前見て走れ、おれが憑いてる
煙 亜月
前見て走れ、おれが憑いてる
バス停まで自転車を走らせる。後ろからホーンが聞こえた。父はクラブマンでわたしを追い越す際に、左こぶしを突き出す。それに合わせ、わたしも右こぶしを突き出す。一・五メートルでのグータッチ。わたしの朝はこれで始まる。父の二五〇cc単気筒も整備され、とてもいい音だった。
山の中腹にある自宅からバス停までは遠い。バス停といっても、朽ちかけの標識と壊れかけのベンチだけだ。やる気があるのか疑問だが、利用人数からして苦情も出ないだろう。日常化した危機感は今日、的中した。
「バス停廃止のお知らせ?」読み違いか。だが、今月末でこのバス停が廃止されるとしか読めなかった。しかも、ラミネートのチラシの下部には続きがあった。「――経営難に伴い三月末にて一時廃線、現在、運行業務引継ぎ先を検討中」
だが、この距離、この勾配では自転車通学はありえない。母さんに送り迎え頼む? これもありえない。
「はん」
荒々しく鼻息を吹く。
「は?」
学校、部活、ミスドの食べ歩きから帰ったわたしは、バス停廃止と廃線のことを母に話した。
「嘘」
「いや、ほんとほんと。これ、バスから取ったチラシ」
母は盛大にため息をつき、「それで、学校はなんていってるの?」と訊いた。
「なんも。バス会社ごと倒産だから。この路線だけじゃなくて他の子もそうなの。ここまでくると学校もお手上げっていうかなんていうか」わたしは食卓に着き、母と対面して話した。「倒産後の引継ぎ先まだ決まってないみたいだし」
母娘で頭を抱えて押し黙る。
「ねえ母さん。わたし、通信制高校とか受験しようか?」
「僻地でもないのに?」
父が風呂から上がってくる。
「わかった。ここで父さんは『話は聞かせてもらったぞ』というんだよな?」
母娘で食卓に突っ伏する。
「でも、それ以外ないだろ、選択肢は」
わたしは「それ」がなにを指すのかを理解していた。だって、父さんの娘だもん。表情を悟られないよう俯いたまま「かもね」と答える。
土曜日。
「曜子、起きろ。朝だぞ」
「眠いよ、来週にしようよ」
「いい天気だ。ほら、行くぞ」
父のクラブマンの後ろに乗り、免許センターまでを走る。わたしの悪運は強い。二択問題などお手の物だ。
「父さん」
「ほう、いい顔してんな」
「早くお店行こうよ」
父はヘルメットをかぶりながら「その前に行くところがある」と、セルを回した。
クラブマンを駐輪場に停めた父は、財布の中身を確認した。「父さん」
「うむ」
「うむ、って。なんで神社なのよ」「交通安全祈願だ」「いや、そりゃ分かるけど」
手水場で手を清める。「父さん!」一万円札を賽銭箱に投じようとした父の手を掴む。「神前だぞ」と父は涼しい顔だ。「あ――」
ぱん、ぱん。呑気な拍手が境内に鳴る。
万札を賽銭箱に入れるひとを初めて見た。そのショックのまま、お守りを買わされてクラブマンに乗る。家に着くと見慣れぬ車輛があった。小さな緑のミッション車だ。お客さん? でも、母の客がバイクで来るのだろうか。母はバイク、嫌いなのに。
「曜子」「はい」
「あれ、曜子の」「――はい?」
その車輛――ヤマハYB-1Fourを父は指し示す。「ディオとかじゃないの?」
「うむ。スクーターは簡単すぎて危ない。スピードへの恐怖がなくなる。初心者はあえて難しいミッション車から始めてもいい。学校が終わったらそこの空地で練習しよう。自賠責は高校卒業まで。何か質問は?」用意していたかのような台詞をにこにこと話す。
「お母さん、怒ってる?」
父はぽりぽりと頭をかき、「もしなにかあれば、父さんを殺して自分も死ぬ、っていってたな、うん。でも、それは父さんも同じだ。バイクに乗るのを勧めるってのは、まあ、そういうことだ」
わたしはお礼を伝えようとしたが、下を向いたまま泣くのをこらえるのでいっぱいだった。「そんな、死ぬことないじゃない。事故らない、わたし絶対事故らないから。だからそんな簡単に死ぬとかいわないでよ」
次の日は日曜だったので一日中、平日は毎晩練習を重ねた。
「もう公道に出てもいいだろう」
父の許しが出て、職員室でもらった通学車輛のシールをようやくYB-1に貼れた。これで明日からバイク通学だ。確かにたしかにスピードこそ出せないが、初めて味わう爽快感だった。
前線の停滞するその日、雨宿りのためコンビニの店内でひとりでおやつを食べていた。
「やば」時計を見て焦る。
ブルボンルマンドを口一杯に頬張って、YB-1に戻る。あたりは暗く、路面も悪い。もし動物でも轢いたらアウトだ。衝撃は四輪の比ではない。文字通りわたしは吹っ飛ぶだろう。急がないと。
「虹だ」
ミラーに虹が映っていた。しかも二本。一瞬だけ振り向いて後ろを見る。「うわあ、きれい」すぐさま視線を前方へ戻す。なにかが横切り、その場で止まる。目がヘッドライトを受けて光る。
倒れたわたしをのぞき込むように見ている。
「おいっ、馬鹿か! 前見て走れ! 死ぬかと思ったぞ」わたしはその猫が立ち上がり、手――前足でお腹の砂埃を払うのを見た。YB、わたしのYB。
「バイクならそこ、路側帯にどかしたぜ。一見して壊れちゃねえが、どうだか」わたしは額に手を当てる。やばい。たぶんここ、天国だ。あれだけ派手にコケたのに制服も、その下のジャージも破れていないし、どこにも怪我をしている気配がないのだ。
自分はバイクで死んだ。ようやくその事実へ考えが到達すると「父さんと母さんは!」とその猫へ詰め寄った。「し、知らねえよ」
そうだ。時間もさほど経っていない。まだ帰りの道中だと思っているはず。振り向くと虹も見える。わたしはその場にへたり込む。最後にひと言、ありがとう、ごめんねっていいたかったな――涙がぽとり、スカートに落ちる。「お、おい馬鹿。そんなところにいたらほんとに轢かれるぞ!」猫にいわれて路側帯へ移動する。
「早く帰って、風呂入って飯でも食え、馬鹿人間が」猫が吐き捨てるようにいう。「あーあ、痛かったなあ、まったく」
「あ、あの」「あん?」
わたしは言葉を選びつつ、「ごめんなさい、危うく轢き殺すところでした。ほんとうに、その、すみませんでした」と頭を下げる。猫はにかっ、と歯を見せて「気にすんな」といった。「で? それ、走れるのか?」
YB-1を引き起こす。キーをオンにする。ブレーキランプも点くし、ガソリンやオイルの漏れもない。ブレーキも利く。跨がって上から見てフロントフォークもタイヤもまっすぐだ。ホイールの振れはここでは判断しようがない。外装にも不思議と打痕などはない。
「あの藪がいいクッションになったようだぜ。早く帰れよ」
キックペダルを踏んでエンジンを始動させる。
でも――変だ。自分はかなりのスピードで猫を轢いて、そのまま転倒して、猫と会話して、自分もYBも無傷で、帰り道を急いでいて、
「う、恨めしや――」
急制動をかける。「ば、馬鹿! タイヤがロックするぞ! 死にてえのか! いや――まあ、冗談だ、さっきの猫だよ。実は死んでんだが、まあ、成仏する前に余興をと思ってな。まずは口裏合わせを――」
とっぷりと日が暮れて家に着くと、父も帰っており、玄関先で両親にこっぴどく叱られた。
「ご、ごめん、その――」
「申し訳ありません、悪いのは僕です。ちょっと漱石の話で盛り上がってしまって、遅くなったのでお送りしようと走って来ました。あと、曜子さんにぜひ借りたい本があり、それを受け取ったら僕はすぐに帰ります」
「あ? ああ、その、君は?」父が尋ねる。「隣のクラスの吉木といいます。英訳の『吾輩は猫である』を探していたのですが、近所に無くて。お宅まで押し掛けたこと、重ねてお詫びします」といい、吉木は頭を下げた。
わたしは吉木が父や母の相手をしてくれている間に本を取ってくる。「吉木、あったよ。これね?」「ああ、ありがとう。では、お騒がせしました」
「うん、よ――吉木君も気をつけて」
吉木はすでにいなくなっており、三人で口を開けて立ち尽くした。「ねえ、曜子。あれ、誰?」「え? よ、吉木だよ、総書記、生徒会の」「そ、そう」
翌朝。
「ほらほら、早くしないと遅刻するだろ。スピード出せよ」
「うるさいわね。これは三〇キロまでしか出せないのよ」
「嘘つけ。きのう五〇以上出して罪もないおれを轢いたくせに」
その猫――人間になるときは吉木――は事故以降、わたしに憑くようになった。
「あんた、ゆうべの小芝居やらバイクの知識やら、挙句化け猫なのに漱石読むの? 英訳で?」
「おれ、漱石の野郎と同い年だからな。誕生日まで同じなんだぞ。二月九日。覚えとけ」
「はいはい、得意げに――じゃあ学校着くから、黙ってて」
「――この教会大分裂による西方教会の分立状態が続き、その後三教皇鼎立状態に入りますが、この辺りは非常にややこしいです。で、これを解消しようと一四〇九年に開かれたのが」
「(ピサ教会会議だ、早くいえよ、曜子)」
「(うるさいわね)ピサ教会会議、です」
「その通り。ではそのまま答えてもらいましょうか、一四一五年から始まる――」
「コンスタンツ公会議。これは政治的圧力に煽られたのち、一四一八年、マルティヌス五世を選任して終わります。なお、『鼎立』とは三つの勢力が対立するという意味で、日常ではほとんど使わないですが、中国の三国時代において、より限定的な定義として用いることがあります」
教師が出席簿に目を落としながらいう。
「ああ、あなた。あなたたしか、中間で赤点すれすれだったわよね。それで――なにがあったの?」
「まあ、その、あれですよ、あれ」生返事をする。
「あんた、やめてよ。口寄せみたいなことするの。化け猫ってみんなそうなの?」
小声でもぼそぼそ口を動かしていたら完全に変人だ。まずい。
「そんな上等なもんじゃねえよ。一介の憑物だ。おまえの足りない頭を補う程度ならできるけどな」
「へっ。漱石と同い年っていうけど、今までなにやってたの? 暇じゃない? 一五〇年もどこほっつき歩いてたの?」
「さあ。気づいたら化け猫だった。人間の恰好したり、勉強したり、壊れた物直したり、一通り遊んでからは山に籠ってた」
「それで、ええと、あんたいつもどこにいるの? まさか脳の中?」早くも日が陰り始めた駐輪場でYB-1にキーを挿す。「ああ、寒い」
「あ、待て。この気温でこの車輛ならまだチョーク引かなくていい」
「なによ、もう。なんで化け猫がバイクおたくなのよ」
「だって、楽しいんだもん」
子どもじみた口調に思わず笑ってしまう。「もう最悪。あんたといたら退屈しないわ」
しばらく走っていたら静かになった。大方、寝ているのか、よそへ出かけているのだろう。元を糺せば猫なのだから。
「母さん。吉木、来てないよね」家の玄関から問いかける。
「吉木君。曜子、帰ってきたわよ」平気で宿主の家に人間の姿で上がり込む憑物なんて、聞いたことがない。
「あ、曜子さん。ここの数列なんだけど――」
――げっ。わたしは卒倒しそうになる。底辺女子高生にほろぼろの赤チャートを見せつける神経、ホラーだわ。
「吉木、わざわざ家に来なくても、あした学校で――」
「曜子、今日は吉木君とこでご不幸があって、忌引きしてたそうなんだ。知らなかったのか? せっかくだから、教えてもらいなさい」
「あ、いえ、教えて欲しいのは僕の方で」
「あのね父さん。こう見えてわたし、お年頃なのよ? そんな簡単に家に男子を上がらせるのって」
「ああ、それは心配ないようだ。吉木君には恋人がいるから、安心していい」
なにをどう安心すればいいのだ。「いいんじゃねえの? 大体、化け猫と人間がどうこうなるのか? ほれ、数学しようぜ」
「――最悪」
反論はできない。大嫌いな数学を一対一で教えてくれるのはこの化け猫くらいのものだし、手を出すのもありえないし。
そんな生活も半年続いた。
「吉木ー」
「だから、人前にいるとき以外ではその名前で呼ぶなってば」
「なんでよ」
「なんで、って、おれは化け猫だぞ。人間なんかの名前で呼ばれる筋合いはねえな」
「轢いた晩、自分で吉木って名乗ったくせに」
「それは、その、便宜上のあれだ。こういうとき察するんだろ? 人間って妙なところで気使うんだよな。それより長文読解やろうぜ」
わたしは大きく息をつく。
「はい、先生見て」
「ふむ――軽くボーダーは突破してる。曜子、頑張ったな」
「えへへ、ありがと」あんたのおかげだよ、かわいい化け猫さん。
冬を越え、春になった。
「曜子、吉木君は部屋に通しといたよ」「わたしの?」「もちろん」「オッケー」
わたしは吉木の書く白文を見る。
「まずざっくり天地人の三つに分け――おい。おまえ、顔近い」
「そう?」
「そう? っていいながらより接近するの、何とかならねえの?」
「でも、ちゅーできる距離にはまだ遠いけどね」
「は?」
「嫌なの?」
「化け猫とそれを致す人間なんて、一五〇年間ついぞ見たことがねえ」
「顔、赤いわよ」
「おまえの神経に憤慨してるだけだって。けっ、発情期の人間も厄介だな」
「理由、あんだね」
「はあ?」
「理由もなく取り憑いたり、姿変えたり、しないでしょ、普通。教えてよ」
ため息一つの間を置き、吉木はいった。
「――あのとき、おまえに轢かれておれは実体としての猫の姿を保つことが出来なくなった。まあ、腸が飛び出てんだ。仕方ない。それで」
「それで?」
「おまえも死んだ」
たっぷり黙り込み、見つめ合う。先に吉木が目線を逸らす。わたしはぷっ、と吹き出す。「わたしって幽霊だったの?」からからと笑う。
吉木は頭を抱えた。
「肉体は死に、おれの存在はただの霊体だけになった。神通力でおまえを現世に留まらせるのもやっとの思いだった。それほどまで遺体の損傷が激しかった」
「待って、遺体って」
「だから、おまえはあのとき死んだんだってば!」吉木が語気を強める。
吉木が頭をがしがしとかきむしる。
「おれたちの身体はただの入れ物にすぎん。中身が入ってなきゃすぐ滅んでしまう。おまえの魂魄がなかば彼岸へ渡ってる状態では、入れ物の身体も存続できない。そこで霊体だけとなったおれがおまえに憑依し、おまえの魂魄を此岸に呼び戻した。――おれの神通力は要は修復の能力だ。それをおまえの遺体やバイクに使ってたら、底をついたがな。おれも短時間なら人間の姿になれるが、基本的におまえという器に入ってる、いわば詰め物だ。おれが成仏したら、おまえの体には半分ほどしか霊体がない状態になる。つまり、おまえの完全消滅を意味する」
吉木はため息をつく。
「おれがいま成仏すれば、おれという存在は完全に消える。だから現世にとどまらなきゃならないんだ」
「あんたが成仏する条件って」
吉木は机に突っ伏し、いった。
「おれ、、元は野良だった。嫌われ者のな。餌もくれない、引っかくし噛みつく、気性の荒い野良だった。初めて死んだ時に願った。ひとりでいい、だれかに好かれたい――そののち、長い年月を化け猫としてさまよい、あの日おまえに轢かれた。ああ、やっと死ねる、そう思った。でも違った。おれはいまだに彷徨ってた。おまえの遺体が哀れでならなくてな――助けなくちゃ、と。だから、おれを好きにはならないでくれ。おれがおまえに好かれると、おれは成仏してしまう。おまえの身体も消滅する――いってる意味、わかるな?」
吉木は歯を剥いてわたしの服を脱がしにかかった。怖かったけど、わたしは抵抗もせず、脱がされるがままにした。吉木が大粒の涙を流しているのは、すぐにわかったから。
「――すまない」吉木はそういい、わたしの着衣の乱れを戻した。「バイクはな、バックはできないんだ。だから、前見て走れ、おれが憑いてる」
最後に聞いた、吉木の言葉だった。
「吉木」
わたしは服の乱れを押さえながら窓を開ける。「月が――きれい、だよ」
前見て走れ、おれが憑いてる 煙 亜月 @reunionest
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