9.タカマル・オブ・ザ・デッド

 あれは、確か十四歳の夏の日のできごと。


 家から自転車で二十分ほどの場所にある大学病院で、左下の歯茎に埋まった親知らずを抜いてもらうことになった。数日前から痛みが酷くなり、我慢の限界に達していたのだ。


 俺の抜歯を担当したセンセイはそろそろ引退した方がいいんじゃね? って感じのおじーさんで、麻酔のきいてない唇のあたりに手術道具のペンチをグリグリ押し付けて、俺の歯茎の奥深くで寝そべった親知らずを抜こうと躍起になっていた。


 俺は我慢が苦手で、小さい頃は道で転んで膝をすりむくたびにギャン泣きをくり返す子供だった。かーちゃんは最初のうちこそ心配するような素振りを見せていたけど、俺が毎回毎回おおげさに痛がるので、途中から面倒になってきたのか、ガン無視を決め込むようになった。まったく、なんて親だ。グレネードかよ。違ったネグレクトかよ。


 センセイが俺の唇にペンチをグリグリと押し付けてくる。それはもう執拗に。麻酔がきいてないんだぞ、そこ。堪え性のない俺は、それでも最初は必死こいて我慢していたけど、最後方はもう完全に無理になって、普段より一オクターブ高い声でギャンギャン泣き散らかした。


 センセイも看護師のおねーさんもドン引きしてたな。痛みで錯乱した俺はメチャクチャ失礼なことを口走った気がする。「このヤブ医者のクソジジイ!」とか、「ロートルはさっさと引退しろ!」とか、そんな感じのことを。俺の暴言にキレたセンセイが渾身の力を込めると、ピクリとも動かなかったはずの親知らずがあっさりと抜けた。


 俺は仇敵をティッシュに包んで家に持ち帰ると、とーちゃんが大事に面倒を見ていたサボテンの土の中に埋めた。自分でもどうしてそんなことをしたのかよく憶えていない。験担ぎなら完全に間違っていた。夕方に食べたアイスが傷口に染みて、思わず絶叫したことは憶えている。かーちゃんにうるさい! と怒鳴られた。


 一月くらい経って、サボテンが枯れた。とーちゃんは悲しそうな顔で「どうして……」とつぶやいた。正直、とーちゃんとサボテンには悪いことをしたなと思っている。



☆ ☆ ☆ ☆


 

 て——。


 俺はこの非常時に何を思い出しているんだ!!!


 触手! 触手!! 触手が胸のあたりを貫いてるよ!! ちょうど心臓のある位置! マジでヤバイ。これは絶対に致命傷だ。


 血もドバドバ流れているに違いない。痛い。死ぬほど痛い。親知らずを抜いた時の比じゃない。


 こんなん俺に耐えられる痛みじゃねぇ! 俺はフィクションの中で他人が痛めつけられる様を見るのは好きだけど、自分がリアルで痛めつけられるのは解釈違いなんだよ!! とキレかけたところであることに気付いた。


 おかしい。まったく、痛くないぞ。よくよく確認すると、血も流れていなかった。

 扉の向こうから伸びてきた触手は、間違いなく俺の心臓を貫いているのに。


 いや、違う。


 よくよく観察すると、触手は俺の左胸に埋まったままだ。親知らずの抜歯を思い出したのはこれが原因だった。


 俺の歯茎に埋まった親知らずと、俺の心臓に埋まった触手。


 そいつは俺の心臓をうがって体の反対側に飛び出す代わりに、左胸に生まれた黒い靄の中に消えていた。


 さらに。


 俺はてっきり扉が開いたのかと思っていたが、実際は閉ざされたままだった。

 扉の表面にやはり黒い靄が現れて、触手はそこから伸びていたのだ。


 扉の黒い靄が、無数の触手を撃ち出す。今度はフィオーラに狙いを定めたようだ。


 俺の隣でフィオーラが跳躍した。まるで蝶のような軽やかさで。


 彼女は空中で身をひねり、黒い靄から伸びる無数の触手を回避する。そして、右手を閃かせると、数本の触手がバラバラになって地面に落ちた。


 着地したフィオーラの手には一振りのナイフがあった。

 彼女は、それを逆手に構え直す。


 ワンピースの裾をひるがえして、舞うような動作で、襲いくる触手の群を片っ端から切り裂いていく。


 少女の動きに合わせて、白銀の髪がふわりと宙に浮かぶ。


 触手を解体するナイフさばきは機械のように正確無比で、その顔にさっき見せた驚きの色は一切ない。


 フィオーラは触手の群を片付けると、俺の隣に戻ってきた。


「タカマル、怪我は?」


 俺の左胸に沈んだ触手をナイフで切り裂きながら、フィオーラが聞いてくる。


「自分でも驚いてるけど、なんと無傷」

「そう。だったら問題ないわね……」


 いや、大ありだろ。俺は心臓に穴を空けられそうになったんだぞ。


「しっかり捕まって」


 フィオーラはそう言うと、俺の膝の裏と背中に手をまわし抱きかかえると、そのまま大跳躍をかました。


 いくら俺が文化系男子とはいえ、中学生くらいの女の子に抱えられるはずがない。そう思っていた時期もありました。


 彼女はなんの苦もなく俺をお姫様抱っこしている。どうなってるんだよこれ。


 図書館の天井は吹き抜けでかなり高いから、流石に頭をぶつけることはないけど、それにしても高く跳び過ぎだろ。ナイフを使った戦闘技術といい、どうなってるんだこのキッズは。


 フィオーラはそのまま図書館の窓を蹴破り、図書館の奥のヤバイやつから逃げようとしたが、相手はそれを許さなかった。黒い靄から再び大量の触手が伸びてきたのだ。


「フィオーラ、危ない!」


 俺の言葉で迫りくる触手どもに気付いたフィオーラが、空中で強引に姿勢を変えて回避。そのまま図書館の床に着地する。


「助かったわ」

「うむ、大いに感謝するがいい」

「調子に乗らないで。魔物モンスターの餌にするわよ」


 黒い靄が撃ち出す槍衾やりぶすまのような触手を流麗なナイフさばきで切り落としながら、フィオーラが言った。

 

「サーセンした。それだけはカンベンしてください。痛いのはマジで無理!」


 触手の相手をしているフィオーラが、一瞬、俺に向かって憐むような視線を注いだ。


「あの触手は魔物なのか?」

「多分……。でも、扉の向こうに存在するヤツとは別物ね」


 フィオーラがナイフを閃かせながら答える。

 触手の猛攻は収まりそうにない。


「扉の向こう……?」

「あの扉は封印なの。過去に星騎士修道会が倒した魔物を閉じ込めるための。神殿の加護を利用して対象を封じるシステムに綻びがから、確認のためにきたのだけど、こんなことになるなんて……」


 フィオーラの表情に焦りの色が滲んできた。

 触手は無尽蔵に湧いてくるが、彼女の体力には限界があったのだ。


「フィオーラは神星教の関係者なのか?」

「ええ。星騎士修道会に所属しているわ」


 星騎士修道会——。

 ガリオンさんのところか。


「あの触手、扉の向こうからじゃなくて、扉の表面に生まれた黒い靄から飛び出してるぞ!」


 俺の指摘にフィオーラが右目を大きく見開く。今まで気付かなかったけど、サファイア色の綺麗な瞳だった。


「……タカマル、お願い。わたしの顔を

「え、なんだよ急に」

「いいから!」

「わ、分かったよ」


 凄い剣幕だ。ここは大人しく従っておこう。目をつむればいいのかな?


「確かに。黒い靄が。あれは何……? 異界とこちら側を繋ぐゲート……? なるほど。封印された魔物の残留魔力をマーカーにして無理矢理空間を繋げたのね。図書館全体の魔力の流れもおかしい。この淀み方……やっぱりアイツらが関係している……? タカマル、目を閉じたままこっちを向いて」

「お、おう」

「あなた、不思議なにおいがすると思ったら、とても変わった魔力の流れを持っているのね。一体、何者なの? あの魔物に胸を貫かれても無事だったのは、あなたが異界のゲートに近い何かになりかけているからよ。入り口と対になる出口ね。あるいは逆? あなたの肉体はこの世界に存在しているけど、同時に存在していない。生きているとも、死んでいるとも言えない状態だわ。タカマル、ひょっとしてあなたは屍人ゾンビか何かなの?」


 フィオーラの衝撃的な発言に俺は天を仰ぎたい気持ちになった。

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