Much Talkative?

早良香月

La Règie du jeu

 カーテン越しの視線、郵便受けの髪の毛、キャロライナ・ヘレラ、啓介さんってそうやって誰にでも優しいんですか?大村くんが一番好き。今日はどこか出かけるの?気をつけて行ってきてね。大ちゃん実家継ぐんだ、ちゃんと大学出たのに親孝行だね。大ちゃんがそう言うなら私も大ちゃんのご実家に挨拶しに行かないとね。だって私たちもう一緒に住んで三年目でしょ?アタシね、こっちには自信があるから任せて。痛くしないから。大村くん、裕生さん、大ちゃん、あなた、きみ、ねえ、ずっと愛してる、あなただけ、あなただけ、あなただけ、一生、ずっとだよ、信じてくれないかな、優しいあなたが大好き、いつか一緒にあなたの家で幸せに暮らそうね、約束だよ。「わたし」とあなたとの、約束ね。


 空っぽの部屋を見ている誰かがいる。それは俺だったのだろうか?


 絶叫して飛び起きる。目が覚めるとちゃんといつもの寝室だし、いつかのシングルベッドではなく昨日干したばかりでいい香りがする煎餅布団に俺は寝ていて、いつもの起床時間のきっちり三十分前、午前五時を枕元の時計は指していた。農家として親の跡を継いで、親が力仕事をするには年を取りすぎてからは俺が基本的に農家としての役目を一手に引き受けている。広大な土地を持っているわけでもないし、大した負担ではない。大学は専門でもなんでもなく私立文系だったので一から勉強したが、こういうものは座学はともかく自分で体を動かしてどんどん慣れていくことが肝心であり、そして作物の研究はやってもやっても汲み尽くすことがない。実家に帰らず東京の企業に就職するか、あのままフリーターをしていたらこの楽しさと豊かさを知ることはなかったと思うと、農業をやっていた自分の家に感謝してもしきれない。無茶をやっていた二十代の頃の自分に言い聞かせたい気持ちになる、女の子と付き合うより土いじってる方が幸せだぞ!と。それは無理があるだろうか、などと自問自答しながら朝飯を一人で食べ、まだ夏の名残がある日差しと青空を眺めながら作務衣に着替える。起きたときの最悪の気分が嘘のようだ。


 多分、今日は何かとてもいいことがある気がする。こういう予感と事実関係の確率は必ず一つの次元に収束する、サイコロの一振りが偶然では必ずしもないように。大学時代に観ながら寝てしまった白黒の映画のタイトルにあったように、ゲームには規則があって、人生にも規則がある。今の俺、昔の俺、それを決めるのは「規則」であって、日本のことわざなら「糾える縄」だ。それは個人の努力から外れた何かであって、もう俺はそれに抵抗する気もない。俺はなんだかいい気持ちになって、「よっしゃー」などとやたらでかい声を張り上げながら畑に進んでいった。「よっしゃー」と言うほど派手な仕事をするわけでもないのだが。でかい声を張り上げると、気持ちいいよね。


 午前の作業を終えると、もうすっかり汗だくになって、こまめに水分補給をしていたものの流石に俺も三十代半ば、あらゆるスポーツで鳴らしていた自慢の肉体もへとへとになってしまう。とはいえ実家に帰ってきたときは精神的問題もあって衰弱していたが、うまい飯、綺麗な水と空気、農作業と適度な運動で随分復活するものだし、まだまだ現役農家でやっていける。昼飯を食べて、一服して、溜まっていたCSのスポーツ番組の録画を一本観て、午後は機械の整備に当てよう。農作業に比べると決して肉体的負担は大きくないが、機械の油臭さが堪えるし、何より扱うものによっては油断すれば指の一本や二本がすっ飛ぶぐらいでは済まない場合がある。精神的には緊張を要する作業だし、下手に慣れると大けがする。はっきり言ってやりたくないが、定期的にやらなければならない。

 昼飯を食って冷やしておいた麦茶を飲みながら宝船を吸って、とりあええず録画していた番組の中から昔のプレミアリーグのハイライト集などを流し観する。ははは、今観てもひでえラフプレー、こんなんレッドカードだろ、などと独り言にしては大きい声でテレビに向かって野次を入れていると、玄関の呼び鈴が鳴った。


 「わたし」のこと、覚えてる?


 「殺意」は首筋から伝わるものというが、「悪意」は腹の底から突きあがって全身の温度を氷点下にする。客人自体は珍しいものではない。無人販売以外で作物の手売りをしているので直接地元の人が野菜を買いに来ることもあるし、力一が連絡なしに遊びに来る場合もある。ただ、今朝のはっきりとは覚えていないが呪いじみた夢が現実に流れ込んでくるような、根拠のない「声」が聞こえてくるような気がして、観ていたサッカー番組は抽象画のように、吸っていた煙管の味は排気煙のようになった。

 「はい、はい、どなたですか」と言いながらも俺は完全に錯乱していて、両親が二階にいて自分の領域である一階の居間、客室、寝室の空間認識が歪み、間取りさえも分からなくなって玄関に向かう前に居間の机に足をぶつけて悶絶、いつぞやに激辛ペヤングで体が痙攣したことがあったが足をぶつけても痙攣するということは人間は痛覚のキャパシティを一定以上超過すると痙攣するようにできているのだな、と妙に冷静になり、しかしそんなことを考えている場合じゃないと思いこみ上げる嘔吐感を必死に抑えて這う這うの体で玄関口へ向かった。


「久しぶり、大村さん。通話はしてたけど、あんまり顔合わせてなかったし、ひな今夏休みだから、寄ってみたよ。……タイミング悪かった?すごい顔色悪いし、ドタバタ聞こえたけど……連絡すべきだったかな」

「ああ、春風ちゃんか……いや、完全に俺の勘違いだよ。ちょうど今休んでたし、やりたくない作業を後回しにする言い訳にもなるし、上がっていきな。お茶と果物か何か出すよ」

「ハルが言い訳って、随分贅沢な言い訳……って台本の台詞って感じで嫌だね。まあ大村さんがそんな軽口叩けるの、同期でも村ちゃんと私、お父さんぐらいじゃない?」

「悪かったって。縁側で待っててよ」

 「覚えてる」もへったくれもなく、客人は仕事の同期の大野の娘、大野春風だった。実のところ、同期やその他の人間関係に限らず俺が気さくに喋れる友人はあまりいない。村上は居酒屋でシメの茶漬けをパクられようが逆に俺が茶漬けをパクろうが構わないぐらいの仲なので別として、実際に同じようなことができる仲間がいるかどうかは自信がない。この自信のなさが、今の自分を色んな意味で苦しめているのだろう。「だろう」ではなくそうなのだ。ひなちゃんは俺の半分の年齢の同期だが、不思議な距離感で接してくる。プロレスらしいプロレスもしないが、過剰に近い感じもせず、だからと言って肩肘を張るような関係でもない。二人で話すときは「春風ちゃん」だが、「ちゃん」呼びは別に彼女を年下扱いしているわけではなく、彼女が「大村さん」呼びするように二人の間の最も適切な距離感を示すただの方便だ。ひなちゃんが俺の茶漬けをパクるとはあまり思えないが……。


「春風ちゃーん、あんまり良い組み合わせかどうか分からんけど、今あったの麦茶とスイカだけだったわ。塩も持ってきたから、お好みで」

「ありがと。大村さんっていつから煙管だったっけ?似合ってるけど」

「農作業の休憩のときはパッと吸い終わるから煙管ってだけで、晩酌のときとか東京の仕事のときはずっとセッタだよ。春風ちゃんは未成年なのに様になっちゃうの、本当によくないよねえ……」

 はは、やんちゃしてた大村さんに言われたくないけどね、と言いながら、ひなちゃんはラム酒の匂いがする濃い煙をもくもくと吐き出していた。文学少年少女はタバコに憧れるというが、春風ちゃんもその口で好奇心から両切りのゴールデンバットを年齢確認のないタバコ屋で買って以来、演劇部の台本などの執筆の際はタバコが手放せなくなっていた。ゴールデンバットが廃盤になった際は「ハルは……タバコが好きなんじゃなくて……ゴールデンバットが好きだったのに……」と言いながら一番重いピースをふかす村上の前でハイライトを吸っていた。喫煙者なんてそんなものである。ちなみに小さい身長の春風ちゃんはタバコを買う際髪を下ろしてサングラスをかければ大体「いける」らしい。。

 縁側から見える景色は「絶景」と言われるタイプのものでもなく、田舎に住んでいればよくある光景だが、それでも晩夏の昼下がりに少し落ちた太陽と濃い色の青空、目の前には青々と茂る田園風景という感じで、それに加えてスイカと麦茶というのはいかにも日本の田舎の牧歌的な風景のそれだ。隣にいるのがなんとなくやさぐれた喫煙者の女子高生であるという点を除けば。などということを改めて考えながら無言で塩を振ったスイカを食べていると、同じくスイカを食べているひなちゃんが何かを感じ取ったのか「……大村さん、今なんか余計なこと考えてない?」と言いたげな視線を送ってきた。と、思っていたのだが。


「あのさ、ハルが大村さんと直接顔を合わせて喋るのって、久しぶりじゃない?来たときも言ったけど」

「それはそう……だね。随分いきなりだなって思ったけど」

「あの……あー、いや、ちょっと待って……違うわ……台本脳が……」

 俺は春風ちゃんが何を言いたいのか全く分からなかった。と同時に、いつも知的にすらすらと喋るひなちゃんが言葉にどん詰まってしまうのが妙な感じがした。強いて言えばオタクの話をしているときぐらいだが、俺と話すときにそんな回路が働くわけがない。さらに言えば……いや、その可能性はいくらなんでもないだろう。


 ねえ、わたし、あなたのことが……


 脳裏に過ぎる数々の女性の声が、反響して一瞬目の前がホワイトアウト寸前になる。いや、確かにこれは、そうだ、過去に俺は経験している。何度も何度も。春風ちゃんと俺の関係性でそれは限りなくないと分かっていながらも、年齢の差や同業者という問題が問題にならない次元で起こることが、まさに投げられたサイコロの目よろしく見えざる「規則」で決まるむごたらしさを今俺は目の前にしている。無理しないで。ん?何の話?どれもごまかすラインとして無理がある。


 俺はイカサマを考えるのをやめた。とうにサイコロは宙に浮いている。これはゲームの規則だ。


「ハルは、……あー、シンプルにね、言うなら、うーん、10分考えた方が、いやだって高校から大村さんの家って電車で一時間かかるじゃん、それでさ、夏休みって言ってもハルも大村さんも台本とか農業とか仕事とかあるしさ、別に全然来る言い訳にはならないんだよね、でもどうしよっかなって思って、まあ事実夏休みだし、大村さんとハルの仲なら家に上がるとかそういうのも全然変じゃないし、そもそも大村さんもう三十半ばなのに女の子がどうみたいな話しないし、多分意図的にしてないのなんてひなも分かるけど、私、私って言っちゃった、私高校生だよ?タバコ吸ってても高校でトップの学力だよ?しかもオタクでさ、なのに、なのにさ、なんでよ、なんでこんな思いしないといけないの、絶対にこんなこと言いたくない、言いたくないけど、玄関出た大村さんが青ざめてて目の焦点合ってなくて、これ絶対何かあったなって思って、仕事の失敗とかそういうタイプの顔じゃなかったし、来るんじゃなかったって思ったけど、でも縁側で一緒にスイカ食べてて、私なんでこんなことしているんだろうって、あの、あのね、大村さん」


「何かな」


一拍間を置いて、彼女は呼吸を整え、立ち上がって言った。


「舞元さん、古いアメリカの映画とか好きだっけ」

「まあ、人並みに観るよ」

「"喋りすぎたかな?"とだけ言っておくね。仕事の合間にごめん。できれば何かお土産がほしいかも。あと、ハルのハイライト、殆ど吸ってないけど、あげるね」

 俺は春風ちゃんに、うちで採れたものではないが農家仲間からもらったかなり良い白桃を二つ手みやげに持たせた。「午後も仕事あるのにお邪魔しちゃったね。なんか変な話してごめんね。忙しそうだけど、また遊びに来るね」

 そうだね、と言って、俺は春風ちゃんの後ろ姿を見送った。

 サイコロが着地しないまま、空中でくるくると回っていた。


 関係にも、スポーツにも、一定のゲームの規則がある。それは運命ではない。運命を決定する何かだ。しかし、規則は完全ではない。どこかに抜け道が必ずある。その抜け道、「ゲーム」から外れたところに、ひそやかなものがある。俺は「"喋りすぎたかな?"」という「ルール違反」の意味を知っている。


 糾える縄はほつれた。ゲームは永遠に中断される。俺はこれまでも、今も、これからも、ゲームをもう一度始める術を見失って、そして、人生が始まる。

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