一也は干上がったダム湖をじっと見ていた。いつの間にか、一也の目から涙があふれていた。故郷があまりにも変わり果てていたからだ。橋を残して建物が全てなくなっていた。


 そこに、文子がやってきた。文子は一也の後をつけるようにここまでやってきた。


 文子は一也の車の隣に車を停めた。文子は干上がったダム湖を見つめている一也を後ろから見ていた。


 文子は車から出た。車のドアを閉める音に反応して、一也は後ろを向いた。文子だった。一也は来ると思っていなかった。


「文子」

「やっぱりここに来てたのね」


 文子は一也の横に立ち、干上がったダム湖を見ていた。


「うん。どうしてわかったんだ?」

「お父さん、朝のニュースで気にしてたから」


 文子は驚いた。ここにかつて集落があったことが信じられなかった。


「どうしてここに来たの?」

「ここが僕の故郷だったんだ」


 文子はまた驚いた。一也の故郷がどこか聞いたことがなかった。


「えっ、本当なの?」

「うん。ダム湖に沈んで、もうなくなったけど。ダム湖に沈んだのは高校1年の時だったんだ。東京に住んで、仕事をしているうちに、故郷のこと、忘れてた。でも、干上がったダム湖を見て、思い出したんだよ。確かにここが故郷だったんだ」


 一也はちょっと寂しい気持ちになった。故郷が失われたからだ。


「そうなの。初めて知ったわ」

「自然が豊かなところだったんだよ。とても今の姿からは想像しづらいけど」


 文子は東京生まれで、旅行でしか田舎の暮らしを感じたことがなかった。


 2人は橋の前にある石碑を見ていた。そこには、「水鳥川、林沢、ここに眠る」と書かれていた。全住民が移転したときに住んでいた人々が建てた石碑だ。そこには、ここに人の暮らしがあったということをいつまでも忘れないでいてほしい住民の願いがあった。ここに住んだことのある人々はほとんど死んだ。でも、そこの記憶はいつまでも残り続ける。


「この近くに、沈んだ集落の資料などが保存されている資料館があるらしいから、行ってみるかい?」


 一也は文子に聞いた。ここからしばらく下流に行ったところにある道の駅に、水鳥川や林沢の資料等が保存されている。一也は行く途中に雑誌や携帯電話で調べていた。干上がったダム湖を見た後に立ち寄ろうと思っていた。


 文子は携帯電話を見た。もうすぐ正午だった。


「そうね。ちょうど昼時だし、そこで昼食をするついでに行こうよ」

「そうしよう」


 2人はそれぞれの車に乗り込み、干上がったダム湖を後にした。


 ここからしばらく下流に行ったところに、「道の駅鮎の里林沢」がある。この道の駅のある集落は富川とみかわで、当初の予定では、「道の駅富川」になる予定だったが、かつて林沢に住んでいた住民が鮎釣りの名所だった林沢の名前を残してほしいといったため、この名前になったという。ここでは地元の野菜などを使った料理を提供する喫茶店や、露天風呂、ロッジがある。決して客は多くないものの、ドライバーやライダーが休憩所として利用している。資料館へ行く人は少ないが、ダム湖に沈んだ集落に記憶を後世に残すべく活動している。


 しばらく走ると、道の駅鮎の里林沢が見えた。夏休みということもあって、道の駅には多くの人が来ていた。道の駅は水鳥川でよく見られた茅葺き屋根の民家をイメージした和風の外観だが、内装は近代的だった。


「ここだ」


 2人は駐車場に車を停めた。駐車場には多くの車が停められていたが、少し空きがあった。2人は空いていた駐車スペースに車を停めた。


 2人は車を出て、道の駅に入った。レストランには、多くの人が来ていた。


「ここも自然豊かなところね」


 文子は外の空気を大きく吸った。東京では味わえない澄んだ空気に文子は感動した。


「僕の故郷はもっと自然豊かなところだったんだよ」


 2人は道の駅の中に入った。道の駅の内装はまるで茅葺き屋根の民家のようで、地元で採れた木をふんだんに使っていた。


 2人はレストランの前にやってきた。店の前には接客係がいた。


「いらっしゃいませ。2名様ですか?」

「はい」

「どうぞ」


 接客係は席に案内した。その席は窓側の席で、道の駅の向かいにある渓谷がよく見えた。


「こちらでございます」


 2人は窓側の席に座った。一也はテーブルの上のお品書きを見た。この店のメニューは、ここで釣れる鮎や岩魚を使った料理が中心で、多くの人がこれらを注文していた。


「何にしようか。僕は鮎めし定食を頼むけど」


 そう言って、一也はお品書きの鮎めし定食を指さした。


「じゃあ、私もそれにしようか」

「すいません」


 一也は手をあげて、接客係を呼んだ。


「鮎めし定食2つお願いします」

「かしこまりました」


 接客係は厨房に向かった。


「林沢は夏になると鮎釣りをする人が多くいたんだって」

「そうなの」

「うん。夏休みにお父さんと釣りをしたんだよ。お昼は釣った鮎の鮎めしや塩焼きだったんだ」

「お待たせしました。鮎めし定食でございます」


 テーブルに鮎めし定食が置かれた。鮎めしの他に、みそ汁、鮎の塩焼き、鮎の南蛮漬、おひたし、漬物が付いていた。


「いただきます」

「おいしい。いい香り」


 文子は鮎独特の香りに感動した。鮎のことは知っていたものの、文子は鮎を食べたことがなかった。


「そうだろう。林沢ではよく釣れたんだ」


 そう言いながら、一也は林沢で鮎を釣った少年時代を思い出していた。


「こんなにおいしいのがよく釣れたのに・・・、もったいないわね」


 文子は鮎釣りの名所だった林沢がダム湖に沈めて本当良かったのかと思い始めた。


「仕方ないんだよ。豊かさのためなら」


 一也は残念そうに言った。豊かさのためなら仕方ないと言ったが、本当は沈んでほしくなかった。故郷が残ってほしかった。

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