第3話

 俺が池のほとりにつくと、すでに人だかりができていた。


 池はさして深くはないが、岸近くは深いぬかるみとなっている。

 チヒロは、そのぬかるみに腰まで沈んで、もがいていた。


 そんなチヒロに向かって手を差し伸べているのが、リリーナだ。

 彼女は自分も足首までぬかるみに浸かり、片手で岸の木につかまって、重たいぬかるみの中からチヒロを引き揚げようとしている最中だった。


「ちょっと、チヒロ! もっと踏ん張りなさいませ!」


「無理ぃ! 踏ん張れば踏ん張るほど沈むんだもん!」


 リリーナはドレスの裾が汚れるのも気にせず、もう一歩を踏み出す。


「しっかりつかまりなさい!」


 ドレスの裾を飾る真っ白いレースは、アッという間に泥水を吸い上げて沼色に染まった。

 だというのに、取り巻いている野次馬はおろおろするばかりで、誰もリリーナに手を貸そうとはしない。

 俺は立ち尽くす野次馬どもを押し分けて、リリーナへと駆け寄った。


「戻れ、リリーナ! 君も泥に沈むぞ!」


 しかしリリーナは、いかにも頑固そうに口をひき結んで首を横に振る。

 その手は決してチヒロを手放そうとはしない。


「でも、チヒロが!」


「落ち着け、泥の中から人を引っ張り上げるのに、力任せじゃ無理だ、まずは落ち着け!」


 俺が怒鳴りごえで、どうやらリリーナは少し正気を取り戻したようだ。


「力任せでなければ、引き上げる手立てはあるってことね?」


「ある、だから、落ち着いて、一歩下がれ」


 俺はリリーナの手を引いて、彼女を岸に上がらせた。

 それからチヒロに向かって言う。


「意味も無くジタバタするな、それ以上沈むことはないはずだ」


「でも、泥が重くって足が動かないの!」


「力任せじゃダメなんだ、ゆっくり足を動かして……泥を押し広げるつもりで、足の周りに空間を作れ」


「わかった、やってみる!」


「リリーナ、こっちは足場を作ろう、泥の上に直接足を置くんじゃなく、接地面積を大きくするために板切れなんかを敷いてやるといい」


「わかったわ、板切れね、探してくる!」


 野次馬どもはこの期に及んでもおろおろするばかりで、誰ひとりチヒロ救出のために動こうとはしない。

 俺はさすがにむかっ腹をたてて、大きな声で怒鳴った。


「おい、ぼーっとしてないで、お前らも板を探しに行って来いよ!」


 俺が怒鳴りつけたそのとたん、野次馬たちが雷に打たれたかのようにびりりと震えた。

 と、次の瞬間には、まるでいきなり命が吹きこまれたかのように、めいめいにそれぞれが思い思いに動き始めたのだ。


「よし来た、板切れだな! 裏庭にちょうどいいのがあったはずだ!」


 そう叫んで駆け出すものあり、


「とりあえず、誰か先生を呼んでくる!」


 わっと駆け出す女子の一団あり、辺りは騒然となった。

 それはまるでーーNPCだったモブたちに命が吹き込まれたかのように。


 ふと横を見ると、リリーナが俺の顔を見て微笑んでいる。


「あなたは本当に……不思議な人ですね」


 照れ臭くって、気恥ずかしくって、俺はプイと顔を背けた。


「そうかな」


「ええ、とても不思議な人……あなたはいつでも、私を自由にしてくれる……以前の私なら、たとえ大事な友人が池に落ちても、ドレスが汚れることを気にして助けにもいかなかったことでしょうね、でも……」


「大事な友人って、チヒロのことかい?」


「ええ、そうですわ」


「なんだか妬けるな、俺のことは大切な友人だとは思ってくれないわけ?」


「いいえ、もちろん、あなたも大切な……いえ、友人よりも大切な……」


 続きの言葉をためらったあとで、リリーナは無言のまま、そっと俺の手を取った。

 俺たちは肩を寄せ合ったまま、湖水の上を渡る冷たい風に額を吹かせて、ただ、立っているのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る