涙のわけは

きさらぎみやび

涙のわけは

 物事には、得てしてタイミングというものがある。

 それは神の采配か偶然の産物かは人の身には知る由もないが、それでその人の人生が決まってしまうことも往々にしてあるのだ。


 タウン誌の編集をしている私は、「わが町自慢の人々」と言うミニコーナーを担当している。町に住むごく一般の人にインタビューをして記事にしているのだけど意外とこれが好評で、この記事を目当てにタウン誌を手に取る人が結構いると聞いている。


 今日の取材対象は年配のご夫妻だった。


 藤本武夫さんと妻の洋子さんは近所でも評判の仲の良い夫婦だった。

 既に子供も独立し、今では二人暮らしとなっているが、夫婦二人で近所のスーパーで買い物をしているときなどは武夫さんが洋子さんを気遣って買い物かごを持ち、寄り添うように歩いているところを近所の人たちが微笑ましく見ているという。


 ご自宅にお伺いし、お二人に話を聞いてみると、二人の馴れ初めは意外なものだった。


 話は数十年前に遡る。当時の武夫さんは近所でも手を付けられないくらいの不良だった。夜な夜な不良仲間の家に入り浸り、親の財布から金を抜き出してはその金で勝手に豪勢な出前を取ったり、賭け事をしたりと好き放題していたという。


 その日も武夫さんは不良仲間の一人の家に数人で押しかけて、その家の居間を占領して我が物顔で酒盛りをしていた。騒いでいれば腹も減ってくる。その仲間はすっかり怯えてしまった彼の両親の代わりに自分の妹を呼びつけて、「おい、これで出前でも呼んで来いよ。寿司がいいな、寿司が」そう言って親の財布から当然のように万札を数枚抜き取ると、怯えた様子の妹に渡し、出前の手配をさせていた。

 その妹が洋子さんだった。

 出前が来ると当然のように妹に居間まで持ってこさせ、用が済めば邪魔者のように追い払う。


 そんな状況の中、酒を飲みすぎたのか、もよおしてきた武夫さんは手洗いに立ったのだが、酔っていることに加えて不案内な他人の家のために手洗いの場所が分からない。

 その時偶然にも武夫さんは洋子さんが台所で一筋の涙を流しているところを見てしまった。彼女はこちらに気がついていない様子だったが、流しの縁を掴み何かを堪える様に口元を引き結んで俯く彼女の頬をつう、と一筋の涙が伝っていく。武夫さんはその姿を先ほどまでの酔いも忘れてただ見つめていた。


(なんて健気な子なんだ……)


 その時、武夫さんの心にこの子を守ってあげたい、という強い思いがあふれ出る様に芽生えていた。おずおずと洋子さんに声をかける。


「あの……」


 途端に彼女は驚いたように振り向いて、慌てて目元を伝っていた涙を拭う。


「あ、すいません……。お手洗いですか?」


 焦った様子でお手洗いまで武夫さんを案内する彼女の目元は、涙のせいか少し赤く腫れていた。


 その日以来、武夫さんは人が変わったかのように真面目になり、仕事にもつき、そして洋子さんへ熱烈なプロポーズをして晴れて夫婦になったのだという。武夫さんはインタビューの最中も見ているこちらが恥ずかしくなるくらい洋子さんにベタ惚れの様子だった。


「いやいや、うちの家内は良くできた人でね、贅沢もしないでよく私についてきてくれましたよ。この間の家内の誕生日の時もね、私が今まで苦労したんだから、寿司の一つも食べていいんだよと言うのにもったいないと頑なに断ってまったく手をつけないんだよ」


 そう言う武夫さんの顔はほころんでおり、妻の事をとても大事に思っていることが分かる。武夫さんがそう言っている間、洋子さんは恥ずかしそうに少し俯いていた。


 ちょっと失礼と言って、武夫さんがお手洗いに立った間に、私は洋子さんに話かけた。


「素敵なご主人ですね。出会いのエピソードも洋子さんの涙に一目ぼれなんて素敵じゃないですか」


 すると洋子さんは恥ずかしそうに声を潜めてこちらに話してきた。


「……記者さんには教えますけどね、あの時私は出前の寿司をこっそりつまみ食いしてたんですよ」

「え?」

「ですからね、夫が見た時の私は、寿司のワサビがあんまり辛くて泣いていただけなんです。それ以来ワサビがダメでね。未だに寿司が食べられないんですよ」

「じゃあ、あの話は武夫さんの勘違いなんですか……?」

「そうです。まあそれであんなに素敵な夫が出来たんだから、感謝しなきゃですけどね」


 そう言って洋子さんはなんとも言えない笑みを浮かべたのだった。



 物事には、得てしてタイミングというものがある。

 それは神の采配か偶然の産物かは人の身には知る由もないが、それでその人の人生が決まってしまうことも往々にしてあるのだ。

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