ランズ・エンドの約束

鍋島小骨

帰郷

「でも助けてくれない」

 デリラは泥のような目をして言った。表情は薄い。何も気取られまいとするならしょうが余計にこの女性の印象を悪いものにしていた。

「あんたも、神も、口ばっかりは優しく正しいようなことを言って、実際に助けてくれたことはない」

 列車のコンパートメント。きしみと走行音。車窓を飛び過ぎる緑の村々。

 傷害の罪で刑務所に入っていたデリラは、今朝出所したばかりだ。見覚えのある古い服に大きすぎるトレンチコートを重ね、あちらこちらほつれたニットのバッグは木の持ち手が何箇所も傷ついている。

 ついさっき、駅前で手持ちのお金を数えながら悄然と立ち尽くしていたのを顔見知りの私が見つけ、一緒に汽車に乗せたのだった。私が二人ぶんの切符を買い一緒のコンパートメントに入って座るまでデリラは大人しくしていたが、色の薄い荒れた唇は少しずつ横に引き結ばれて、私が飴を勧めるとついに糸が切れたように勢いよく立ち上がり、まなじりを吊り上げて鋭く一言放った。

 汽車賃くらいで身体を売ったりしない、勘違いしないで、と。

 私は飴玉の包みを差し出したままの姿勢で、してないよ、と言った。

 どうだか、と彼女は言い、苛立たしげな様子で私のはすかいに腰を下ろした。

「私は用事があって出てきていてね。ちょうど帰るところで、きみもランズ・エンドに行くつもりだと言ったから」

 もともと貧しく身内のないデリラは塀の中で必要な金にも事欠いたに違いないが、故郷のランズ・エンドまでの二等車片道分だけは何とか残しておいたのだろう。だが、デリラの収監中に汽車賃は上がった。それを教えてくれるような人は、塀の中にはいなかったということだ。

「きみは故郷に帰らなくちゃ」

「故郷なんかない。あそこに捨てられただけ」

「でも他に行く所はない」

 泥のような目がまた私を見る。

「嫌なやつ。売春女は他所に行けばいいと思ってるくせに」

「思ってない。ランズ・エンド行きの列車をきみが選んでくれて嬉しいんだよ。お帰り、デリラ」

「……まだ帰ってない」

「帰ろうと思った時、魂は帰ってるんだ。アーネストもそう書いていただろう?」

 デリラは答えず、自分の身体を抱き締めるような仕草をする。自分を抱いているのではない。いま着ているトレンチコートを抱いているのだ。そのコートは、デリラの夫、大戦で死んだアーネストの遺品だった。

 コートを届けたのは私だ。以来デリラは、秋冬になると二回りも大きいそのコートを着る。新調する金がなかったこともあるだろうが、地の果ての村でただ一人彼女に心を寄せたアーネストの亡き今、彼のトレンチコートだけがデリラを守るものなのだろう。

 届けた時、ポケットにはアーネストの書いたメモが入っていた。


――このコートがランズ・エンドとデリラの元に帰還することを願う。故郷を思うとき、僕の魂は既に帰っている。


 アーネストの遺体は全部集められなかった。

 デリラにはアーネストと短期間暮らした小さな家と、戦場の泥にまみれたトレンチコートだけがのこされた。

「帰ったって、住む家はあっても、村のやつらはあたしを避けるし、陰口を叩くはず。それに働き口が見つかるかどうか」

「教会はいつでもきみを歓迎する。私にできることがあれば

――」

 彼女はそれで、刺すような視線と共に私の言葉をさえぎって言ったのだった。

「前もあんたはそう言った。でも助けてくれない。あんたも、神も、口ばっかりは優しく正しいようなことを言って、実際に助けてくれたことはない」

 事件前まで、デリラは村外れの工場で働いていた。同僚の女たちとの交流は薄く、賃金はそう高くない。助けてくれる身内もいない未亡人のつましい独り暮らしは、筋の悪い男たちの格好のからかい対象だった。

 何人かと噂が流れ、陰で売春しているのだと悪口を言われるようになった頃、彼女は自宅のキッチンで近所に住むデイヴィス氏を刺した。



   *   *   *



 戦場で敵を殺せば手柄だが、味方を殺せば裏切り者である。戦場で敵を殺せば手柄だが、戦場でない一般社会で人を殺せば罪である。一般社会で人に手を下して罪とされない例外は例えば死刑執行人だ。戦場ではあらゆる兵士が敵兵に対する死刑執行を強いられるとも言える。

 私は従軍神父として戦場にいた。

 敵を殺すことに対する葛藤、後悔、戦闘の恐怖、死者たちへの罪悪感。前線での毎日が産み出すそうした気持ちをたくさんの兵士たちから聞いた。内容は誰にも明かさなくていいので、彼らも安心して話ができる。

 負傷兵の話も聞いた。もう死ぬと悟った彼らが言い遺すことを聞き、臨終の秘蹟を行う。

 罪のゆるしを得ずに死ぬことは恐怖だ。地獄行きの確約だから。臨終の秘蹟により赦しを得れば煉獄を経て天国に至る道がある。それゆえ、死に溢れた前線において神父が必要とされた。兵士は、せめて神父のいる所まで運ばれ、臨終の秘蹟を受けて死にたいと言う。

 私は自分が、兵士たちを敵に対する死刑執行人として動かすための道具なのだということは自覚していた。

 それが仮に罪であったとしても、恐怖に震え死にゆく兵士たちの心をわずかでも軽くできていたのなら、もはやそれで良いと思う。私は心より悲しみ悔いて過去よりも正しい行いをしようと務める。悔い改めれば神はお許しくださるとたくさんの人々に話してきた。私にはその通り生き続ける責任がある。

 アーネストを看取みとったのも私だ。

 私は彼の額に聖油を塗り、きみの願い通りにするから心配するな、と語りかけた。彼は微笑ほほえんでうなずくと、みるみる真っ青になり、まもなく息を引き取った。

 その彼の遺体が全部拾えなかったのは、直後、医療テントが榴弾砲で攻撃されたからだ。

 アーネストから事前に受け取って自分の荷物に入れていたトレンチコートだけが遺された。

 後日、ランズ・エンドに帰ったその足で私はデリラの家を訪ね、コートを渡し、ポケットのメモを一緒に読み、そして――あの時も言った。教会はいつでもきみを歓迎する、私にできることがあれば言ってくれ、と。

 その時デリラは、誰にも何もできるはずがない、とだけ答えた。



   *



 アーネストの死を伝えられてから事件の少し前まで、デリラは日曜ごとに教会に来ていたが、村の人々との交流はほとんどなかった。

 私は村でデリラを見掛けると声を掛けるようにしていた。そして、嵐や雪の後には彼女の家を訪ねた。手に入れた家が古く、まだあちこち直さないといけないとアーネストが言っていたからだ。案の定、雨漏りしたり、よろいや水道が壊れたりしていて、それでも彼女はあの泥のようなまなしのまま独りでその家にいた。私は随分あの家の修理をしたものだ。


 捨て子だったデリラは村の鍛冶屋の夫婦に育てられたが、生活はひどいもので養父母も嫌われ者だったため、小さい頃から友達がいなかったという。すさんだ、愛想のない、手癖の悪い子だと言われて村社会では避けられ、養父母に殴られて育った。その養父が酒で早死にすると、養母は親類を頼って一人で村を去る。残されたデリラは工場の仕事を続け、配送の仕事をしていた年上のアーネストが彼女を見初みそめたという。

 私がランズ・エンドに越したとき、彼らは新婚の夫婦だった。アーネストと私はすぐに親しくなり、間もなく共に出征することになった。

 そして、戻ったのは私だけ。

 戦後も、デリラは相変わらず村の人々に避けられていた。店に行けば物を売ってはもらえるがツケは断られ、人々の付き合いの輪に呼ばれることもない。辛うじて、神父の私が彼女を気にかけているからという理由で、彼女は村内で買い物ができていた。

 恐らくあの頃、買い物や仕事のやり取り以外でデリラとまともに口を利いた相手は私くらいのものだったに違いない。彼女は孤立していた。

 そして、悪い男たちがデリラに目をつけた。父も兄も祖父もいない、夫も死にその家族もいない女。何かあっても後ろ楯の全くない女。そんな女であれば自分の身に起きたことを誰にも言うまいし、言ったところで周囲も取り合わない。が起こりにくい。

 だから、奴らは順番にデリラを襲った。

 一人が襲い、その後でデリラに口止めの呪いをかけた。誰にも言うな、言ったところで誰も信じない、お前が誘ったに違いないと誰だって思うはずだ、と。

 二人目がデリラを襲い、また呪いをかけた。抵抗すれば一人目の男と寝たことを村中にばらす、と。

 妻子ある男との不貞が明るみになれば、割りを食うのはデリラの方だった。一人目の男は工場長だったから、職を失い生きていけなくなる。

 それに、男たちは事後に必ず少額の金を置いていった。の代金としてはあまりにも安い額だったが、後の調べではそれが身体を売った証拠と見なされ、彼女の心証は極めて悪いものとなってしまった。

 デリラはその頃から教会に来なくなった。同時に、彼女が売春しているという噂が流れ始めた。

 不審に思った私は何度かデリラを訪ねたが何も話してはくれず、そうこうしているうちに彼女は工場長リチャード・デイヴィスを刺した。売春の汚名を着せられたにせよ、彼が死ななかったのはデリラにとって不幸中の幸いだ。絞首刑にならずに済んだのだから。



   *   *   *



 私は、その後のランズ・エンドについてデリラに話している。

「あのあとデイヴィス氏は別の町に越していった。実際、彼のしたことを知って社長が激怒したんだ。辞表を出せの一言だったそうだよ」

「興味ない」

「エリオット氏は元からのアルコール依存が酷くなって、山向こうの療養施設に行った。そこで過去の悪事を話しはじめたので」

「興味ないったら」

「――そちらの署を通じて連絡が来て、大騒ぎだったよ。当時ランズ・エンド署ではきみの供述を否定したのに、それをまるまるひっくり返す内容だったからね。きみがいない間に署内は異動でかなり人が変わっていて、今度はまともに調べ始めたというわけ。

 それで恐ろしくなったのか、ウィテカー氏がきみにしたことを自白しに来て、当時きみに不利な工作をしたコリンズ巡査長やデイヴィス氏もろとも取り調べになった。色々矛盾も証拠も見つかって、結局きみがデイヴィス氏を刺したのは正当防衛だったと」

「え?」

「だから減刑になって、二年も早く出られたんだよ、デリラ。そう書いて送ったのに、きみは私の手紙なんか読んでいなかったんだろう?」

 デリラの泥の瞳にぽつりと一点、何かがともったように見えた。

「読んでない」

「やっぱりね」

「だって――だって、届かなかった。看守にわいも払えないあたしには、何にも届けてくれなかった」

「予想通りだ。ランズ・エンド署は結構頑張ったんだが、警察上部はこの件を表向き揉み消してしまったから、公的ルートでの通達もなかった。だから今話す」

「じゃああんたは、今朝あたしがことを知ってたの」

「もちろん。きみの身元引請人は私だから、さすがにその連絡は来たよ」

「それなら、たまたま駅に来てたなんて嘘じゃない。神父が嘘をついたわけ?」

「用事があったのは本当だよ。きみの出所にその用事の方を合わせたのさ」

「呆れた人、ハント神父、あんたって――」

「久し振りに名前を呼んでくれたね、デリラ」

 車窓に飛び散るように雨滴がつき始めた。雲は黒く、これから大雨になるだろう。雷が鳴るかもしれない。教会の屋根は無事だろうか、最近雨漏りする場所がある。



   *   *   *



 彼らの告解を繰り返し聞かされることは苦痛だった。しかしこれも神が与えたもうた試練であり、そんなことで我を失うようでは神父は務まらない。

 私は祈り、赦し、理性を保った。

 そうしながら、誰を説得しようか考えた。デイヴィス氏は遠くに越してしまって会うことが難しい。ウィテカー氏はあまり教会に来ないし人前では貝のように黙りこくる男だ。コリンズ巡査長は立場上なかなか口を割らないだろう。となると、当時すでに酒で弱っていたエリオット氏が一番良さそうだった。実際、彼らがデリラに何をしたか語る告解は殆どエリオット氏によるものだった。

 をするよう時間をかけて勧めた。罪悪感と恐怖から彼の飲酒は一時的に酷くなったが、施設への収容がすみやかにできたのはかえってよかった。そして、ランズ・エンドから離れ施設で守られることがはっきりして彼はやっと、――自白ができた。

 そもそも隠し通せてはいなかった。工場長デイヴィス氏が社長に辞職を迫られたのがその証拠だ。私は社長に何も話していない。神父は告解の内容も告解があったかどうかも誰にも明かさない。だが社長は事実を知っていた。

 一部の人々の間では、誰が悪いか既に知られていたのだ。

 それでも誰もデリラを救おうと行動することはなかった。

 エリオット氏の告白のあと恐慌状態になって警察に駆け込んだウィテカー氏にしても、デリラを救うためとか罪の意識からとかではなく、早く被害者のポジションをとるための自白だった。地域にとって大切な雇用を産み出す工場の責任者であるデイヴィス氏には逆らえなかった、口止めされた、それに他にもやった奴がいたと、訴え指摘する側になるために自白したに過ぎない。

 人間はあやまちを犯す。欲に負け、保身に走る。愚かな判断をする。

 それ自体を完全に防ぐことは難しい。一方で、私の仕事は防止と同じくらい、すでに過ちを犯した人が悔い改める手助けをすることにある。

 私は留置場にいる彼ら全員の告解を聞いた。

 神は彼らを赦し給うだろうと私は信じる。心から悔い改め、正しい行いに努めるならば。

 最後に会った時、彼らは皆、打ちのめされたような表情をしていた。頼る者のない女を選んで数人がかりで暴行し、本来正当防衛だったはずの傷害もすべて彼女の責任にし刑務所に送り込んだということはもう知れ渡っている。警察が表向きは伏せたとしても、人の噂にはなるものだ。その状況で、前科者として社会に戻らなければならないことを想像し、恐れたのだろう。

 デリラのためには想像できなかったその後の暮らしのことを、自分のこととなればありありと想像でき、デリラを傷つけるために利用した偏見が、今度は自分に向けられることに怯えている。

 人間は自分勝手だ。



   *   *   *



「彼らが真に悔い改めることを願っているよ。きっと、誰もランズ・エンドには帰ってこないだろうが」

「そうなの?」

「デイヴィス氏は既に遠くに越していたし、エリオット氏は引き続き療養施設に暮らす。ウィテカー氏は農場を売って、そのお金を奥さんに渡した。奥さんも村を出たよ。コリンズ巡査長は免職、彼は他所の生まれだし、戻ってこないんじゃないかな。だからもう、当事者は誰もいない」

「……だからといって、あたしが暮らしやすくなるわけじゃない」

「それは、うん、そうだろうね」

 社長が知ったからには社長のためにそれを調べた者がいたのだ。ウィテカー氏の奥さんも、何か様子がおかしいとは思っていたと私に話した。事件当時のランズ・エンド署は握り潰したが、デイヴィス氏たちがデリラにしたことを話しているのを偶然聞いた者もいた。

 恐らく村のかなりの人が、何が起きたか悟っていたのだと思う。デリラが身体を売り何かで我を失ってデイヴィス氏を殺そうとしたのではなく、デイヴィス氏をはじめとした数人がデリラを暴行し、脅し、当然の反撃を受けたのだと。

 それでも誰もデリラを救おうと行動することはなかった。

 あのデリラのために面倒に関わりたくなんかないから。工場長や巡査長を罪人呼ばわりする告発などしたくないから。誰かが言えばいいと思っていたから。

 誰も行動せず、デリラは有罪とされ刑務所に送られた。

 本当に、人間は自分勝手だ。

 そうした住民たちで満たされた村に、デリラは今日から帰らなければならない。

「でもきみは胸を張って生きていればいい。それは少し難しいことだと思うが、きみが悪いんじゃないことは神がご存じだ。私も知ってる。ランズ・エンド署ももう知ってるし、村の人たちも本当は、分かっているんだから」

「言うだけなら簡単だけど、」

「……デリラ、皆が死ぬまでの間に」

 ざん、と強い雨が車窓を叩いた。外はすっかり薄暗く、風に揉まれる木々が次々と通り過ぎていく。

「悔い改め、正しい行いをするようになれば、神は彼らを赦す。そうなるよう導くのが私の仕事だ。私はずっとランズ・エンドにいて、そのための努力を続けよう。彼らのために。きみのために。アーネストのために」

 ずっと側にいるよ。

 そう言うと、デリラは再び自分が着ているトレンチコートをぎゅっと抱いた。



   *   *   *



 一度だけデリラは、アーネストのコートを捨てようとしたことがある。私がランズ・エンドに戻って三年ほどした頃。あの事件の少し前だ。

 彼女は、コートを捨てようと思ってる、と言い、どうして、と私は尋ねた。


――分からないの? それとも、気が付かないふりをしてるの。

――あんたを愛してる。


 もちろん気付いていた。けれども、何もしなかった。とがめるようなことを言ってデリラが私から遠ざかることは避けたかったし、彼女の気持ちを受け入れることもできない。


――デリラ、私は神父なんだ。分かってほしい。


 どん、とこぶしで身体を叩かれた。あまり強くはなかった。デリラは泣きそうな顔をしていた。


――神が見てるから何もできないって言うの?


――神は常にそばにおられる。


――あたしの気持ちも神は許さない? 何様なの!


――デリラ、そんな風に言ってはいけない。神はきみを愛し、


――あんたに愛されたいの。愛しているから!

――苦しくてたまらない。あたしを助けてよ。


 子供が我儘わがままを言うようにデリラはそう言って、私に抱きついた。

 アーネスト、と私は、心のうちに友の名を呼んだ。

 この淋しい人を置いて行かなければならなかったなんて、どんなに心配だっただろう。私は彼の心配を少しでも取り除けただろうか。

 私はこれからもこの人の助けになれるだろうか?

 デリラの背中を穏やかに叩いて、私は彼女に謝った。


――きみの望むようにできなくて済まない。

――でもきみのことは、心から大事に思ってる。


 デリラは私を突き飛ばすように離れ、後ろを向いて、出て行って、と怒鳴った。

 泣いていることは肩の震えから分かった。けれども私にできることはない。

 私は彼女の家を辞し、真っ直ぐ教会に帰り、祭壇の前に膝をついて祈った。

 デリラが神の愛を感じるように。神のお導きがあるように。

 そしてこの私が、道をあやまたぬように。


 半年後、彼女は有罪になった。



   *   *   *



 列車は豪雨の中を突き進んでいる。

 私は努めて明るい口調で続けた。

「さあ、じゃあ次は、きみの家の話だ。前からいたんでいたところは全部修繕済みだ。

 ランズ・エンド署は付近の見回りを増やす。新しく来た警部補というのが、きみの事件を調べ直して上層部とも最後まで掛け合った人で、きみの信頼を取り戻すために努力は惜しまないと言ってるから、困ったことがあれば相談するといい。

 それからきみのいた工場の社長が、元通り勤めてほしいと言ってる。

 教会の手伝いをしてくれるご婦人がたは、きみが孤立しているとき見て見ぬふりをしていたことをとても後悔していて、気が向いたら集会やバザーに顔を出してくれたら嬉しいと」

「待って、ハント神父、ちょっと」

 デリラは座席から身を乗り出すようにして言葉を挟んだ。

「困る。あたし、家の修繕費用なんて持ってない……」

「もう支払い済みだ、必要ない。ウィテカー氏の奥さんが私に頼んでいった。農場を売ったお金の一部を持ってきて、きみの暮らしが立つように必要なことに使ってくれとね。その時ちょうど工場の社長がいて、足りない分を全部出すのできみの家を心地よく住めるように修繕して迎えたいと提案してくれた」

「変でしょ。みんな、あんなにあたしを嫌っていたのに。長年、事件の前から、アーネストと結婚するずっと前から」

「大した理由なく嫌っていたということだよ。おおむねきみの養父母が原因であってきみ自身の問題ではなかったんだろう。ありがちなことだが」

 人の連帯は明るくいものばかりとは限らない。特定の誰かを一緒にさげすみ差別し攻撃することによって生まれる連帯もある。そうした暗い連帯からは逃れがたいものだ。多くは、それによって自分に優越感や正統性を得られる構造になっているから。快楽と秘密を分け合う連帯は人をからめ取る。デリラに暴行した男たちがそうであったように。

 だが、冷静に考えてみると相手には特に非がない。自分こそ理不尽なことをしていたらしい――そう気付いたあと、どう振る舞うかが人の運命を分ける。

「それにしたって急に、おかしいじゃない」

 デリラは私をじっと見る。

「あんた、村の人たちを洗脳した?」

 私は笑ってしまった。

「洗脳ではないよ、デリラ。きみがいない間、心を込めて皆と接していただけだ。まあ、私はアーネストやきみの話をよくしていたし、きみが留守にしている家に変わりがないか見に行くのを習慣にしていたからね。それに、どうも真相がというのは村の皆が感じていたことだろうし、そうこうしているうちに再捜査が始まって――あの狭い村だよ。さっきも言った通り、そのあたりの事情はおおかた全部伝わってるのさ。

 それにデリラ、急にじゃない。きみは丸一年も留守にしていたんだよ。私がをするには、十分な時間だ」

 悔い改め、正しい行いをするようになれば、神は彼らを赦す。そうなるよう導くのが私の仕事だ。

 先程言ったことをもう一度繰り返すと、デリラはもたれに身体を戻した。驚いているようだった。

「あんたって、……信じられない。みんなの弱味でも握ったんじゃ」

「脅したりしてない」

「だって、信じられない。おかしいよ。そんな風に手のひらを返すはずない」

「デリラ、彼らも人間だ。ところなんだと思うよ」

 彼女に対する罪悪感から逃れるために、お金を出したり職を見付けたり、人の輪に招いたりしている、それはそうかもしれない。

 自分が許されるためにしていることであって、気持ちはまだ以前と変わっていないのかもしれない。今の時点ではそういう、自分勝手なものかもしれないのだ。

 けれども、それでも、現実に起こす行いこそが人を救う。

 行いを受けた者と、行う者との両方を救う、それこそが神の御心にかなう正しい行動ではないだろうか。

「お互い初めて知り合うようなものだ。きみもやってみてごらん」

「きっとうまくいかない」

「人と人がいて一度もぶつからないことなんかないよ。口喧嘩して仲直りするのも大事だ。アーネストが言ってた、きみは人間に慣れてないってね」

「……あんたとは言い合いできる」

「そうだね。何故だと思う?」

 デリラはまたちらりと私を見た。唇が少し膨れたような形になって、これは多少言いにくいことを言うときの彼女の癖。

「あんたは……追い出しても、また来るから。何にもなかったような顔をして、そのくせまだ怒ってるかなんて訊いて、自分が悪いと思ってないくせに謝ったりする。だからあたしは、絶交したとは思われてないんだと感じる」

 大丈夫だ。分かっているなら、それで。

「きみもそうすればいいってこと」

「性に合わない」

「慣れていない、の間違いでは? アーネストと喧嘩したときはどうしてた?」

「あの人は、頭を冷やしてくると言って外に出て、帰って来て、あたしに謝った……」

 言いながら、はっとしたようにデリラはどこかを見る。

「似たようなことをしてるだろ? 私とアーネストの間だって、そうだったよ。口喧嘩して、後でどっちかが謝る。するともう一方も謝って受け入れ、仲直りする。

 ねえ、デリラ。この機会に、アーネストの跡を継いでごらん」


 デリラはもう、あの泥の眼差しをしてはいなかった。小さな光がぽつりと灯り、それが揺れて、膨れて、こぼれ落ちた。

 たぶん彼女にはできる。新しくやり直すことができる。

 私はそれをずっと側で支えよう。

 アーネストと約束したのだから。


 生涯にたった一度愛し求めた相手の、最後の頼みなのだから。



――君にこんなこと頼むなんて卑怯だと思うだろうな。でも他に誰もいない。

――デリラを頼む。僕の愛する人を、君が見守ってくれ。友だちとして。夫の親友として。

――許してくれ。アルバート・ハント、どうか。



 死に際にそう私に懇願した、アーネストは全て知っていた。彼に対する私の気持ちも、何もかも。

 本当に、いい友だちだった。

 私は、生涯をかけて彼との約束を守る。



 幾つかの平野を横切り、谷と川を渡り、やがて雨滴の流れる車窓の向こうに黒く厳しい海が見えてくると、列車は減速し、小さな駅に滑り込む。

 私とデリラが駅に降りた頃には青空が覗き、雨に洗われた世界のうえには薄い虹が掛かり始めていた。


 ランズ・エンド、かつて地のはてと呼ばれた地。

 何もかも見失っていた私が、ようやく光を見つけた地。

 今はまだどこか決まりの悪い雰囲気に満たされているが、それはつまり、これから良くなる余地のある土地だ。


 そう信じて、私は生きる。



 その道のずっと先にきっと、アーネスト、きみと、そして神がいる。










〈了〉








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