水鳥川は自然豊かなところだった。清らかな川が流れ、春は小学校の桜が美しくて、夏には蛍が飛び交い、秋は山の紅葉が美しくて、冬は雪が何メートルも積もるところだった。しかし、一也が生まれる頃にはすでにダムの建設が決まっており、小学校は閉校し、住民は徐々に移転していった。建設工事の車も行き交い始めていた。


 小学校3年の夏のことだった。一也と両親は実家に向かっていた。しかし、父は少し硬い表情だった。この時すでに水鳥川はダム湖に沈むことが決まっていたからだ。あと何回ここに里帰りできるかわからない。父は思い出をしっかり記憶しておこうと思っていた。


 しかしその時、一也はダム湖に沈むことを知らなかった。祖母に会えるのがただただ楽しかった。


 この集落をダム湖に沈める計画は20年程前からあった。この水鳥川のほかに、隣にある林沢の集落も水没する予定だった。も最初は反対したものの、川の下流が台風で増水し、氾濫がおこり、多くの犠牲者が出たうえに、電力不足の解決のために、ダムの建設が決まった。集落の人もこうなると止めることができなかった。


 今年も盆休みを利用して、実家に帰省することになった。最寄りの高速道路のインターチェンジから1時間ほど走ると、集落が見えた。水鳥川集落だ。


 集落に入ってしばらく走ると、実家に着いた。実家は水鳥川のほとりにあった。実家は茅葺き屋根で、明治時代に建てられたそうだ。庭は広く、物置には農耕具や田植え機、トラクター、コンバインが入っていた。この集落の民家のほとんどは、明治時代に建てられたもので、茅葺き屋根の民家が多かった。


 車が実家の前の庭に停まった。


「さぁ、着いたぞ」


 父が降りた。すると、待っていたかのように祖母が玄関を開けて出迎えた。


「一也、よく来たね」

「おばあちゃん、こんにちは」


 祖母は笑顔で迎えた。一也は嬉しかった。いつも祖母が笑顔で迎えてくれるからだ。祖母はまるでこの集落がダム湖に沈むことを知らないようだった。いつも笑顔だった。一也に会えることがとても嬉しかった。


 家に着いた一也は家でのんびりしていた。東京の家よりずっと居心地がよかった。夏休みの宿題をほとんど終えた。あとは自由研究だけだった。


 一也は窓から外を見た。いつものように穏やかだが、去年の夏に来た時と少し違っていた。民家が少なくなっていた。住民の移転が徐々に進み、取り壊されていた。農道を普段は走らない大きなトラックがよく通っていた。その理由が、ダム湖に沈むことによる引っ越しと工事車両だと、一也はわからなかった。


 そのころ、父と祖母が話をしていた。いつ引っ越すのか、いつ沈むのかだった。一也はその話のことを全く知らなかった。上の階でくつろいでいて、その声が聞こえなかった。


「お母さん、いつ引っ越すんだい?」

「3年後さ」


 祖母は少し残念そうな表情だった。一也の姿を見ることなく、10年前に死んだ祖父の生まれた家だった。


「そうか。ここに来られるのもあと3年か」

「しょうがないものさ。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」


 祖母は方丈記の一文を用いて、それも運命なのだと感じていた。


「沈むまであと何年だい?」

「あと6年よ」


 祖母は寂しそうに言った。祖母の目は少し潤んでいた。


「そうか。じゃあ、ここでの記憶をしっかりと残しておかないとな」


 父は写真を取り出した。父はダム湖に沈む水鳥川や林沢の風景を写真に残そうと、数年前から撮り続けていた。


 台所では母が夕食を作っていた。東京の自宅に比べて、台所が広かった。つい最近、コンロを買ったそうだが、この家でコンロを使うのもあと3年だった。


 一也は東京の自宅から持ち出した漫画の週刊誌を読んでいた。実家に向かう前の日に書店で買ったもので、暇つぶしに読もうと思っていた。実家のある集落には本屋がなく、隣の集落まで行かなければならなかった。


「一也ー、ごはんよー!」


 夕食の時間になった。一也は2階から降りてきた。


 一也は椅子に座った。テーブルにはいろんな料理が並んでいた。今日の夕食は地元で採れた野菜が中心だった。東京での食事と違って、野菜が多かった。おいしくはないものの、愛情がいっぱい詰まっていた。


「さぁ、お食べ」

「いただきまーす」


 一也は箸を持って、ご飯を食べ始めた。実家までの移動で、一也はとても疲れていた。そのためか、一也の食欲は旺盛だった。


「おいしい?」


 祖母は聞いた。


「うん!」


 一也は元気に言った。祖母は笑顔になった。一也がおいしそうに食べるのが何より幸せだった。


「やっぱお母さんの料理は最高だな。愛情が詰まっていて、やさしい気持ちになれるよ」


 父は笑っていた。父も年に何回かある里帰りを楽しみにしていた。


 夕食後、一也は外を見ていた。東京よりも涼しくて、虫の声が聞こえ、星空がきれいだった。人通りは少なく、街の明かりは少なかった。昼間に走っていたトラックは事務所に停められていた。事務所はすでに退勤時間を過ぎていた。


 そこに、父がやってきた。父はなぜか真剣な表情だった。


「とっても素敵なところだよな」

「うん」


 一也は笑顔で答えた。


「一也、ちょっと聞くんだけど、もし、故郷がなくなったら、悲しいか?」


 突然、父は聞いた。父は真剣に話していた。


「うん」


 一也は正直に答えた。


「そうか」


 父は小声で答えた。父は何かを考えているような表情だった。


「どうしてそういうこと聞いたの?」


 一也は父に聞いた。


「いや、なんとなく」


 父は何かを考えているようだった。一也はその意味がわからなかった。


「一也ー、もう寝る時間よー!」


 母の声だった。就寝の時間になった。


「はーい」


 一也は答えた。


 実家にはベッドがなく、布団で寝る。一也は布団を取り出し、敷いた。


「お父さん、おやすみ」

「おやすみ、一也」


 一也は部屋の電気を消した。東京では消しても少し明るかったが、実家は暗かった。実家の夜は静かで、ざわめきが全くと言っていいほど聞こえない。一也はいつもよりぐっすり眠ることができた。

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