生きてるってすばらしい?

生きているっていうのはどう定義したらいいのだろうか。

心臓が止まっていればそれは当然死んだと判断していいのだけれど、世の中って難しくて生きているのに死んでいるも同然の人がチラホラいる。何もしない人、受動的な人間etc...

言われたがままやる仕事に私は意味を見出せないと思っている。たとえ何かを指示されたとしてもスキームの中に自分の考えを入れ込んでやる必要があるように思えてならない。例えば、この文書、明日までに仕上げておいて。と言われてしまったらあなたはどうするだろう。ただ書けばいいものだと思っていないだろうか。たいていの場合稟議書や社内文書なんていうのは大した内容ではないし定型詩を当てはめるだけの仕事だからそこまでこだわらなくてもいいかもしれないが、私はまず先にフォントを考える。自身の会社のロゴも自身で考えた。日本のロゴっていうのは華やかなんだけれどもどうにも情報量が少ないものだから何を言いたいのかわからない。だからアメリカンに情報のみをロゴにしている。もちろん使うフォントはかなり注意した。”GUMI”と書くのだけれど”I"だけ別のフォントにしてみたり、といった具合である。それだけ文字というのは人を引き付ける力もあるし自身が納得いかないモノを出しても誰も納得してくれなくて当然だと思う。

 はてさて話が少しそれてしまったけれども、生きるというのは根源的に己自身が己自身と定義しなおすことを指すのではないだろうか。常に考え、何をするにも理由を作る。寝る時だって当然身体を休めるという大義名分があるのだからそんなんで構わないと思う。一番いけないのは誰かの流れに沿って動くことでこれには大変な危険を秘めている。他人本位で動くともしその他人が居なくなってしまったら仕事が進まなくなるどころか人生の行き場さえ失ってしまうことになるだろう。それに加えて生きているってことを定義し終わったから言うと素晴らしいか素晴らしくないかと言えば私は素晴らしいと答えるだろう。私の作った小説が世にでて数百人くらいの小さなクラスタだけど読んでもらうことで元気をもらっている。もちろんこの小説の真似をするのも自由だけれど、それは生きていない作品になってしまうので、私は別に構わない。

 少なくとも自分が自分たらしめる何かを文章の中においてから作業しないと痛い目にあう。

会社においても同じで、自分は歯車じゃないのだから考えをもってしっかりと取り組むべきだろうと思う。どう生きたって自由だし歯車になるのもいいけれど週5日も捨てるのだからその時間くらい自分でいたい。なんなら週休二日の二日の方はどうなってもいいとすら思っている。お金を生む生まないはあるにせよ五日間は最低限自分でいさせてもらっている。もしもあなたが大学生ならば授業に明け暮れる毎日を生きるべきではなくてそのあとの時間に自分を見出してみてはいかがだろうか。みんなと同じように講義をうけて、みんなと同じような成績をもらう。そんなんで人生楽しいのだろうか。と私は疑問符を投げかけてしまう。

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