架空の動物

マツダシバコ

第1話

「架空の猫を飼っているの」

彼女はそう言って、スカートに覆われた太もも付近の空間で撫でるような仕草をしてみせた。

「架空の猫?」

「そう。私の住んでいるアパートではペットは飼えないし、実際に飼うとなると世話も経済的にも大変だしね」

そう言いながらも彼女は空中を撫で続けている。

彼女と出会ったのはピクニックパーティだった。

いや、まさに今がピクニックパーティの真っ最中なのだ。

僕は初対面の彼女に戸惑っている。

僕は彼女の言葉にどんな反応をすればいいのだろう。

これは単に冗談なのだろうか。それとも彼女はいわゆる不思議ちゃんというジャンルの人間なのだろうか。

「子猫なの?」僕は聞いてみる。

「ううん。もうずいぶん大きいのよ」彼女は言う。

僕は慎重に質問を重ねていく。

「毛は短め?長め?」

「短めね」

「尻尾は?」 

「長めね」

「毛皮の柄は?」

「ないわ」

「色は?」

「いろいろね」

「???」

「そういう世界に住んでいるのよ。こうやってね、ちょっと強めに押し付けるみたいに撫でてやると気持ちよがるのよ。猫は好き?」

「うん。まあね」

「触ってみる?」

彼女が僕の手を自分の太もも付近の空間へと導く。

僕は少しドキドキする。

その時の触れた感触については何とも言えない。

確かに架空の猫はいたような、いなかったような。

それでもそれがきっかけで僕らは恋人同士になった。

 

やがて一緒に住むようになっても、彼女は架空の猫を飼い続けた。

彼女は僕をからかっていたのではなかったのだ。

「ねえ、僕がもう少し稼げるようになったら広い部屋に越して、本物の猫を飼わせてあげるよ」僕は言った。

「それは素敵ね。あっちの猫とこっちの猫で私は大忙し」彼女は微笑んだ。

「本物の猫を飼っても、架空の猫は飼い続けるんだね」

「架空の猫たちよ」彼女は僕の言葉を訂正した。

「もうすぐ赤ちゃんが生まれるの」

「メス猫なんだね」

「そうみたいね」彼女は架空の猫を撫でながら、小さく肩をすくめてみせた。

 

間もなく、僕らは郊外の少し広い家に引っ越した。

のどかな小さな町だ。

小さな庭があり、風通しのいい大きな台所があり、部屋が3つあった。

僕はここで彼女と所帯を持つつもりだ。 

僕らはこの家がとても気に入った。

しかし、如何せん古い家なのだ。あちこち手入れが必要だ。

僕は仕事部屋にあてた部屋の隅っこに、ネズミが空けたような小さな穴を見つけた。

身をかがめて覗き込んでみると、実際、ネズミのような小さな動物が見えるのだ。

「ねえ、ごらんよ。向こうに何か小さくてかわいい動物が見えるだろ?」

彼女は縮こまって壁の穴に顔を押し付けた。でも、答えは意外なものだった。

「私には見えないわ」

「そんな。ほらいるじゃないか。ふわふわの大きな尻尾を振って、、」

僕は彼女を押しのけて、壁の穴を覗き込んだ。

「悪いけど、見えないものは見えないのよ」彼女は僕の言葉を遮ってぴしゃりと言った。「あなたに私の猫が見えないようにね」

そう言うと、彼女はこれ以上もう興味はないといった様子で部屋を出て行った。

何か怒っているみたいだ。

僕は再び壁の穴を覗き込んだ。

何だろう?見たこともない動物だった。

ネズミやリスにも似ているけれどそうじゃない。

ふわふわとして、ぴょんぴょん跳ねてとにかくかわいいのだ。

僕は何とか気を引こうとして、穴の手前で色々なものをチラつかせたり、食べ物を置いてみたりした。

けれど、なかなか近づいてきてくれない。

トンネルの向こう側にいるような歯がゆい感じなのだ。

「ほら、怖くないから出ておいで。チュチュチュチュ」

僕は壁の穴に指を差し込んで優しく声をかける。

ふと気づくと、四つん這いになってそんなことをしている僕の様子を、彼女が冷たい視線でじっと見下ろしているのだ。

「いや、違うんだ。これは、その、、」僕は何か言い訳しようとする。

彼女はピシャンとふすまを閉めてどこかへ行ってしまう。

やはり彼女は何か怒っているのだ。

「どうしたんだい?最近、ちょっと怒りっぽいじゃないか」

「知らないわ」彼女はぷいと顔をそむける。

「慣れない土地の生活で疲れているのかな?」

「そんなんじゃないわ」

「だったらどうしたんだい?」

「別に何でもないって言ってるじゃない」

「かわいい子猫も生まれたんだろ?そうピリピリするなって」

架空の猫は4匹の子猫を産んだのだ。

「そんなこと言って、あなたったらちっとも子猫をかわいがってくれないじゃない」

「そんなことないさ。どれ、僕にも抱っこさせてごらん」

僕は彼女に手渡された4匹の子猫をだんごにして膝の上にのせる。

僕には重みも感じないし、もちろん、どんな姿をしているのかさえ分からない。

「それに、」彼女は不満気に唇を尖らせて言う。「猫を飼ってくれるって約束したのに、ちっとも飼ってくれないじゃない」

「ネコ?」僕は膝の上の猫たちを指差してみせる。

「あなたの言う本物の猫よ!」

「ああ、そうだった。ごめん。引越しの片付けが落ち着いてからと思ってね。よし。じゃあ明日、獣医さんのところに行って、もらい猫がいないか聞いてみよう」

「約束ね?」

「約束だ」


ところが翌日、困ったことが起きた。

壁の穴の向こう側に引きずり込まれたのだ。

あのかわいい動物は罠だったのだ。

ふわふわと尻尾を振られて、僕はうっとりと夢心地で穴に手を突っ込んだ。

そうしてまんまと大男に捕まってしまったのだ。

「騙された!」僕は思った。

でも後の祭りだった。

大男は僕の顔を見るとにんまりと笑った。

僕は震え上がった。

大男はカウチソファの自分の隣に僕を座らせると、僕の肩に腕をかけた。

丸太のようなすごく重い腕だ。

大男はポテトチップを食べながらテレビを観て笑っている。

その振動がまたすごいのだ。

どうやら大男は僕を取って食おうというわけではなさそうだった。

しかし、逃げたりしたらどういう目に合うかわからない。

僕はしばらく大人しくして様子を見ることにした。

大男は僕にげっぷを吐きかけると、僕を小脇に抱えてキッチンへコカ・コーラを取りに行った。

冷蔵庫を開ける時も、電話に出る時も、トイレに行く時も、どこに行く時も僕を小脇に抱えて持ち運んだ。

そしてたまに頬ずりをする。

その髭がヤスリのように痛いのだ。

僕は相当に気に入られたようだった。

でも、大男には悪いけど、僕は大男がテレビを観ながら居眠りをしている間に、こっそりと腕の間をすり抜けて、自分の部屋に逃げ帰った。


彼女がどれほど怒っているかと思ったが、不思議なことに時間はそれほど経っていなかった。

僕は何もなかったふりをして、彼女を車に乗せ獣医を訪ねると、帰りには紹介された農家で子猫を4匹もらって帰ってきた。

「かわいいわね。名前を付けてあげないと」彼女が両手に子猫を抱えて言った。

「そうだね」

僕は内心それどころじゃない心境だったけれどそう答えた。

何しろ、大男にさらわれたのだ。

子猫たちは放っておくとニャーニャーと散り散りばらばらに這っていってしまうので、僕はそれをかき集めて回らなければならなかった。

子猫を飼い始めたからといって彼女の機嫌が良くなるということではなかった。

おまけに彼女はもらってきた猫のことを「あなたの猫」と表現した。

「ねえ、飼い始めて5日も経つのよ。名前ぐらい付けてあげなさいよ。あなたの猫なんだから」

彼女はそう言って、ばらばらに這いつくばった猫をかき集めて、僕の膝の上にのせた。

僕は猫たちに、いっちゃん、にーちゃん、さんちゃん、四郎と名前を付けた。

どうして4匹目だけ四郎なのかと言われても、「そんなことは僕の勝手だろ?」

僕は何か言いたげな彼女にそう言ってやった。

何しろ僕の猫なのだ。

彼女は架空の猫を膝に置いて撫でつけながら、僕が猫を世話する様子を監視するかのように見ている。

この家に越してきてからというもの、彼女の目はますます吊り上がるばかりなのだ。

僕は息苦しくなり、散歩に出ることにした。

「どこに行く気?あなたが好き勝手している間に、子猫が井戸に落ちて死んでも知らないわよ」

すかさず彼女の声が追いかけてきたが、僕は聞こえないふりをした。

そもそもうちに井戸なんてないのだ。

道の途中で脇に折れて林道に入り、しばらく木々の中を歩き回っているうちに、いくぶん気分が晴れた。

どうせだったら彼女も連れてきてやるんだったと僕は反省した。

彼女も新しい生活を始めたことで、きっと何かしらのストレスが溜まっているに違いないのだ。

ふと、視界の端を何かが通り抜けていった。

僕は振り返って辺りを見回した。

今度はその姿をしっかりと捉えた。

僕はその後を追いかけた。

そいつは梢の間をすり抜けてぴょんぴょん跳ねて逃げていく。

とてもすばしっこいのだ。

僕は夢中で追いかけた。

何しろそれはふわふわとした魅力的な尻尾を持ち、とても珍しい姿をしているのだ。

「これは、もしや」と気付いた時にはすでに遅かった。

僕は再び、大男に捕まってしまった。

大男は潤んだ瞳で僕を見つめ、抱きしめると何度も頬ずりをした。

そしてソファに座りテレビを点けると、僕の肩に丸太のような腕を回した。

大男は時折、僕を振り返ると人懐っこい笑顔を向けた。

そしてどこへ移動するにも僕を小脇に抱え持ち運んだ。

僕のことが相当に好きなようなのだ。

しばらくすると、僕は大男が居眠りをしている隙を見て自分の家に戻った。

 

 

それからというもの、僕は何と大男の部屋に足繁く通うようになった。

大男はいつでも僕を歓迎してくれるし、子猫の世話は大変だし、彼女はずっと機嫌が悪いのだ。

僕は疲れると、大男の隣でぼんやりとテレビを眺めた。

大男の隣にいると何だか気分が落ち着くのだ。

ある時、大男のところに行くと、僕の居場所であるべきソファの上に子猫たちが寝転んでいた。

僕は悲鳴をあげた。

子猫たちはすっかり大男に懐いてじゃれついている。

きっと子猫たちも彼女のイライラを避けてやってきたのに違いない。

僕は慌てて猫たちを追い立てた。

「困るんだよ。君たちの気持ちもわかるけどさ。でも、これじゃまるで彼女ことをみんなで避けているみたいじゃないか」

猫たちはにゃーにゃー文句を言いながら、部屋に戻っていった。

仕方なく僕も部屋に帰ると、案の定、彼女は恨みがましい目で僕を攻めた。

「そうやって、私ばっかりのけ者にして馬鹿にしてればいいわ」

彼女はポロポロと涙をこぼした。

「違うんだ。そんなつもりじゃなくて、これは…」と、子猫たちを振り返っても、彼らが言い訳をしてくれるわけはない。

「私って最近、変なの」彼女はワッと泣き出した。「あなたって全然気付いてくれないのね」

「気付いてるさ。君はここのところずっと不安定だっただろ?」

僕は彼女の近くにいって背中をさすった。

「そうよ。どうしてだと思う?」

「それは引っ越しをして、周りの環境も変わって、、、」

「もう!やっぱり何もわかってないのね!」

「ごめん。じゃあどうしてか教えてくれないか」

「お腹に赤ちゃんがいるかもしれないのよ」

「本当に?すごいじゃないか。どうして早く言ってくれなかったんだ」

「だって怖かったんだもの。お腹の中に誰かが入り込んで、どんどん大きくなっていくのよ」

「誰かじゃないよ。僕らの赤ちゃんだろ?」

「それに私、不安だったの。私に子供がちゃんと育てられるのかって。だって、あなたの猫たちは私にちっとも懐いてくれないし、架空の猫だって…」

そう言うと彼女はまたハラハラと泣きはじめた。

「架空の猫がどうしたんだい?」

「知らないわ。どこか知らない家の猫になっちゃったんじゃない?もう何日も帰ってこないんだもの。あなたたちも私を置いてどっかに行っちゃうし。もう誰も私のことなんて好きじゃないのよ」

「ごめん。もう君を一人にしたりしないよ。だから、安心して僕らの子供を産んでほしい」

「私、嫌われてないのね」

「まさか、みんな君のことが大好きさ。架空の猫たちだって、そのうちに帰ってくるに決まってるよ」


僕らは籍を入れた。

僕は約束どおり大男のところに通うのはやめて、できる限り彼女の力になるよう尽くした。

でも、妻は僕のやることなすことが気に入らないみたいで、彼女の目はますますキツネのように吊り上がるばかりなのだ。

でも、仕方ない。

家庭を持つということは、きっとこういうことなのだ。

やってもやっても終わらない仕事。

かき集めてもかき集めてもバラバラに這っていく子猫たち。

24時間作動し続ける妻の監視の目。

意味もなく押し寄せてくる不安。

僕は悪い夢を見ているだけなんじゃないかと思って、ふと辺りを見回すことがある。

でも、これは現実なのだ。


僕は現実のベッドの中でハッと目を覚ます。

枕元の置き時計は2時を指している。

真夜中の2時。

隣で妻は寝息を立てている。

規則正しい健康的な寝息だ。

僕は彼女の髪をそっと撫でる。

それから膨らんできたお腹を。

言い難い幸せが押し寄せてくる。

僕は彼女を起こさないように、そっとベッドから出る。

ドアの前で何度も振り返り、妻が目を覚ましていないことを確かめて部屋を出る。

キッチンで水を飲み、大きなため息を吐き出した。

僕は疲れているのだ。

僕は相当久しぶりに大男の部屋を訪ねた。

いや、もしかするとまだ3日も経っていないのかもしれない。

子猫たちを追い立てて大男の隣に座ると、大男はにんまりと笑って、僕の肩に腕を回した。

深夜のテレビ画面には料理番組が流れている。

今日のメニューは「クールな子供の作り方」。

キッチンスタジオでは司会者の男が冗談を言いながら、材料をボウルに放り込んでいく。

「あとは3分チンしてできあがり。簡単でしょう?」

大男はポップコーンを食べながら笑っている。

その笑い声を聞いて、僕は何だかほっとする。

何だかんだ、僕らの子供は無事に生まれてくるのに違いないのだ。

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