第51話 故郷

「CDって、あるんだ」

 ケースを親指と人差し指でつまんで、傾けたりひっくり返したりしながら見入っていた。


「うむ。心当たりの範囲を当たって探し出したのが、やっと二枚なんだがね。いや、CD自体はまだあるが、ピアノの曲がな」

 苦笑しながら、

「ダウンロードが主流だったものなあ。だがそれは何かしら端末がないと使えないし、保存しておかなければ配信が終了したらそれで終わりだ。ネットワーク上にあったとしても外じゃ使えないしな。『紙に書いた文字』にしろ、『ディスクに焼いた音楽』にしろ、最後に残るのはリアルに存在するものということか」


「けど、音楽はどっちにしろ聞けないじゃん」


 思いがけず、しょんぼりした口調になってしまった。

 ベートーヴェンの三大ピアノソナタ集と、ショパンの名曲選。

 それはこの数日、ハルが喉から手が出るほど欲しいと思っていたものなのだけれど。でも、実際にそれを目にした今、心の中にあるのは戸惑いだった。


「持ち帰っても、プレイヤーがないし」


「そうだろう。それで、ポータブル・プレイヤーがないかと思って、探しているところなんだ。ここに来るごとに充電していけば、多少は使えるかと思ったんだけどなあ」


「……ここでは、聞ける?」


「ん? おお。聞けるよ」


 トキタはハルの手からCDを取り上げると、軽くものをかき分けて出てきた機械に一枚入れた。

 ピアノの音が流れ出す。

 もう記憶の彼方に行ってしまったくらいに久しぶりに聞く、自分以外が弾くピアノの音だった。


 目を閉じて、ハルはその音を聞いていた。

 「ノクターン二番」「子犬のワルツ」「雨だれ」「英雄ポロネーズ」。「ノクターン第二十番」……その最初の和音が聞こえてきた時、古い意識を呼び起こす感触があって、体が震えた。


「これ、最後のコンクールで弾いた曲だよ」


 いつの間にか目の前から消えて、キッチンに行っていたトキタが、そちらのほうから小さく「そうか」と声を上げる。


 ハルは右腕を枕にして机に突っ伏した。顔の横で、左手が鍵盤を叩く。


(これ、あんまり弾いてなかったな――)


 なんとなく、弾く気分になれなくて。

 あのコンクールの舞台。照明の光と熱気と、観客の拍手は、忘れられないくらいに気持ちが良かったから。


 しばらく席を外していたトキタが、マグカップを二つ持って椅子に戻ってきた。


「もっと喜ぶかと思ったんだがねえ。楽譜を見つけた時みたいに」

 苦笑気味に言うトキタに、


「いや、嬉しいよ。すごく聴きたかったんだ、ピアノの演奏」


「そうなのかい? きみは自分で弾けるのだから、弾けばいいのじゃないか?」


「……自分のは。……なんか最近、どんどん下手になってる気がしてさ」

「ふうむ……私は音楽はやらんから音楽家のことは分からんがね、けれどチハル、それはだいたい音楽に限らず、何をしようとする者も経験する。いわゆる、スランプというヤツではないかね。一時的な」


「あんたさあ」

 ハルは机に肘を載せたままわずかに身を起こして、トキタへと目を上げる。

「忘れてない? おれ、プロじゃないんだよ。コンクールで優勝しただけの、ただの高校生で」


 そのまま頬杖で、湯気を立てているマグカップに視線をやって。


「もっと上手いプロの演奏聞いたり、先生たちからいろいろ教えてもらったり、ほかの人たちと一緒に演奏したり……して……もっと上手くなりたかったんだけど」


 村の人たちは喜んでハルの演奏を聴いてくれるけれど、アドバイスをくれたりはしないから。的確な指摘をしてくれる教師や先達や、耳の肥えた聴衆は、この世界にはいないから。


「そう、か……」

 呟くような声と、コーヒーをすする音が伏せた頭の上に落ちてきた。


「……私に何かできることはあるかな」


 そう聞くトキタに視線をやらずに、

「ないよ」

 答えて、


「……早く『計画』を実行しようよ」


 少し考えるような間。それからまた、コーヒーをすする音が聞こえて来た。

「もう少し、探してみよう。先生は無理だが、音楽を聴くことはできるかもしれない」


「いいよ。なんだか……」


 両腕に顎を載せて、ハルはトキタを見上げる。


「キリがない気がしてさ。最初はピアノが弾けるだけで良かったのに。次は、もっといろんな曲が弾きたい、もっと上手くなりたい、もっとだれかに聴いて欲しい……って。際限ないね。そのうち世界が滅びるわけだ」


 自分で言っていて、ちょっと笑っていた。本当に、欲望というヤツは。


「ふうむ。けれどなあ、チハル? 文明であれ個人であれ、……成長のための糧になっていたはずなんだぞ、その欲望や欲求というものは。もっと成長したいと願う。そうして努力して手を伸ばすことは、決して悪ではなかった。そうだろう?」


「そうかな」


 少し考える。


「オケの指揮の先生に、これからいろんな経験を積んでどんどん演奏が変わっていくって言われたんだけど」

「うむ」

「おれ今、ピアニスト志望の一介の高校生としてちょっとおかしいくらいにいろいろ経験してると思うんだけど」

「ううむ……」


「まだ足りないのかなぁ」


「うむ……その指揮の先生も、ここまでは想定していなかったと思うがなあ……。普通に考えてそれは、学校、家族、身の回りで起こることや友人や他人との関係……たとえば恋であるとか」


「……はあ?」


 まったく、老人の考えることときたら。

 ヘンな顔をするハルに、トキタはわずかに苦笑を向けた。


「そういうことがあってもいい年頃だろうが。いないのかね。砂漠の村に、好きな女性は」


「いないよ」


 不機嫌に言いながらも一人の少女が頭に思い浮かんでしまって、ハルは慌てて打ち消した。

 サヤのことを考えて弾いたあの一曲は、これまでにないくらいに上手く弾けたような気がしていて……。けれど。


「そういうことしてる場合じゃないだろ?」

 嫌な顔をして、そっぽを向く。


 そうかい? と苦笑するトキタがやはり何もかも見透かしているかのようで、腹が立つ。


「チハル」


 目を細めたまま、トキタが呼びかけた。


「このCDは、持っていけ」

「はあ? 持ってっても、聴けないって」

「聴きたくなったら持ってこい」

「はあ?」


 プレイヤーからCDを取り出しながら言うトキタを怪訝な目で見ながら、ハルは首を傾げた。


「きみに持っていて欲しいんだ」

 ケースにしまって、トキタはそれをハルの目の前へとぐっと差し出した。そうして。

「チハル。誕生日、おめでとう」


「……は?」

 思わずCDのジャケットに吸い寄せられていた目を、トキタへ向けて見開く。


「そろそろじゃないかね。きみの誕生日は」


「……え」

 忘れていた。というか、日付の感覚なんて、もうとっくになくなっていた。

 この世界では、だれも自分の誕生日なんか覚えていないし、ハルにそんなものがあることも知らないし、祝い合ったりすることもなくて。


 誕生日おめでとう。


 毎年聞いている言葉を、恐ろしく久々に――実際、数百年ぶりらしいが――聞いたと思う。


「――もう春が来るんだろうな、外の世界は」


 春に生まれたから、チハル。

 花に彩られた穏やかな季節。そんな人生を、送れるように……って。


「……トキタ、さん」


 呼びかけると、老人は驚いたように目を見開いた。

 いつもはしわに包まれてひっそりとしているその瞳が、思いがけず大きく見開かれてハルを見つめ返してくるので、ハルは少々怖気づいて目を逸らす。


「えっと。……知ってた? 今の時代には、春と秋はないんだよ」


「ん?」


「雨季と、夏と、夏の後と、冬の前と、冬と、冬の後があって」

「……そうなのか?」

「だいたい暑いか寒いかどっちかだからね」

「そうか……それは知らなかった」


 何年も外に出ていないという老人は、感心したような、落胆したような声で呟く。


「でも、毎日ちょっとずつ変わるよ。夕焼けの色とか、畑の景色とか、砂の模様とか……それで、……それ見てると、いちいちピアノが弾きたくなるんだ」


「そうか――きみのピアノを、いつか聴いてみたいもんだなあ」


 噛みしめるような口調で言うトキタ。

 ハルは心の中にいろんな思いが去来するのを感じて。それが過ぎ去るまで、じっと斜め下へと目をやって。ほんの束の間の沈黙の後。


「いいよ、聴かせても」

 上目遣いにトキタに視線を向け、答えた。

「ピアノ、探しておきなよ」






 鍵盤に手を載せて、ハルは久しく弾いていなかった和音を紡ぎだした。

 あのコンクールの前は、寝ていても覚めていても、気づけば自然に指と足が最初の四小節の鍵盤とペダルを押さえているくらいにるくらいになってたな、と思いながら。

 下降する和音でつづられる序章。悲しみを兆す音。

 余韻を残すかのような弧を描いて、微かな緊張を載せた右手が次の高音を鳴らす。切実に震える音。


 ノクターン第二十番・嬰ハ短調。「遺作」、と題に付されるそれは、若いショパンが姉に送ったものが、彼の死後に発表されたという曲。

 二十歳、すでに祖国の音楽界で活躍していたショパンは、ヨーロッパへとさらなる活躍の場を求めて旅立つ。その直後、背にしてきた故郷のワルシャワで、紛争が起きる。

 ショパンは祖国に、家族や大切な人のもとに、帰りたいと思っただろうか? 帰れないと、覚悟しただろうか――?


 繊細なトリルと装飾音に彩られたメロディ。雲が日差しを隠しながら通り過ぎるように、明るい和音と暗い和音が交互に入れ替わる。喜びの中に、ほんの少しの切なさがかすめるように。絶望の中に、かすかな光が見え隠れするように。


 結局、祖国を愛し数々の名曲を残しながら、二十歳で出てから一度も祖国に帰らなかったというけれど。


(おれ、帰りたいのかな………)


 もう、あまり考えなくなっていた。


 記憶の中ではたかだか一年ほど前の、自分。華やかな光と熱と、喝采に包まれていた。

 けれど、知らなかった。帰れない故郷があることなんて。




 ――誕生日おめでとう、チハル。食事にでも行こうか。

 ――今日も先生のところで遅くまでレッスンでしょ? コンクール、もうちょっとだもんね。

 ――そうか……今までのよりも大きいコンクールだって言ってたもんなあ。じゃあそれが終わったらにしようか。そうだ、中学卒業と、高校入学と、コンクールの優勝祝いも兼ねてさ。


 ええ? 気が早いよ。優勝なんて、分かんないだろ? 初めてなんだし。




 最後のコンクールで弾いたピアノの鍵盤の、あの手に残る重さを思い出していた。

 舞台の熱気と、観客の拍手。陶酔。

 また、あると。次のそれはもっと熱くて大きいと、いつでも思っていたから。


 わずかに揺れる上体が、鍵盤に被さる。恍惚と光る、高音。愁いを載せたトリル。ほんの少し上気した頬に。切なく紡ぎだされる音の粒が当たって、消えて。


 唇を噛みしめていた。鍵盤は、見えていなかった。

 汗だか涙だかが一粒、二粒と、頬を伝って、鍵盤と音を奏で続ける指の上に落ちた。

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