに及んでいる。


 そこまで来て、僕はようやく彼女の顔が何かに似てきていることに気が付いた。


 ――恐竜の、トリケラトプスだ。


 彼女の額からは幅広いトサカのようなものが生えている。唇はくちばしのように尖り、硬質化してる。右手の指は太くまとまり、まるでゾウの前足のようだ。身体全体も太く、大きくなっている。


 彼女は信じられないことにトリケラトプスになろうとしているのだ。



 もはや言葉を発することが難しくなった彼女は、残ったわずかな人間の部分、左手の指を使ってスマホを操作する。


『毎日暑いね』


 そんななんでもないようなメッセージを送ってくる。


「そうだね。でももうすぐ夏休みも終わっちゃうなぁ」


 僕もなんでもないように返事をする。


「あ、そうだ。あーちゃん、もし身体が治ったらさ、どこか行きたいところある?」


 僕が微笑みかけると、彼女は小さくなったつぶらな瞳を少し空中で泳がせてから、スマホを操作する。


『海、行きたいな』


「海! いいね! 行こうよ!」


 僕が満面の笑みを浮かべると、またしばらくスマホを操作する。


『あー、いま私の水着姿を想像したでしょ? エッチなんだから』


「そ、そんなことないよ! そんなこと……」


 動揺しながら否定していると、いつの間にか涙が溢れてきた。彼女の身体も震えている。


「約束だよ。……早く身体を治して、……一緒に海に行こうね」


 そう言って僕よりも大きくなった彼女の身体を抱きしめた。抱きしめて、その硬くなった皮膚に顔をくっつけて、泣いた。




 そして夏休みの終わりがあと三日に迫った日の明け方のことだった。


 「ドン!」という強烈な音と共に、地面が激しく揺れ動いた。


「え!? なに、地震!?」


 驚いて飛び起きた僕が二階の窓のカーテンを開けると、同じように驚いた近隣住民が辺りの様子を伺っているのが目に入ってきた。


「いや、――地震じゃない」


 僕にはなぜか確信めいたものがあった。


 寝巻に使っているTシャツと短パンの姿のまま、スマホをポケットにつっこんで家を飛び出した。


 そのままあーちゃんの家に到着すると、合鍵を使って玄関の扉を開けた。


「っ!!」


 僕の予想通り、あーちゃんの家は二階の床が崩れ落ち、リビングがぐちゃぐちゃになっていた。


 その中心に、巨大な影が横たわっている。


「あーちゃん!」


 思わず駆け寄ると、ゾウほどの大きさになったあーちゃんはそのつぶらな瞳を僕に向けてくる。


「……どうして、どうしてこんな」


 背後から聞こえた声に振り向くと、そこにはあーちゃんのおじさんとおばさんの姿があった。


 二人とも呆然と立ち尽くしている。


「なんでよ。……私が悪いって言うの? 私が……」


 おばさんが顔を手で覆いながらひざから崩れ落ちる。


 おじさんはあーちゃんのほうに歩み寄り、その拳を振り上げた。


「お前のせいで! お前のせいでウチはめちゃくちゃだっ!」


 きつく握った拳をあーちゃんの分厚くなった背中に何度も何度も打ち付ける。おじさんの顔は苦悶の表情に歪んでいた。


「やめて! やめてください! おじさん!」


 僕は必死になって止めようとするが、反対に押し倒され転んでしまう。――その時だ。


 ――ブモォォォォ!


 大きな咆哮ほうこうが鳴り響いたかと思うと、恐竜になったあーちゃんが立ち上がった。


 おじさんは驚いて腰を抜かす。


 僕はすぐさま立ち上がり、あーちゃんに駆け寄った。


「大丈夫! 大丈夫だから!」


 僕の身長ほどもあるあーちゃんの顔に抱き着き、落ち着かせるように声を掛ける。


 ――ブモォォォォ!


 あーちゃんはもう一度いなないたかと思うと、壁をぶち抜いて家の外に飛び出した。


「あーちゃん!」


 僕は思わずあーちゃんを追いかけ、角に手をかけてよじ登った。


 あーちゃんの背中に立って見下ろす景色は、いつもの街並みと違って見えた。


「あーちゃん、どこいくの?」


 僕が問いかけるが、反応はない。


 あーちゃんは巨大な身体を揺らしながら、住宅街を闊歩かっぽする。


 夏の夜明けは早かった。


 徐々に辺りが明るくなっていく。


 あーちゃんの足音に気付いた住民たちが外の様子を確認して腰を抜かす。


 僕はそんな住民たちに向かって、にへらとひきつった笑顔を向け頭を下げた。


 あーちゃんは歩みを止めることなく、真っすぐどこかへ向かっていく。


 このまま南へ進んで行くとぶつかるのは――――海だ。


「そうか。あーちゃん、海に向かってるんだね」


 彼女の目的地が分かった僕は、思わず吹き出してしまった。


「うん。行こう。約束通り、海に」


 その時、ポケットに入れていたスマホがブブブと震えた。


 こんな時間に誰だろうと画面を確認すると、そこには【あーちゃん】という文字が表示されていた。


「……あーちゃん?」


 僕の足元のあーちゃんは、もちろんスマホを操作してる様子はない。


 そもそもトリケラトプスになった彼女に、スマホが操作出来るはずもない。


 首を傾げながら画面をタップした僕は、送られてきたメッセージを確認する。




『ゆうくんへ。たぶん私はもうすぐ完全に恐竜になってしまうと思います。恐竜になってしまいますなんて言葉、人生で使うとは思わなかったけど。笑。

 右腕に鱗が現れてから、毎日まいにち不安で仕方なかったけど、ゆうくんが来てくれてから私の不安は和らぎました。いつも支えてくれてありがとう。

 でも、もうダメだよ。私は人間じゃなくなってしまいます。恐竜になって、謎の研究所に送られて、色んな実験をされるんだろうな。でも、もうそれでいいの。

 お父さんとお母さんにも迷惑かけて。私どうしたら良かったのかな。でもね。最後に言っておきたいことがあるの。ゆうくん。

 私はゆうくんのことが大好きです。いままでありがとう。さようなら。』



 メッセージを読んでいるうちに、僕はぼろぼろと大粒の涙を流していた。

 鼻水も垂れ、呼吸もうまく出来ないくらい。


 でも、すべてを読み終えてからずびびと鼻水を吸い込み、足元のあーちゃんに声を掛けた。


「なーにが『さようなら』だよ、あーちゃん。こうやって今も一緒にいるのに」


 頭のトサカにしがみつき、あーちゃんの顔を覗き込む。


「いつの間にこんなメッセージ予約してたの? 馬鹿だなぁ」


 僕が笑いかけると、あーちゃんは恥ずかしそうに「ブォォ」と鳴いた。


「あのね、あーちゃん。なんだか不思議なんだけどさ。僕の心は穏やかなんだよ。確かに初めは少し驚いたけどさ。でも、不思議と気持ちは変わらないんだ」


 遠くからパトカーや救急車のサイレンの音が聞こえてくる。


「ある日さ。好きな子がある日、トリケラトプスになったとしてもさ。不思議と僕の気持ちは変わらなかったんだ。……あーちゃん、今でも僕は君のことが大好きだよ」


 微かに、潮の匂いが漂ってきた気がした。


 サイレンの音はどんどんと近づいて来ている。


「ねぇ、あーちゃん。海、近くなってきたかなぁ?」




 僕はゆっくりと目を閉じて、



 微かに漂う潮の匂いを、肺いっぱいに吸い込んだ。






【ある日、トリケラ――完】

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