教会

ぼんぞう

教会

 それは、日曜日の朝のことだった。春の柔らかな日差しが降り注ぎ、乾いた風がアスファルトの上を撫でていくのをうっとおしく思うかかのような足取りの若者が一人、肩をがっくりと下げ、力なく歩いていた。

 ぼろぼろに擦り減ったジーンズは、あちこちに穴が開き、不健康そうな素足を覗かせ、同じく着古したTシャツの上から重たそうに革ジャンを羽織っていた。顔のここかしこにはピアスが痛々しく刺しとおされ、片手にはもうすでに飲み干してしまった缶ビールが握られたままだった。

 その生気を感じさせない歩き方と風貌に行きかう人はみな一応に振り返って彼に不快感漂う視線を向けていた。彼は当て所もなく歩いているようであったが、その歩みがふと止まった。彼の耳に讃美歌が聴こえてきたからだ。それは、ちょうど、彼が歩みを止めた古い教会の入り口から漏れて聴こえていた。彼はゆっくりと視線をアスファルトからその清らかな歌声のする方に移した。すると教会の案内版に書かれている文字が目に入った。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」そしてその横に「日曜礼拝、どなたでもご自由にお入りください」と書かれてあった。彼の手から空き缶がすべり落ちアスファルトの上をカラカラと音を立てて転がった。そして、彼はなにを思ったのか、綺麗な身なりをして帽子をかぶった中年の婦人の後に続くようにして教会の入り口に向かってまた歩き出した。その歩き方はそれまでと同じだったが、彼の視線は真っ直ぐ前に向けられていた。彼は生れて初めて教会の中に入った。教会の中はそう広いものではなかったが、もう礼拝が始まっているというのに、席に着いている人々はまばらだった。彼は、冷たいいくつかの視線に見守られながら、一番前の窓側の席に腰を下ろした。古い長椅子がぎしっと音を立てた。彼は講壇の後ろにある大きな十字架をぼうっと見つめていた。その時、彼の背後から靴音が近付いて来るのが聴こえてきた。40歳前後の身長が190センチ近くありそうな大柄のグレーのスーツを着込んだ男性が、彼に近寄り、耳元で何かを囁いたかと思うと、彼の腕を抱えるようにして、彼を礼拝堂から連れ出した。若者もそれに対して別に抵抗するようなそぶりも見せることもなかった。二人は礼拝堂を出るとホールの隅で立ち止り、スーツを着た男が若者に落ち着いた口調でこう切り出した。「ここは、ライブハウスでもクラブでもないが、間違って入ってきたのかな?」だが、若者は何も応えようとはしなかった。ただ、男の胸元のネクタイにはめられた魚の形をしたピンが気になっていた。長身の男は、若者から漂ってくるアルコールの臭いの混ざった異臭と彼の態度にいら立ちを覚えて、また彼の腕を掴んで、今度は彼を教会の外へ連れ出し、「ここは、君のような者の来るところじゃないよ」と言って彼を突き放した。そしてきびすを返しながら、小声で「酔っ払いめ」と言ったが、その言葉も若者には聴こえていた。

 少し目が覚めたような顔つきで、彼はまた歩き出した。今度は彼を放り出した教会の斜め前にある公園のベンチに向かっていた。彼はベンチにもたれかかって空を見上げた。彼の眼には柔らかな青空も眩しかった。すると突然誰もいなかった筈の彼の隣にいつの間にかホームレスらしき男が座り彼に話しかけてきた。「何をそう腐った顔をしている」その声は外見に似合わず穏やかなものだった。だが、若者は先ほどと同様、何も答えなかった。髭を生やしたその男は、彼の顔を覗き込むようにしてまた話しだした。「君はあの教会からつまみ出されたんだろう。それで、そんな顔をしている。だけど君はあの教会の中に入れただけましだよ。私なんか中に入れてももらえなかったんだから」今まで聞いたことのない優しい声だった。若者も何だか気安くなったのか、初めて口を開いてその不思議な男に聞いた「あんた誰?」男は何とも言えない優しい眼差しと笑みを見せてこう言った「君が見つめていたあの教会の十字架に架かったイエスだ」そう言うと光に包まれて見えなくなった。若者に起こったこの体験は想像を絶するものだったが、彼はそのことを誰にも話すことは無かった。しかし彼は、毎週日曜日になるとこの公園に来ては、ベンチに座っていた。彼の手にはいつも一冊の聖書が開かれていた。

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教会 ぼんぞう @hioki5963

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