現場からは以上です

真名瀬こゆ

通学路の悪魔

 サナは朝食をテーブルに並べ終えて、母親の向かいの席に座った。いつもならテレビの電源をつけ、朝のニュースを確認するところだが、ここ数日、その習慣はこの家から忘れ去られていた。

 とある誘拐事件。

 最近、世間はずっとその話題で持ちきりで、彼女はそれを見たくないのだ。


「いただきます。ほら、お母さんも食べて、食べて」


 三日前、ヲガワヒロヲ容疑者が誘拐の容疑で逮捕された。

 誘拐当時、十六歳だった少女はすでに死んでいる。

 動機は身勝手極まりなく、容疑者に反省も見られない。醜悪な事件だと世間はこぞってヒロヲ容疑者をこき下ろした。


「また家の前にたくさんいるのかなあ。やだなあ」


 サナは自身の不満の発端になっている誘拐事件については一切の情報を入れていない。

 理由は一つ、彼が逮捕されたのがこの家の近所だったのだ。逮捕の日からテレビ局やら雑誌記者やら、マスコミと呼ばれる職業の人間がこぞってこの一帯に足繁く通っていていた。ここいらの家はすべてインタビューという名を借りた無秩序の突撃の餌食になっていた。

 この家も例外でない。

 だから、サナはニュースを見る気にならないのだ。聞いてもいないのに勝手に耳に入ってくる。彼女は一刻も早くこの事件が沈静化するのを待ち望んでいた。


「……終わった事件じゃなくて、今、起こってる誘拐事件を取り上げてくれればいいのにね」


 一向に朝ごはんに手を付けない母親を見て、サナは同じように顔を伏せる。悲しみで体がはちきれそうだった。

 この家はたった今、不幸の渦中にある。


「お父さんは死んじゃったりしないよね?」


 この家の父親がいなくなってしまったのだ。

 家出ならまだよかった。いなくなった理由は連れ去り。残酷なことに、サナも母親も父親が連れ去られるところを目撃していて、楽観的な現実逃避も許されない。


 サナは後悔していた。目を閉じると、連れ去られる父親の背中が鮮明に思い出せる。あの時、名前を呼ばれていたのにサナは恐怖で動けなかった。

 当然、警察にも相談している。しかし、一向に捜査は進展せず、連絡が来ても父親の無事を報せるものではなく、サナと母親の健康を気にするものだった。

 塞ぎ込んでしまっている母親にサナはぐすんと鼻を鳴らした。


「変なこと言ってごめんね! 悪い想像なんてしちゃ駄目だよね!」


 どうにか明るく振る舞おうとするサナの努力は、痛々しく空回りしている。ぽろり、彼女の瞳から涙がこぼれた。



 父親がいなくなってしまってから、サナの生活は一変していた。


 一番苦痛なのが通学路である。

 玄関を開けると、記者の群れが玄関に押し寄せていた。この家だけではなく、近所の家も同じように人だかりができているが、この時間はサナの家が一番酷い。中学生である彼女が必ずこの時間に出発するからだ。


 まるで餌に群がる蟻。しかし、彼らの巣はすべて別だ。生存競争。我先に蜜を吸い、自分の巣にいる女王蟻の元へと持ち帰ろうとする。生きるためとはいえ、どうにもあさましい光景である。

 この場で食い物にされているのは、一人の少女なのだから。


 マスコミのそれぞれが好き勝手を叫ぶ声は、重なって意味の分からない奇妙な音になっていた。それを裂いて「警察です! 通してください!」と声が上がる。


「彼女の日常生活を脅かすようなことは止めてください!」


 まるで神の啓示だ。過熱していた民衆たちがすっと理性を取り戻していく。

 声の主は精悍な男性だった。警察官。いかにも正義の味方と言った相貌のがたいの良い男。

 男はサナの傍に寄ると「行きましょう」と背を押した。


「一人で行けます」


 サナは男の手を振り払い、きっと睨み付けると警察官の開けた道をずかずかと進んでいく。

 少女がそう主張したところで、警察官も引き下がるわけにもいかない。つかず離れずでサナの後ろを追う。制服の力は偉大で、蟻たちが餌に群がることはなかった。しかし、だらだらと垂れるよだれはそのままであり、貪欲ではしたない。


 ひそひそと囁く声の中、サナはぎりりと歯を食いしばった。

 少女は家を出た行きと帰り、この瞬間が怖くて怖くて仕方がないのだ。

 狂乱のマスコミを黙らせ、モーゼのように道を開けさせる。制服の力は本当に偉大だった。

 制服を着てしまえば、犯罪者だって太陽の下を大手を振って歩ける。その制服がお堅い職業を特定するものであれば、なおのこと見抜くのは容易ではない。


「無理して学校に行くことはないと思いますよ」

「そ、そんなの、私の勝手です」

「ですが、外に出て何かあったら……」


 警察官はぽんとサナの肩に手を置く。びくりと少女は大きく肩を跳ねさせた。怯えだ。警戒するサナに警察官は困ったように眉を寄せて「貴方が心配なんです」と肩から背中へと大きな手を這わせた。

 サナは必死に泣くことを我慢した。自分のものではない体温が気持ち悪い。


「お母さんの具合はどうですか?」

「関係ないじゃないですか」


 少女の心を恐怖が支配する。

 するすると腰まで下がってきた手に嫌悪で鳥肌が立った。悪寒に身体を震わせるとようやく男の手が離れていく。


「お父さんを、返してよ……」

「それはできません。お父さんに会いたいなら、貴方が僕と来てください」


 男は爽やかに白い歯を見せて笑った。

 サナの通学中の安全を守るこの制服を着た男こそが、サナの父親を連れ去った犯人である。



 サナが噂の的になるのは学校でも同じことだった。


「あの事件のことで警察官に送り迎えされてるんだって」

「帰りの時、校門にいるの見たよ。ちょっとカッコよかった」

「お姫様気分だったりして」

「ね、サナちゃん、なんかくさくない?」

「悲劇のヒロインぶってるの気に食わないからってひどーい」

「警官のお兄さん、名前聞いたら教えてくれるかな?」


 学校の敷地のギリギリまでを送迎する警察官はどうしたって目立つ。送迎されている理由が、巷で大炎上している誘拐事件でマスコミに巻き込まれるのを防ぐためという事もあって、あることないことがサナの名前とともに噂にされていた。


 しかし、そんなかしましいこともサナの耳には届かない。

 学校にいる間もサナの心にはずっと不安と恐怖が巣食っていた。


 父を誘拐した犯人は警察官だ。世間にそう訴えたところで、少女の妄言として取られてしまうに決まっている。

 事実、彼女が事件の直後にマスコミへそう言ったら、返ってきたのは嘘つきとなじる罵倒だった。


 サナが父親を返して欲しいと願うと、決まって男はサナを保護したいと返した。その保護がどんな意味なのかサナには分からない。ただ、良くない想像だけは大きく膨らんでいた。

 男に従ったとして、本当に父親は帰ってくるのか。母親を一人にしてしまうのではないか。自分はどうなってしまうのか。

 怖くて仕方がない。


 そんな彼女の不安をよそに、下校のチャイムが鳴り響く。


 地獄の時間が始まる。

 校門を出て後ろを振り返れば、朝に見た顔があった。もはや、声をかけられなくても気配で分かる。

 男の存在の不気味さにサナの顔が歪んだ。通学路を歩く間、この男は絶対に傍を離れない。それをサナは体験して知っていた。


「おかえり、サナちゃん」



 夜。夕食を食べながら、サナはとうとう決心をした。

 警察に通報しても意味はない。それならば、この状況を打破するために何ができるか。サナが出した答えはライブ配信だった。

 ネットで世界に現状を発信すれば、何か情報を持っている人が連絡をしてきてくれるかもしれない。力を持たない少女の叫びを誰かが見つけてくれるかもしれない。

 警察が頼れないと最初から分かっていたサナは、父が連れ去られた日から準備をしていた。今日が決行の日だ。


「お母さん! 私がお父さんを取り戻してみせるから!」


 ぐっと拳を握り、声高らかに宣言する。

 突然の娘の大声に驚いたのか、母親はぽっかりと口を開けて何かを落とした。白いご飯粒のようだ。


「もー、お母さんってば、子供みたい」


 サナは落ちていたご飯粒をつまんで拾う。白い小さなゴミはうぞぞと折れ曲がった。


「ひぎゃ!」


 蛆虫。サナの指にぺたりと張り付いたままのそれは、眠りから起こされたようにもぞもぞと身をよじった。

 サナが必死に手を振り払って、ようやくと蛆虫は食卓の上に落ちていった。配膳した白米の上。こんなものを見た後では、食欲もなくなってしまう。


「ごめんね、お母さん。私はもうごちそうさまにする」


 すっかり気落ちしてしまったサナはとぼとぼと自室へ向かった。



 結果としてサナの秘策は大失敗に終わってしまっ

た。


 夜九時を過ぎた頃、サナは制服姿のままスマホに向かい合い、勇気を振り絞って配信を開始した。

 中学生の少女が深刻な様子で父親が誘拐された話をし始める。

 最初は片手で足りるだけだった閲覧者も、数分後には万を越えていた。サナはそれを喜んだ。これだけの人に見てもらえているなら、何かが変わるかもしれない。


 しかし、顔の見えない画面の向こう側の者たちはサナのことを憐れみも慰めもしてくれなかった。

 放送と同時進行でされるチャットは、事件の話とともにサナ自身の話題で溢れかえった。

 制服から学校が特定され、名乗ってもいない名前が飛び出す。挙げ句、あの家の子だと住所、電話番号と次々に個人情報が晒し上げられた。


 放送ができたのはたったの十二分。

 画面にはエラーと表示され、それらしい理由とともに『この配信は停止されました』の文字が並んでいた。


 少女の反撃はあっという間に潰されてしまった。

 そして、それは悪夢の始まる合図でもあった。



 夜中だというのに玄関チャイムの音が鳴り響く。一度は解散したはずのマスコミたちが舞い戻ってきており、がやがやと喧騒を作り上げていた。

 サナを蔑む怒声が聞こえる。

 ついには「警察です! 開けてください!」と力任せに玄関の扉を叩く音。


「お、お母さん! どうしよう!」


 電気もつけず、真っ暗のリビングでサナは母親にすがった。肌がどろりと濡れていて、サナの手を汚す。ぎゅうと抱きしめれば、異臭に包まれた。ぶん、と虫が耳元の近くを飛び過ぎる。


「うっ……、うう……」


 サナは怖かった。

 心臓が締め付けられ、体が竦み身動きが取れない。それでも、がたがたと震えるのは止められない。自分の体なのに自由が効かない。


 サナは嘆いた。

 自分がどんな悪行をしたというのか。いなくなってしまった父親を想うことは罪なのか。



 サナはっと目を覚ました。

 泣き疲れて寝てしまっていたらしい。朝陽が部屋を明るく照らしている。しかし、心までは光が届かない。


 家の外にある大勢の人の気配がひしひしと感じられ、サナは昨日の夜に起こったことを思い出した。


 家を出れば、魔物がいる。

 滑稽な少女に群がる蟻。警察官という絶対正義の皮をかぶった悪魔。

 家から学校をつなぐ道。サナにとってそこは戦場だ。

 やらなければ、やられてしまう。

 自然と足はキッチンに向いていた。


「いってきます」


 サナはいつも通りの時間に家を出た。

 無数の目と数多のフラッシュが彼女の姿を捕らえる。口々に怒鳴る声は轟々とする地鳴りのようだ。

 サナは一歩、踏み出す。

 少女は震える自分の指先を叱咤する。背中に隠した手には悪魔を殺すためのとっておきがある。


「おはようございます」


 あの警察官だ。

 さも善人ですよと言わんばかりに歯を見せて笑う笑顔、少女の背中を無遠慮に撫でる大きな手。

 どんな仕草もがサナの心を追い詰める。


「お父さんを返してよ!!」


 サナは憎き制服に包丁を突き立てた。悪魔を殺して、父親を取り戻さなければ。


 これは聖戦である。


 一瞬の沈黙の後、阿鼻叫喚。

 蟻たちは餌だと思っていたものが脅威と気づいて逃げまどう。

 じわじわと血溜まりは悪魔から広がっていく。ついにはサナの足元にまでそれがたどり着き、彼女のつま先を濡らす。靴を履いていなかった。

 指先に触れた生暖かい液体にサナはふっと我に返った。


 サナの目の前には警察官の死体、振り返れば、サイレンを鳴らすパトカー、そして――。


「ヲガワサナさん。殺人の現行犯で逮捕します」



「今朝、十四歳の少女が殺人の容疑で逮捕されました。先日、誘拐の容疑で逮捕されたヲガワヒロヲ容疑者の娘と見られており、動機は分かっていません。しかし、昨夜には父親が逮捕されたことを誘拐されたと嘘の証言をするライブ配信をするなど、精神錯乱の状態だったのではないかとされています。また、ヲガワ家のダイニングで女性の腐敗死体を発見したという情報も入っています。こちらは死後数日経っていて自殺のようです。この女性の身元ですが、ヒロヲ容疑者の妻であると同時に、十五年前にヒロヲ容疑者に攫われた被害者ではないかと疑惑の声が上がっています。現場からは以上です」




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