ふくぼんっ!~別れるつもりなんてなかったのに~

くろねこどらごん

別れるつもりなんてなかったのに

ゲームというものは男なら、誰しもが一度は熱中することがあると思う。


俺、篠原浩輝もゲームが大好きで、昔は近所に住む幼馴染とともによく遊んでいたものだ。

今はとある事情によりスマホゲーム以外に手を出してはいないけど、それでもゲームを愛する気持ちは一向に変わっていないつもりである。


だけど、だからといって必ずしも皆が皆、ゲームが好きというわけじゃない。

あくまで寛容な土壌ができているというだけだ。

特に女の子はゲームに入れ込む男を理解できない子も多いと聞くし、それが事実であることを、俺はよく知っている。



だからまぁこれは、俺の失態なのだろう。

ゲームでいえば選択を間違えて、序盤のモンスターにやられるくらいのイージーミスを、その日の自分はやらかしてしまったのだ。





それはとある休日。多くの人で賑わうモールの片隅。

そのなかでベンチで座り込み、スマホに集中している俺の耳に、とある女の子の声が飛び込んできた。


「こうくん、私を放っておいてなにしてんのよ」


とても綺麗で聞き覚えがある声だった。さらにいえば、その声色は明らかに怒っている。

まずいと直感し、反射的に顔を上げると、案の定顔を不機嫌そうに歪ませ、目を吊り上げた幼馴染の姿がそこにあった。


「あ、あず。これはだな…」


「彼女を店に置き去りにして、自分はゲームなんかに夢中になってたんだ。サイッテー」


彼女は冷たい目で俺を見下ろすと、視線を外してそっぽを向いた。

それを見て、俺は大いに慌ててしまう。


「ご、ごめん!ちょっと休むだけのつもりが、つい…」


「言い訳とかいいから。トイレ行くっていうから待ってたのにこれだもの。呆れてものも言えないし」


「うう…」


これはまずい流れだ。完全にやらかしてしまったことを自覚して、頭を抱えそうになってしまう。

俺の幼馴染にして彼女である曽木山あずさは、一度機嫌を損ねるとかなり長引く子なのだ。

特に今日は久しぶりのデートということもあり、ここにくるまでだいぶ機嫌が良かったものだから、その反動もあるのだろう。


(周りも皆あずを見てるし、すげぇ気まずい…)


あずは学年でも一番と言える美人であり、ファッションに疎い俺でも分かるくらいオシャレに決めた服装に、背中まで流した綺麗な黒髪を今はツーサイドアップに変えているその立ち姿は、休日の人が混み合うこのショッピングモールにおいても一際目立つ。

多くの人達があずを見て振り返っていたが、美人の怒っている顔がどれほどの迫力を伴うものなのかを知る人間は、彼らのなかに一体どれほどいるのだろうか。


「知らぬが仏ってやつだろうな…」


スマホをそそくさとジャケットの内ポケットにしまうと、気難しい姫様に気付かれないよう、俺は小さく嘆息した。


「なにか言った?」


「い、いや、なにも言ってないよ」


やべ、忘れてた。この幼馴染は耳がいいのだ。

騒がしいこの場所においても、彼女は自慢の聴力で俺の声を聞き分けていたらしい。

追求されてこれ以上拗れたら、今日のデートは大失敗に終わってしまうことだろう。


「ほんと?アズ、嘘は嫌いなんだけど」


「ほんとだって。そ、それよりさ、そろそろ飯行かないか?腹減ったろ?」


それは嫌だった。彼女に嫌われたくなんてない。

その一心から必死に頭を働かせ、出た答えが昼食の誘いだった。

……情けないとか言わないでくれ。少なくとも今の俺には、これしか思いつかなかったんだ。


「ご飯ねぇ…まぁいいけど。でも、それで済むと思われた嫌なんだけど。アズ、そんな安い女じゃないし」


「そ、それは分かってるよ。あ、荷物持つから」


呆れた顔をしつつも、あずは俺の提案に頷いてくれた。

この調子では後でなにか買わされそうだが、そのために日頃バイトに勤しんでいるようなものである。

財布にもまだ余裕があるし、俺はとにかくこの美人な彼女の機嫌を取ろうと必死だった。


「そうね。じゃあこれ、落とさないでよ」


店で買ったらしい夏物の洋服が入った紙袋を受け取ると、早く移動しようと思い、ベンチに置かれた他の袋にも手を伸ばす。


(これがなかったらなぁ…まぁ言っても仕方ないんだけど)


これまで既に何件かのアパレルショップをハシゴしており、そのたびに結構な時間を待たされることになった俺は少し疲れてしまい、トイレに行くという名目で荷物を抱え、ひとまず休むもうと外に出たのが失敗だった。


「じゃあさっさと行きましょ。言っとくけど、次にゲームしてたら…わかってるよね?」


「も、もちろん」


「そ。ならいいや」


コクコクと頷く俺をつまらなそうに一瞥すると、あずは足を前へと踏み出していく。

用を足した後、少しだけ休憩するだけのつもりが、アプリのレイドバトルが今日から始まることをふと思い出し、ちょっとだけなら大丈夫だろうと魔が差してしまったのも悪かったと思う。

彼女が昔から大のゲーム嫌いであることを知っていたというのに、デート中につい夢中になってしまうとは…誘惑に抗えなかった自分がどうにも恨めしい。


(それを差し引いても、デートのたびにこれだもんな。そのうち血でも吐きそうだよ…)


正直、生きた心地がまるでしない。

あずと付き合い始めてからずっと、俺の胸には不安の種が渦巻いている。

俺はこれからどうなるか心の中で慄きながら、鼻息荒く前を歩くあずに続くように、荷物を抱えてレストラン街のほうへと足を向けた。








「なかなか美味しかったわ。ごちそうさま」


しばしの待ち時間の後、確保した席で俺たちは食事にありついていた。

俺は海鮮丼、あずさは冷製パスタをそれぞれ頼み、舌鼓を打っていたのだが、彼女のほうが先に食べ終わったらしい。


「ハハ…なら良かった…」


まぁそりゃそうだろう。あずさが料理を注文する際、金を払ったのは俺なのだ。

その後に自分の料理を注文したわけだから、時間差で俺が遅くなるのは道理である。

これは俺たちのデートにおいては、いつもの光景だった。


「俺の方も結構イケるよ、うん。美味いなこれ」


フォークを置いて口元を拭うあずを見て、俺は箸を適度に動かしつつ、愛想笑いを浮かべていた。

デート代は基本俺持ちであるため、昼飯を食べる時は俺が財布を出すのが常なのだ。


さも当たり前のようにトレイを持って、自分の財布を取り出す仕草すら見せないあずに思うところがないわけではなかったが、これで彼女の機嫌が直るならお安い御用である。


「もー、こうくんはいつまで食べてるの。早く食べ終わってよ、午後も行きたいお店まだまだあるんだから!」


だけど、あずはそんなことは知らないとばかりに俺を急かした。


「!わ、悪い!すぐ食べ終わるから!」


これ以上彼女の機嫌を損ねるのはゴメンだったため、大慌てで残りのご飯を腹の中へとかきこんでいく。


「イチイチ待たせないでよ全く…あ、そうだ。ちょうどいいし、ここでさっきの借りを返してもらおうかな」


むせそうになりながらもなんとか食べ終え、茶碗をトレイに置いて立ち上がろうとしたのだが、何故かあずはその場から動こうとしなかった。

ニヤニヤと意地の悪い表情を浮かべているが、どうやらなにか思いついたらしい。

その綺麗だけどどこか不吉な笑顔を見て、俺は悪い予感がした。

こういう顔をしたあずは大抵の場合、俺にとって都合の悪いことを要求してくることを、長年の経験から理解している。


「借りって…」


「決まってるでしょ。さっき私を放っておいてゲームしてたでしょ。あれよ、あれ」


だけど、理解しているからといって対処できるかはまた別の話だ。

俺とあずの間には目には見えない、だけど明確な上下関係が、確かに存在していたのだから。


「それは…だからこうしてご飯を奢ったしさ。それにいつものデートでだって…」


「彼氏が彼女に奢るなんて当然のことじゃない!女の子はお金がかかるの!こうくんだって、アズみたいな可愛い彼女と一緒に歩けるんだから役得でしょ。なんの問題があるのよ!」


そう言ってあずは激昂する。いつものことだった。

彼女は自分の可愛さを自覚しており、それを磨こうとファッションの勉強を怠っていないことは知っている。

事実あずはセンスが良く、クラスの女子からもよく相談されるほど頼られており、女子のリーダーの座は実質彼女に収まっていた。


普段は猫を被っているのだが、日頃のストレスが溜まっているのか、幼馴染でもある俺の前ではこうして感情的な面をよく覗かせる。

他の誰にも見せない彼氏の特権と思えば、それも最初は嬉しくはあったのだが、徐々にあずの癇癪が俺にとっての恐怖へと変わっていくのに、さほど時間はかからなかった。


「ご、ごめん…だよな、当然だったよ。悪い、変なこと言っちゃって…」


すかさず俺はなだめにかかる。これも慣れたものだ。

あずの前では機嫌を損ねないよう、なるべく卑屈に振る舞うことがもはや当たり前になりつつあった。


「ふぅ、ふぅ…わ、わかればいいのよ…でもさぁ、こうくんったら変なこと言うんだもん。アズ、機嫌損ねちゃった。あーあ、こうくんのせいだよ」


荒い息をそのままに、あずはわざとらしく大きなため息を吐いてゆく。

それを見て、俺は思わず頬を引きつらせてしまう。


「あ、あず。ごめん、俺が…」


この後に彼女が言うセリフがどんなのものであるかを、よく知っているからだ。




「アズをイライラさせちゃうなんて…こうくんとは、もう別れちゃおうかな」


「!?」


そしてあずもまた、自分の言葉がどれほど効果があるのかを、あるいは俺以上に理解しているに違いなかった。

別れを告げられた瞬間には心臓が飛び跳ね、思わず身を乗り出して彼女に懇願してしまうくらいには、ひどく分かりやすいリアクションをこうして取ってしまっているのだから。


「ま、待ってくれ!それだけは…!」


「だってこうくん、すぐ言い訳するんだもの。そういう男らしくない人って、アズの趣味じゃないのよねぇ」


あずは必死に頼み込む俺などどこ吹く風とばかりに一瞥もくれず、自分のネイルを適当にいじりだしていた。明らかに分かってやっているのだろう。

その証拠に口元はニヤついており、今にも笑いだしそうになっているのを懸命にこらえているのが見て取れる。

だが、手玉に取られているのがわかったところで、それは何の意味もないことだ。


「これから直すよ!あずさ好みの男になれるよう努力する!だから、別れるなんて言わないでくれ…!」


恥も外聞もかなぐり捨て、俺はあずに頭を下げる。

こういうのをきっと、惚れた弱みというのだろう。

俺があずのことが好きなのは覆しようのない事実であり、彼女と別れたくないという気持ちもまた、嘘偽りのない真実だからだ。


「フーン、そんなにアズと付き合い続けたいんだ。そんなにアズが好きなんだ…♪」


そうしていると、頭上から声が降ってくる。

少なくとも機嫌は悪くなさそうだ。


「ああ、だから頼むよ。これからも俺と付き合ってくれ!」


ここが勝負どころだとばかりに、俺は再度彼女に頼み込む。

精一杯の誠意を込めて彼女に懇願するくらいしか、俺にできることはない。

これまで何回も、俺たちは似たような会話を繰り返してきたのだから。





あずに別れを告げられたのは、今回が初めてというわけじゃなかった。

それこそ過去を振り返れば、幾度となく宣告されてきた言葉だ。


機嫌が悪いとき、あずの機嫌を損ねることがあったときなどに、彼女は鼻歌でも歌うような軽さをもって、俺に別れを突きつけてくる。

実際本気で別れを考えているのかは定かではないが、そのたびに俺は彼女に必死で頼み込み、別れることだけは思い留めてもらっているのが現状だった。


「…フフッ、そこまで言うならまぁ、いいかな♪」


「ほんとか!?」


「うん、アズの言うこと聞いてくれたらね」


あずはニッコリと微笑みながら、そう頷き返してくれた。


(良かった…本当に良かった)


思わず安堵の息が漏れる。だけどまだだ。まだあずは何かを求めようとしている。緩みかけた気を改めて引き締め、俺は彼女に向き直った。


「なんでも言ってくれ。できることならなんでもするからさ」


「そう?まぁ別にそんな難しいことじゃないんだけどね。この場ですぐ終わることだし」


イタズラっぽくあずさが笑う。

この際どんな要求をされようが構わなかった。たとえなにを言われようとも、俺はあずの言い分を全て呑み込む覚悟がある。



そう思っていたのだが、



「じゃあさ、さっきこうくんがやってたゲーム、今すぐこの場で消してくれない?」



その要求は俺にとって、到底受け入れがたいものだった。



「え……あ、あず、それは…」


「前々から言ってたじゃない。アズ、ゲームしてる人ってオタクっぽくて嫌いなの。これまでは我慢してたけど、もういい加減限界なのよね。ちょうどいい機会だし、そんなのさっさと消しちゃってよ」


尻込みする俺を無視するように、あずは自分の言い分を口にする。

大分不満を溜め込んでいたのか、言葉には刺が混じっていて饒舌だ。


だけど俺にだって引けないことくらいある。

これまであずにずっと従って、他のゲームは全て手放していたんだ。

スマホに残ったアプリゲームは、俺に残った最後の砦だ。なんとしても死守したかった。


「な、なぁ待ってくれよ。持ってたゲーム機なら全部売ったし、他にゲームなんてやってないんだぜ。別にスマホのゲームくらいに目くじら立てなくても…」


「なに?口答えするわけ?」


どうにか彼女をなだめようと試みたが、その途端、あずの切れ長の瞳が俺を射抜いた。


「うっ…」


その眼光は刃のように鋭く、思わず萎縮してしまう。

そしてその隙を逃すほど、曽木山あずさという少女は甘くない。


「もう一度言うけど、アズは嫌なの。私に画面を見せながらアプリを消して。じゃなきゃ別れるから。言っておくけど本気だよ」


これが最後のチャンスだからと付け加え、あずは背もたれに寄りかかる。

その顔にはなんとも言い難い、勝者の余裕のようなものが浮かんでいた。

俺がどう答えるのか、確信しているのだろう。それは正しい。

選択を突きつけているようで、他に選べる回答がないのは事実なのだから。


「……わかった、よ」


俺が力なく頷くと、あずはニッコリと微笑んで、その綺麗な手をこちらに差し出してくるのだった。










「―――で、消しちゃったんだ。あのゲーム。あんなにやりこんでたのに」


あくる日の夕方。とあるゲームショップにバイトのために訪れていた俺は、この店の制服であるエプロンを付けた女の子の責めるような口調を前に、思わず身を縮こまらせていた。


「……はい」


「アンタねぇ。そこはハッキリ断んなさいよ。おかげでアタシのほうまで被害受けてたんですけど。コウの援護期待してたのに、サッパリログインしないからもうどうしたのかと思ってたら…」


呆れたとばかりに盛大にため息をつく彼女の名前は園田理香。

俺のバイトの先輩にして、同じ学校に通うひとつ上の幼馴染でもあったりする。

さらにいえば俺が先日アンインストールさせられたゲームに誘ってくれたのも理香ねぇだった。


「それに関しては本当に悪いと思ってたんだけど、その、バツが悪くて…」


「店長だって心配してたわよ。あんなにいつもいるはずの篠原くんが全然ログインしてないんだけどどうしたのって…いや、それもそれで問題あるんだけどね」


そう言ってバックヤードに目を向ける理香ねぇの目は冷ややかだ。

姉御肌であり常識人でもある我が幼馴染は、実質この店における一番の権力者であることは、バイト仲間の間では有名な話だった。


「ま、とりあえず仕事しながら話しましょ。幸い今はお客さんもいないしね」


「あ、うん」


そういうと理香ねぇは綺麗に切りそろえられた姫カットの黒髪を僅かに揺らし、品出しの作業を再開する。

俺も慌てて手を動かすも、理香ねぇのことが今は気になって仕方なかった。


ここまでいえばわかってもらえるかもしれないが、彼女は俺にとってゲーム好きの同士であり、このバイトを俺に紹介してくれた恩人でもあったのだ。

そうなると必然頭の上がらない存在でもあるわけで…裏切るような真似をしてしまった今は、とてもバツの悪い相手だった。


「ごめん、理香ねぇ…」


「謝らなくていいから。だけど、せめて報告くらいはしなさい。毎日遊んでたフレンドが急にいなくなったら不安になるでしょ…アタシも、これでも心配したんだからね」


そう言って目をそらす理香ねぇの顔には不安の色が滲んでいた。どうやら本当に心配をかけてしまっていたらしい。胸が痛む。


(人に迷惑かけてばっかりだな、俺…情けねぇよ…)


気持ちが次第に沈んでいき、顔を下に向けていると、肩をポンと叩かれた。

細くて小さな、理香ねぇの手だった。


「そんな顔しないの。コウに怒ってるわけじゃないからさ。アタシが怒ってるのはあずさに対してよ。あの子、あれだけ言ったのに全然懲りてないのね…」


またも大きなため息をつく理香ねぇ。

俺の幼馴染ということは必然あずとも幼い頃から面識があるのだが、ふたりは昔からどうにも相性が悪いらしい。


その理由はちょっと考えれば容易に分かるものではある。

ワガママで癇癪持ちのあずと、姉御肌で面倒見のいい理香ねぇの組み合わせは傍から見れば、水と油の関係にも等しいからだ。


誰かに指図されることを基本嫌うあずにとって、事あるごとに説教してくる理香ねぇは目の上のたんこぶといっても差し支えないだろう。

俺からすればちょっと怖いところはあるけど、頼りになる優しいお姉さんといった印象が強いため、理香ねぇに対する悪感情はまるでない。むしろ好意しかないが、あずからすれば顔も合わせたくない相手のようだ。

ここでバイトをすると決めたときも散々駄々をこねられ、夏休みに俺持ちで旅行に行くことを条件にようやく許してもらったほどである。


(俺が思っている以上に、ふたりの関係は溝が深いのかもしれないな…)


かといって俺がどうこうできるわけでもない。

少なくとも表立って対立しているわけでもないし、俺だってあずとの関係が良好とはいえないのだ。

下手に首を突っ込んだら火傷するのは目に見えている。少なくとも今の時点で、何かできることもないだろう。

そんなことを考えていると、不意に理香ねぇが口を開いた。


「……ねぇ、コウ。アンタ、あずさと付き合ってて楽しい?」


どこかか細い声だった。いつもハキハキとした理香ねぇに似つかわしくない、自信のない声。

この人の弱気な姿など滅多に見たことがなかったため、思わず面食らってしまう。


「えっと…なんでそんなことを聞くのかわからないけど、楽しいよ」


それでも聞かれた以上、答えなくてはならないだろう。

少し言葉に詰まりながらも、思っていることを口にした。

思うところがないわけではないけど、それでも俺はあずと付き合えて幸せだからだ。


「ほんとに?」


だというのに、何故か理香ねぇは再度俺に尋ねてくる。

間髪入れずに聞いてくるその姿勢は、まるであずへの気持ちを疑われているかのようで、思わずムッとしてしまう。


「ほんとだよ。なんでそんなこと聞くのさ」


俺は今の気持ちを正直に話したつもりだ。そうだよ、俺はあずに不満なんて…


「じゃあちょっと質問変えよっか。あずさのほうはどう?コウと付き合ってて、楽しそうに見える?」


また妙な質問だった。

今度はあずに関することを聞いてきたが、そんなことは本人に確認すればいいだろうに。


あずの気持ちは、あずにしかわからないことだ。

楽しいと思っていて欲しいと願ってはいるけど、どうしても口癖のように別れを突きつけてくる彼女の姿が、脳裏に浮かんでしまう。



―――こうくんが言うことを聞いてくれないなら、別れちゃおうかな



無常で残酷な言葉が、ピンクの唇から紡ぎ出される光景が鮮やかに広がっていく。


「っつ…」


これだけ克明に思い出せるということは、それだけ何度も言われてきたということにほかならなくて。だけどそれを認めたくない自分がいる。

これ以上考えたら、深みにズブズブとハマってしまいそうだった。


「あのさ、そんなの直接あずに―――」


「あずさじゃない。今はコウに聞いているの」


だから今すぐこの話題から逃れたくて、俺が知るかと抗議しようとしたところで、荒らげた声はピシャリと遮られてしまう。

逃がさない。答えなさい。そう告げているかのように、理香ねぇの口調は真剣な色を帯びていた。


「……見えるよ。俺には、あずはいつも楽しそうに見える」


「ほんとうにそう?あの子の性格なら、機嫌が悪いことも多いはずだけど。良くも悪くも感情の振り幅が大きい子だもの。そしてワガママ。ストレスだって溜まりやすいはずよ」


本当は違うでしょ?きっとそう言いたいのだろう。

だけど直接口にしないのは、俺の口から言わせたいのだというくらい想像がつく。


この人とも長い付き合いだ。互いの性格だけでなく、あずに関しても熟知している幼馴染に、その場しのぎの嘘は通じない。

ずるいな。そう思いながらも、俺は諦めて真実を口にせざるを得なかった。


「……デートをしてると、不機嫌になることが良くあるよ。でも、それは俺が悪いことが多くて、あずは別に…」


「悪くない、なんてことはないでしょ。アンタ、あれだけあの子に尽くしてるのに、それでいいわけ?」


早くこの話を終わらせたかった。

これ以上この人と話していたら、取り返しがつかなくなる。

そう警鐘する鐘の音が、脳内に響いて鳴り止まない。


「……俺が勝手にやってることだから」


「デート代全部持って、ご飯も奢って。挙げ句の果てに大好きだったゲームまで消されても?あの子のいい様に使われて、ワガママも全部受け入れる付き合いを、これからもずっと続けていくつもり?」


だけど理香ねぇの追求の手は休まることがない。それどころか、ますます苛烈さを増している気がするのは気のせいだろうか。


「それは…あずだって、きっとそのうち…」


「ハッキリ言ってあげる。アンタらの付き合い方は間違ってるよ。あの子は絶対変わらない。断言できる。コウがあずさの言うことを聞いて甘やかしている限り、あの子の要求はエスカレートし続けるだけだって、いい加減気付きなさい」


質問がいつの間にか詰問へと変化している。

次第に後手へと回っていく。俺とあずの恋人としての関係。

そこに深く切り込んでくる。俺たちの間違いを容赦なく突きつけてくる。


「それでも、俺はあずのことが…」


「好きだっていうのは分かる。だけどね、それでも今のアンタ達の付き合い方はおかしいのよ。高校生でデート代を全部受け持つ男子がどこにいんのよ。しかもバイトまでしてお金作って…正直ね、コウにバイトの話をしたの、後悔してる。真面目に働いてるコウの頑張りが、全部あずさに使われて…見てて思うところがないはず、ないじゃない…」


最後の抵抗。それでもと振り絞った声も、かき消された。

この気持ちが正しいと証明したくても、適う道理があるはずもない。


「今のコウを見てるとつらいんだ…だって、まるで楽しそうじゃないもの。全然笑わなくなってるよ。このままいつかコウは、あずさに潰されちゃうよ…」


理香ねぇは泣いていた。

いつも気丈で明るくて。俺たちを引っ張ってくれた人が俺の前で涙を見せた。


「理香ねぇ…」


「ごめ…仕事中なのに、急に…違うんだよ、ほんとはこんな…ただちょっと、忠告したかっただけで…」


店内ということもあってか、泣き声自体は押し殺したものだったけど、それでもしゃくり上げる声と流れる涙は間近にいる俺の耳へと、確かな熱を帯びて届いている。


(俺が…)


泣かせてしまったのか。恩人を。姉のように慕っていた幼馴染のことを。


そう思うと途端に、胸を切り裂くような罪悪感が襲ってくる。


「ごめん、理香ねぇ。俺、俺…」


「ちょっ…やめてよ。コウまでそんな顔されたら、アタシ…」


気付けば俺の頬にも、一筋の涙が伝っていた。

悲しんでいる理香ねぇに当てられてしまったのかもしれない。


そうしてふたり静かに泣いていると、バックヤードから出てきた店長に見つかってしまい、大いに心配された後、揃ってバイトを早退させられてしまったのはそれからすぐのことだった。








「ごめん、今日は俺のせいで…」


家に帰る途中、隣を歩く理香ねぇに、俺は頭を下げていた。


「いいって。アタシのほうが先に感情的になっちゃったのが悪かったんだし」


「いや、でも…」


幼馴染ということもあり、家の方向は同じである。二人とも帰されたことから、なんとなくひとりで帰路につくのも罪悪感を覚えてしまい、どちらともなくこうして並んで歩いている最中だ。


最初こそ気まずさから口を開きにくかったが、なにも話さないわけにもいかず、出てきたのは結局謝罪の言葉だった。

ここ最近、俺は常に誰かに謝っている気がしてならない。


「もうやめやめ。辛気臭くなっちゃうよ。それよりさ、たまにはゲーセンにでも寄ってかない?面白い台が最近入ったんだよね」


理香ねぇが努めて明るく笑う。気を遣ってくれているのがみえみえだ。

その好意に甘えていいものか一瞬迷うも、すぐに首を振ることにする。


「ごめん。それはあずに悪いから…」


あんなことがあった後だ。あずの名前を口にするのは躊躇われたけど、それでも言わないわけにはいかないだろう。

たとえ理香ねぇに言われたことがどうしようもない事実であっても、俺はやっぱりあずのことが好きなのだ。

誘いを断ると、理香ねぇはひどく悲しそうな顔を浮かべていた。


「…………またあずさなんだ」


「うん。俺、やっぱり…」


あずのことが好きだから。そう続けようとしたところで―――


「なにしてんのよ、こうくん」


背後から、冷たい声がかけられた。




「え…」


「なにしてんのって聞いてんの。なんでこの人と一緒に歩いているのよ」


カツカツとアスファルトを叩く音が鼓膜に響き、次第に声も近づいて来る。

それが誰のものであるかなんて確かめる必要もない。俺にとって一番大切で、一番よく聞いてきた女の子のものであるからだ。


「あずさ、これはね…」


「理香さんは黙ってて。アズはこうくんに聞いてるの」


隣にいたはずの理香ねぇがいつの間にか立ち止まり、あずに声をかけていたが、取り付く島もないようだった。

にべもなく年上の幼馴染の言葉を両断すると、そのまま俺に話しかけてくる。


「ねぇこうくん。なにやってんの?アズ、前に言ったよね。この人と一緒にいないでって。なんでアズとの約束破ってるの?」


ひどく冷たい声だった。あるいはこれまでで一番感情の篭っていない問いかけだったかもしれない。

背筋が震える感覚を覚えながら、それでも俺は振り返った。


「あず、俺は破ったわけじゃ…」


「言い訳なんて聞きたくない」


縋るようにかけた声は断ち切られる。理香ねぇのときと同じだ。

あずにはもはや俺が裏切り者にしか見えていないのかもしれない。

そう思うと、胸の奥がズキズキとひどく痛んだ。


「なぁあず、話を聞いて…」


「嫌。信じられない。最低。アズの言うこと聞けないこうくんなんて、もういらない!」


そうまくしたて、あずは俺を強く睨んでくる。

その眼を見て、心がざわつく。何故なら、おそらく彼女は次に―――



「別れるから!こうくんとはもう別れる!こうくんなんてもう知らない!」



―――こう言うであろうことが、分かっていたから。



「死んじゃえ、バカ!」


最後に捨て台詞を残し、あずはこの場から駆け出した。

よく見えなかったが、あいつは泣いていたんじゃないだろうか。


「あず!」


俺も急いで後を追いかけようとしたのだが―――それは出来なかった。

何故なら、背後から羽交い締めするかのように抱きしめてくる人影が、俺の行く手を阻んだからである。


「ちょっ、理香ねぇ!離して…」


「行かないで、コウ!」


振りほどこうとしたのだが、それ以上の力強さを孕んだ叫びを前に、俺はフリーズしてしまう。


「アンタも聞いたでしょ!?あの子はああなの!恋人であるコウの話なんて聞く気がないのよ!行ったらどうせまた言うことを聞かせられて、あの子の思い通りにさせられるに決まってる!そのことに、いい加減気付いてよぉっ!」


それは初めて見る姉のように慕っていた幼馴染の姿だった。

泣きじゃくり、なりふり構わず俺に縋り付いてくる理香ねぇ。

親から引き離されることを嫌がる子供のようで、引き剥がすこともできないまま、俺は立ち尽くしてしまう。


「俺は…」


まとまらない思考の中で、それでもと口を開きかけた時、理香ねぇは叫んだ。




「絶対あずさのところになんて行かせない!行かせられるはずない!アタシだって…アタシだって、コウのことがずっとずっと好きだったのに!」




一瞬、なにを言われたのか分からなかった。


「う、ううう…」


俺の背中に顔を擦りつけるようにすすり泣く幼馴染。

いつも頼り甲斐があって、密かに尊敬して年上の女の子からの告白は、俺を混乱の坩堝に叩き込む。それほど理香ねぇの言葉にはインパクトがありすぎた。


「りか、ねぇ…」


「言うつもりなんて、なかったのに…なのにぃ…」


これは本当に現実なのだろうか。

だけど夢と思うには、シャツを通して伝わってくる体温が生々しい。


「……別れたほうが、いいよ。そうでなくても、あずさとは距離を置いて…お願いだから。ねぇ、お願い…」


固まって一歩も動けずにいる俺の身体に、理香ねぇの涙混じりの声が、ゆっくりと染み込んでくる。

これを無碍にできるほど、俺は冷徹になれやしなかった。


「…………今夜一晩、考えさせて欲しい。考えをまとめて、明日あずと話してみる。それから答えを出したい」


そう口にすることが、今の俺には精一杯だった。

あずと別れる。これまでの俺なら決して考えることすらなかった選択肢が浮かび上がった時点で、心が大きく動かされていたことは間違いない。


「うん…」


理香ねぇは頷いてくれた。そのことが何故か、嬉しくてたまらなかった。

そしてこの心の移り変わりがどれほどの意味を持つことになるのかを、俺はまだ知らなかった。












「ああ、もうっ!ほんっと腹立つ!」


その日の私は、とても気分が悪かった。

理由はハッキリしている。彼氏であるこうくんと、あの女が一緒に歩いている姿を見てしまったからだ。


園田理香。事あるごとに上から目線で説教してくるくせに、私のこうくんに色目をつかう、薄汚い雌犬だ。

こうくんは気付いていないけど私にはわかる。アイツはアズという彼女がいるというのに、図々しくもこうくんに恋してるのだ。

そのことが、私にはどうしても許せない。許せるはずもなかった。


「意味わかんない。負けたんだから潔くさっさと身を引きなさいよ、クソブス女…」


幼馴染という立場を利用してこうくんに近づこうとしているウザい女。

こうくんはどう思っているか知らないけど、あんな発情した雌犬が近くにいるなど、彼女として耐えられるはずもない。

バイト先にゲームショップなんてところを選んだのも大きな減点ポイントだ。

私はお洒落なカフェで働いて欲しかったのに、こうくんは自分には似合わないからと尻込みして、気付いたらあの女の誘いに乗ってバイトを始めたのも許せない。


「こうくんはアズの言うことを素直に聞いていればいいのに…!」


そうすれば私達は邪魔されることなく幸せなカップルとして日々を過ごすことができるというのに。

なんでそれがわからないんだろう。イチイチ反抗してくるこうくんには本当にうんざりする。

今日だって言い訳しようとしていたし、ああいうところは本当に男らしくないと思う。

早く直してほしい点のひとつだった。


「それにしても、遅い…」


不満を垂れ流しながら、ベッドに放り投げられたスマホに目を向けた。

さっき怒りに任せて放り投げたそれは、未だに着信を告げる音楽が流れてこない。

時計の針ははもう23時を過ぎている。ただただ静かに沈黙を保つ機械の箱が、私のことを嘲笑っているように感じてしまう。


(いつもならとっくに連絡が入っているはずの時間だっていうのに…!)


すぐに謝ってくると思ったのに、まるでその気配がない。

このままじゃ0時を過ぎてしまう。肌にも健康にも悪いというのに、そんなこともわからないなんて、私の彼はなんて鈍感なんだろう。


「早く謝ってきなさいよ…そうしたら許してあげなくもないんだから…」


もちろん今のバイトを辞めて、あの雌犬に二度と近づかないことが条件だけど。

そう心の中で付け加える。私は間違ってない。むしろこれまでが甘すぎたのだ。


「そうよ…アズとこうくんの世界に、邪魔者なんていらないんだ」


きっとこうくんだって、本心では私と同じ気持ちのはずに違いない。

こうくんは優しいから、あの女を拒絶しきれていないだけ。

だから私が彼の手綱を握り、上手に誘導してあげる。それが私達カップルの理想の関係。これ以上ない在り方だ。


そのためにはまず、こうくんがアズに謝って、いつものように別れ話をちらつかせることが必須条件なのだけど…一向にその気配がないというのは、一体どういうことなのだろう。


(あの女になにか吹き込まれでもしたの…?クソッ、なんてクズなのよ…)


思いついた考察に、思わず舌打ちしてしまう。

可能性は十分にある。こうくんはあの女の言うことに関してはやけに素直に聞くからだ。それがまたイライラを加速させる原因でもあったのだけど、彼は気付いてもいないだろう。


「絶対文句言ってやる。なにがなんでも引き離してやる…!だから早く電話なさい。なにグズグズしてんのよ!」


止まらない苛立ちに悩まされながら、私は彼の電話を待ち続ける。

自分から連絡を入れることは頭にない。そんなことはプライドが許さないからだ。


そうしてずっとスマホを睨み続け、ただ時間だけが過ぎていく。

だけどどれだけ待とうとも、彼からの電話は来ることがなかった。






「っつう…頭痛い。完全に寝不足だ…」


朝を向かえ、フラつく足取りでなんとか家を出た私の気分は、その日もやっぱり最悪だった。

いや、体調も加味すればさらにその上をいくことだろう。

いっそあまりの気持ち悪さから吐き気すら覚えているほどだ。


「絶対許さないんだから…!ただで済むと思わないでよ、こうくん…!」


それでもこうして学校に行こうとしている目的はただひとつ、こうくんを怒鳴りつけてやるためである。

こうくんに今一度自分の立場というものをわからせてやらないと気がすまない。

その一心で、痛む体にムチを打つ。自慢の髪も一晩中起きていたことで痛んでるかも知れないし、ああ本当に最悪だ。



だけど神様とやらは、どうやらアズのことを見放したわけではないようだった。

学校までの通学路。その交差点で立ち止まっているひとりの男子生徒の姿が、私の目に飛び込んでくる。


「!いた…!」


たとえ後ろ姿といえど、私が見間違えるはずもない。

間違いなく彼氏であるこうくんのものだった。

ちょうど信号が変わりかけ、足を踏み出そうとしたところを止めるべく、私は大声を張り上げた。


「待ちなさいよ、こうくん!」


「!!」


背後から聞こえてきた声に反応して、こうくんはピタリと動きを止めていた。

それがまるで飼い主に待てと止められた犬のようで、私は思わずほくそ笑む。


(そう。こうくんはそれでいいのよ)


アズのいうことだけを、ずっと聞いていればいいの。

そんな想いを実行すべく、私は彼に歩み寄る。魔法の言葉を聞かせるには、距離が近いほど効果があることは、既に学習済みだった。


「……あずか。おはよう」


近づいていくと、こうくんはこちらに向かって振り返った。

その落ち着き払った態度に、妙な違和感を覚えるも、足を止めることはしない。

頭に血がのぼっていた私にとって、思考よりも話すことのほうが、より優先されていたからだ。


「ええ、おはよう。でも、他になにか言うことがあるんじゃないの?」


まずは牽制。軽く彼に笑いかけ、目的の言葉を引き出してやる。

その意気込みは、だけどあっけなく振り払われることになる。


「ああ、昨日はごめんな。悪かった」


たったそれだけを告げられたのだ。シンプルな謝罪の言葉。他には何もない。

あまりにそっけない態度に、思わず面食らってしまう。


「ちょっ…ちょっと待ちなさいよ!」


「なんだよ、謝ったじゃないか」


それでもなんとか立ち直ると、何故か彼はうんざりしたような顔を浮かべている。


(ど、どういうこと…!?)


これは明らかにおかしかった。いつものこうくんならもっと必死になって、頭を下げて謝ってくるはずで…


「っつ!…やっぱり、あの女になにか吹き込まれでもしたんでしょ!」


思い当たった可能性を叫ぶと、またもこうくんは訝しむような顔をしてこちらを見てくる。


「はぁ…?なに言ってんだよ、あず。訳わかんないこと言うなよな」


「訳わかんないのはこうくんのほうでしょ!だって、だっておかしいじゃない!こんな!こんな!」


こんなの、アズの知っているこうくんじゃない。絶対におかしい。

もうなりふり構ってなんていられなかった。私はこの時、最後の切り札を切ることを心に決める。


「別れるっていったじゃない!ほら、忘れたの?アズ、もう絶対こうくんと別れるんだから!」


別れるという言葉は、私にとって絶対の意味を持つものだった。

これを一度口にすれば、目の前の彼はどんな言うことでもたちまち聞いてくれるのだ。

まさに魔法の合言葉。これさえ言えば、またいつものように頭を下げるこうくんが、また見れるはずだった。





だけど…






「…………ああ、そうだな。俺たち、別れよっか」






その日の朝は、彼が魔法にかかってくれなかった。






「………………ぇ」



意味が分からなかった。

その言葉の意味も、こうくんがなんで当たり前のように頷いたのかも。


「聞こえなかったか?俺たち、もう別れよう」


なにも分からないまま、それでも彼が言った言葉を呑み込んで。


「―――へ?あ、え……」


受け入れられずに、私はただ混乱していた。



「昨日、ずっと考えてたんだ。俺とあずの関係って、本当に正しいのかなって。そうしたら、考えれば考えるほどさ、このままじゃダメなんだって思ったんだ」


「な、なに、言ってるのこうくん…つ、つまらない冗談やめてよ…」


嫌だ。聞きたくなかった。

アズが聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。


「俺、あずのことが本当に好きで…だからこれまでずっと、あずの言うことはなんでも聞いてきたつもりだった。でもそれってさ、恋人としては間違っているんだよ。それをある人に教えられた。今の関係を引きずってたら、これからきっとますます歪んじまう」


だというのに、こうくんは話すのをやめてくれない。

アズが見たかったのは、許して欲しいと懇願してくるこうくんなのに、今の彼はなんだか大人びて見えた。


「だから俺たち、一度距離を置こう。ただの幼馴染の関係に、また戻ろう」


そうして最後の宣告を突きつけられて。

アズはもう、なにも言うことができなかった。


「いや…いやだよ、こうくん。うそだよね、そんなのうそ…」


「俺、先行くから。曽木山さんも、遅れないでね」


最後の置き土産とでも言うかのように、彼は私のことをあだ名ではなく苗字で呼んで。そして足早に去っていく。


「なに…?なんで?なんでこうなるの…?」


その後ろ姿をただ呆然と見送りながら、私はコンクリートの塀へと寄りかかった。


「うそだ…うそだうそだうそだうそだ!!!こんな、こんなことって…!」


現実を受け入れきれず、私はただ頭を振り払って掻き毟る。




「わ、別れるつもりなんて…そんなの、最初からなかったのにぃ!こんなの嘘だよぉっ!!!!」




本当に、こうくんにはアズの言うこと聞いて貰って


アズのことをずっと好きでいて欲しかっただけなのに。



思い描いていた理想の未来が砕け散る音を聞きながら、私はただ叫んでいた。




「ウソだぁぁぁぁっっっ!!!!!」



幼い子供のように、ひたすら泣きじゃくりながら










―――後日、浩輝と理香が付き合い始めたこという噂が耳に入り、再び涙を流すことになるけれど、それはまた別のお話

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ふくぼんっ!~別れるつもりなんてなかったのに~ くろねこどらごん @dragon1250

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