第53話 毒薬

「意識はある? あたしが分かる?」


 肩に手を置かれ優しく問いかけられて、こくこくと頷いた。


「まだ吐き気がひどい?」


 声を上げて答えることができずに、こくこくこくと頷く。


 ベッドに横たわって体を丸め、口元をタオルで押さえていた。たぶん胃の中のものを全部吐いたのに吐き気が収まらず、苦しくて。視界の白黒の靄はなくなったが、涙と汗で滲んでぼんやりとしか見えない。

 ベッドの脇の椅子に座って、気づかわしげにハルの肩に手を掛け話しかけているのがミッコだということは分かる。


 ミッコの肩越し、部屋の入り口を塞ぐようにして腕を組んで、やはり心配そうな様子で立っているオキ。「ミッコは医学の心得があるんだ」と先ほど紹介された。

 首を巡らせることもできないが、後ろで背中をさすってくれている大きな手は、グンジ。時おり冷たい布で額や首筋の汗を拭ってくれるのも。


「いったい何が……」


 背後のグンジが疑問を口にするが、また強い吐き気が襲ってきて「ううぅ」と呻き声を上げたハルに、慌てたように背中をさする手を早めた。

「ハル、しっかりしろ」


「おおい、大丈夫なのかよ……ミッコ?」

「うん、これはねえ、たぶん……ハル、水は飲めそう?」


 今は体を折り曲げて吐き気に耐える以外の一切のことは出来そうになかったけれど、グンジに支えられ体を起こされてどうにか一口の水を口に含む。


 苦しかった。息すらまともに入ってこずに。


(死ぬのかな……)


 朦朧とする意識の下で、そう思う。

 そりゃ死のうとは思ってるし、別にいま死んでもいいやって何度も思ったけれど、……できればこんなに苦しくない方法が良かったなあ。


 思った瞬間また吐き気が込み上げてきて、いま飲んだ水だか胃液だかを吐きだしていた。


 と、廊下を早足に歩いてくる足音が聞こえて、直後、


「水場でこれが見つかった」

 入口で、ナギの険しい声がする。

「アスカでは見たことのない種類の瓶だ。だれかが持ち込んだのだろう」


 ナギは部屋に入ってきて、ミッコに手のひらに載るくらいの小さなものを手渡す。

 瓶の蓋を開けて検分していたミッコが、


「ああ、やっぱり。コウランね。間違いないわ」


 三人の男たちが、一様にどよめく。安堵のような、落胆のような、絶望のような複雑なため息。


「ハル? きみね、毒を盛られたんだよ。毒――というか、これは麻薬のようなものね」

「おれ、死ぬの?」


 どうにか声を上げると、ミッコの手が頭の上に降りて来た。


「死なないよ。ちょっと苦しいだけ」

「……ちょっと?」


 抗議の声を上げたかったが、それ以上の言葉は続かなかった。


「一日寝てれば元気になるよ。大丈夫」


 頭を撫でられるけれど、この状況では、その言葉はあまり慰めにならなかった。


「にしても……この瓶いっぱいに入ってたんだとしたら、こりゃ相当飲まされたね。苦しいわけだ」


 ミッコは同情交じりのため息を落とす。


「いったい……だれがこんなことしやがった。おい、ナギ。アスカのもんじゃねえだろうな」

「そんなはずがあるか。めったなことを言うな」


 グンジが背後から、

「いや、その前に――やはりハルを狙ったものなのだろうか?」

 疑問を呈する。


「コウランはすぐに効くよ。あれの前って言ったら……ハルはバイオリンを弾いてたから……。その後で、ハル、何を口にしたか覚えている?」


 めぐりの悪い頭で考えて、

「お茶、かな」


 答えると、ミッコは首を捻った。

「お茶?」


「ヒワ茶を出していたな」


「ヒワ茶? それにこんな香りの強いもんが大量に入ってたら、気づきそうなもんだけど。ヘンな味がしなかった?」


 そう言われても、そういう味のお茶なんだと思って。……と言いたいのだけれど、苦しいのと情けないのとで言葉が出ない。


「だってーと、やっぱりハルを狙ったんだな? ほかの連中は、たいがい酒を食らってたから」

「アスカの人間じゃないとしたら、客のうちのだれかか――?」

「しかし……ハルがいなければ子供たちを取り戻せないというのに、こんなことをして利になる者がいるのか……」

「怪しいっつったら、やっぱり都市の『宝』を狙ってるヤツらじゃねえのか? こないだ否定されたのを根に持って――」


「うむ……考えたくはないが、その線が一番ありそうだな」

 グンジはまたハルの額の汗を拭って、ため息を落とした。


「おれ……これから、命を狙われる感じ?」


 苦しい息を吐きながら、小さな声で聞くと、ナギが腰を落としてハルへと視線を向けて、


「安心しろ」

 深く頷く。

「殺すつもりなら、もっとちゃんとした毒を持ってくるだう」


(ちゃんとした毒って……)


 全然安心できない。


 オキもわずかに屈みこんで、

「ハルを殺しちまったら、計画は完全に白紙だからな。こいつァたぶん、恫喝か、セコイ嫌がらせか」


 ガキが、生意気に威張りやがって――ってことかな。

 はあ……と落としたため息は震えていた。


「こうなったらおい、ハル。シンジュクへの入り方とか計画の詳細とか、死んでも他人に言うんじゃねえぞ。あんたがそれを腹ん中に収めてる限り、どんだけ苛ついたヤツでもあんたを殺せねえ。子供らなんかどうでもよくて、宝だけ欲しいってモンがいたとしてもな。ハル抜きでシンジュクに侵入できるって思われたら、何してくるか分かんねえからな」


 屈みこんで言うオキと、薄目を開けて視線を合わせ、どうにかひとつ頷いた。


「それにしても、酷いことをする」

 背後で、グンジの悔し気な声。


「ああまったく! どこのどいつだ、こんなことしやがるのは!」

「ハルはわれわれの村のために、一生懸命やってくれているというのにな」


 同情の声が寄せられるが、答えることなんかできずにまた強い吐き気を感じて呻き声を上げていた。限界を越えた胃が、痛み出して。拭っても拭ってもあぶら汗が噴き出し、寒気に震えている。


「とにかく、犯人を捜してやんねえと」

「客のうちのだれかだとすると――」

「こないだやけに食って掛かってきてた、あのユシマの若いヤツが怪しいんじゃねえか」


 ナギは顎を撫でるようにしながら、

「略奪派はまだいるぞ。カンダのあの男。あいつも、ユシマに意見を言わせてあまり口を利かなかったが、宝を狙っているようだった」


「シバの代表者も、何かと言葉を濁してはいたが、宝には反応していたな」

 グンジも苦々し気に言う。

「しかし、だれであれ、いつどうやって茶にコウランを入れたのか」


「あんときはみんな、ハルたちの演奏を見てたからな。背後で何をやってても気づかれなかったかもしれねえけど。あんたら、なんか怪しい動きをしてるヤツを見なかったか?」

「見ていたら止めている」


 口々に言う声を耳に入れながら、あまりの苦しさに目をぎゅっとつぶっていた。

 そうして、あの演奏は楽しかった――と思いだす。

 この苦しさは、あの時の代償か。ならば安いものかもしれない。いや、あれがピアノだったら、もっと……。


「ハル、大丈夫? 苦しい?」

 ミッコが肩をさすりながら、

「ねえ、おっさんたち。ちょっと静かにしてくれる?」


「おいおいミッコ。おれたちの大事なハルが、こんな目に遭ってるんだぜ? 静かになんかしてられっか」

「あんたたちの大事なハルを、ちょっと休ませてやってって言ってんの。大声で会話をするなら、ほかの部屋でやってよ」


 険しい口調で言われて、三人の男たちは一瞬口をつぐむ。


「……隣の部屋にいる」

 ナギが、押さえた口調で言った。

「何かあれば、呼んでくれ」


 ハルとしては何かあっても隣の部屋まで聞こえる声が出せる気がしないが、ハルとミッコを残して男たちは部屋を出て行く。


「ハル。もう少し水を飲める?」


 答えられずにわずかに目を開くと、ミッコは水差しを取り上げ、


「ああ。ちょっと水をもらってくるね。すぐ戻るから」

 言って、部屋を出ていった。


 ほんの少しの時間があって。


 小さな足音が聞こえたと思うと、水差しを持って部屋に入っていたのはサヤだった。

 無言でベッドの脇までやってきて、水差しを置き、ちらりとハルへ目をやる。

 ハルは視界が滲んだままで、彼女の顔がよく見えないのを残念に思った。なんとなく、もう会えないような気がして。


「……ミッコさん、は?」

「水場でちょっとケガをした人がいて、手当をしてから行くって」


 そう、と小さく声を落として、息をつく。

 次の言葉を続けたいのに、吐き気と胃の痛みで言葉が出ない。


 これが嫌がらせなんだとしたら、犯人が今のハルの様子を見たら小躍りするくらいに喜ぶだろうなと思った。


(だれだか知らないけど……)


「サヤ」

 ようやく吐き気を堪えて、声を絞り出す。


 サヤはすぐには部屋から出て行かずに、わずかにハルのほうへと目を向けてたたずんでいるようだった。


「きみは、これがなんの薬か知ってたの?」


 目を開けているのもやっとのことで、見上げたサヤの顔はやっぱり霞んでいる。その美しい横顔からは、今のハルのよく見えない目では、特段の感情を読み取ることはできなかった。


「……知らない。頼まれただけだから」


 冷たい口調に、ハルは思わず小さな笑いを漏らしていた。


「ハハ……もっと酷いじゃないか……死んでも良かったってこと? ……いや――」


(殺そうと思ったのか)


 サヤの右手に持つものが目に入って、もはや笑い出したい気分になっていた。

 苦しいのに。


「……そう。ちゃんと死ぬかと思ったのに」


 右手に握りしめた小型のナイフを振り上げて――。


 サヤがハルの目の前に覆い被さってくる。

 ハルは仰向けになって彼女の腕を掴み、必死にそれを受け止める。ぐぐっとそのナイフが振り下ろされようとしている。


「待って、サヤ」

「チハル……死んで」

「待て……って」


 この小柄な少女に腕力で負けるとは思えないが、今はハルのほうも力が入らない。

 刃先を逸らそうとサヤの細い腕を押し返すのだが、ナイフの刃は顔すれすれのところにあった。


「……おれが、新宿を、破壊しよう……と、してるから?」


 苦しい息を吐きだしながら、声を上げる。少女は答えない。


「サヤ。あのな、そりゃ死んでもいいって思ったけどさ。……だからって、そんな……そこまでよく知らない女の子に、理由もなく殺されそうになったら、それは……傷つくよ、おれだって」


 サヤは歯を食いしばってぐいぐいと腕を振り下ろそうとしてくる。長い時間、持ちこたえられそうにはない。


「それに……ほんとに……おれを殺してもいいけど……今は、ちょっとマズいから」


 計画は、走り出してしまっているから。


「計画が終わった後ならいいって……約束したっていい、けど、……それじゃ、きみには遅いんだよな」


 力で負けて、寸でのところで顔をずらし刃先をかわす。ナイフはハルの頭のすぐ左側で、鈍い音を立ってて枕に刺さった。

 すぐさまそれを引き抜こうとするサヤ。

 ハルは渾身の力で身を捩って両手でサヤの手ごとナイフを押さえる。


「あなたが……」

 キッと、茶色がかった瞳に険悪な色を浮かべてサヤはハルを睨みつける。枕に突き刺さったナイフの柄を両手で握りしめながら、

「私を受け入れてくれないから悪いの」


 苦し気に言う。


「都市を破壊しようとするから……でも……それだけじゃない。……どうして?」


 睨まれながら、必死にその手を押さえていた。肩で息をしていた。

 サヤのほうも、荒い息遣いで、


「あなたのことが、好きなのに!」

 語る内容と裏腹に、憎しみでいっぱいの瞳。


「あなただって……わたしのことが好きなくせに!」


「サヤ、おれは――」


「なのに、チハル。わたしよりも、あの都市を破壊するほうを選ぶの? どうして?」


「きみだって、あの都市を守るために、おれを殺そうとしているじゃないか」

「そうじゃない!」


 声を荒げるのと同時にナイフを引き抜く手に力が入る。

 振り払われるようにして、ハルは仰向けにベッドに倒れた。


(だめだ……)


 抗う力が残っていない。

 そのまま喘ぐように息をしながら、ナイフを手に取りなおしたサヤが、再びそれを大きく振り上げるのを、もう――ただ見ていることしかできなかった。

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