曲がらない人   作・泉梗子

 肌寒い夜であった。俺は背中を丸めてとぼとぼと人気のない道を歩いていた。ぶるりと身震いをし、上着の前を合わせる。どこか遠くで犬が鳴いている。さすがに酒が入っていても、この時期の夜風は冷たい。しかし、財布にもズボンのポケットにも、もうバスの切符一枚を買う金さえ残っていなかった。つまり、家に帰りつくにはどうしたって二駅分を歩くしかないのだった。


「ほぉーれ、ほぉーれ」


 公園の前を通り過ぎようとしたとき、暗い公園の中で老人の声がそういうのを聞いた。さてはまた、酔っ払いが何かやってるな。ふん、けしからん。自分のことは棚に上げ、ぼうっとした頭でそんなことを考えた。そのまま通り過ぎようとして、俺はふと友人の話を思い出した。


 もしかしたら、これは件(くだん)のスプーン曲げジイサンではないだろうか。どこの町にもたいてい変わった住人の噂はあるもので、この辺りは割合インテリな人々が多い地区なのだが、それでもそう言う噂には事欠かない。


 まず一人目は、ワンダフルおばさんである。これは帽子からシャツからスカート、靴に至るまで全て真っピンク、ふりふりフリルだらけのおばさんである。セルライトでぶくぶくに太った足をミニスカートから大胆に露出して、信じられない程早歩きで駅に向かうところを俺も何度か見かけたことがある。


 二人目は謎の中国人。これは辮髪(べんぱつ)という、一部の頭髪を腰のあたりまで伸ばして三つ編みにし、その他の髪の毛はつるつるのスキンヘッドに剃ってしまう、古代モンゴル人や中国人の髪型をしたオジサンである。今中国に行ったってそんな髪形をしている人はほとんどいない。例えて言えば、お相撲さんでもない普通の人がちょんまげを結って歩いているというところだろうか。それだけならなんとなく不気味なのだが、その長い三つ編みの先っちょを可愛いリボンで結んでいるので、案外話せる人なのではないかと密かに思っている。


 そして、三人目がスプーン曲げジイサンである。友人の話によれば、夜の公園やベンチでおかしな掛け声とともにスプーン曲げの練習をするおじいさんがいるらしい。前の二人に比べると格段に目撃情報が少なく、前の二人とは違って俺もまだ見たことがないので本当に存在するのかどうか半信半疑であった。しかし、もし実在の人物ならば、ぜひ一度この人に会いたい、会って話をしてみたいと思っていた。


 ところで、俺はこういう変人奇人のうわさ話には結構関心がある。別に、おかしな野次馬根性からではない。実は、俺には昔から奇妙な能力があるのだ。いわゆるスプーン曲げ、である。かの有名なユリ・ゲラーが得意とした、触れるだけでスプーンが曲がってしまうというあれだ。俺の場合は直接触れなくても曲げることができる。つまり、正真正銘の超能力というわけだ。


 だが、今までの人生においてそれが役立ったかといえば、そんなことは一度もない。超能力と言っても、スプーンかフォークを曲げられるだけだし、そんなことができて何の得があるの、と言われれば返す言葉もない。


 そもそも、スプーン曲げを人に見せたこと自体、たったの三回だけしかない。一回目は両親、二回目は友達のゴン太、三回目は幼馴染のケメ子だ。両親はすごい手品ね、と言い、ゴン太はインチキだと言って信じなかった。それはどちらも小学一年生だった俺を悲しませたが、もっと悲しかったのは当時密かに好きだったケメ子にやって見せた時である。俺はスプーン曲げを自慢したかったし、前の三人とは違って彼女なら信じてくれるだろうと思った。しかし、彼女はびっくりして俺のことを怖いと言って泣き出したのだった。俺は幼心に深く傷つき、見せたことを後悔した。それ以来、決して人前ではスプーン曲げをしないことを心に決めた。さらにこの超能力は、自分は人とは違うのだろうかとか、スプーン曲げ以外にも自分は普通だと思ってとっている行動が、実は他人にはものすごく気味の悪いことに映っているのではないか、という悩みの種になってしまった。


 そして俺は何をするにも他人の目を気にするようになった。だから、そういう人の目を気にせず我を通せる人にある種の憧れや敬意を抱いてしまうし、そのスプーン曲げジイサンとやらは自分の超能力とも通じていて特に気になる存在なのである。


 俺は内心わくわくしながら公園の柵を股越した。公園の回りは鬱蒼と木が茂っているのだが、中はきれいに草刈りや清掃がしてある。白い街灯がぽつんと一つ公衆便所や自販機と並んで立っていてそこだけが強烈に明るい。


「あれ? へんだな」


 俺は首を傾げた。先ほどまで聞こえていた掛け声のようなものがいつの間にかピタリとやんでいる。


「誰もいないじゃないか」


 辺りを見回しても、そこには赤や黄の空き缶が詰まったごみ箱がぽつんと立っているだけだ。


 酒を、飲みすぎたのだろうか。それにしたって幻聴なんてのは初めてだ。俺は何となく虚しい気持ちになって、頭をポリポリと掻いた。


 帰ろう。ため息を一つついて来た道を戻りかけると、


「ほぉーれ、ほぉーれ」


 という声が背後から聞こえた。はっとして振り向くと、そこには小柄な老人が一生懸命地面に向かって手をかざしていた。よれよれのジャケット、穴だらけのジーパンに、ほつれたマフラー、阪神タイガースの野球帽(ここは東京だ)を被り、無精ひげを蓄えた王道の浮浪者といった格好である。実在したんだ! 俺は三人目の変人に出会えたことを喜んだ。さっき誰もいなかったように見えたのは、きっといきなり眩しい光を見たんで目がくらんだせいだろう。


「あの、何してらっしゃるんですか?」


 俺は恐る恐る、老人に声をかけた。老人は、小粒甘納豆のような目で私の顔をじっと見つめると、地面のティースプーンを指さして、


「見てわからんかね、スプーン曲げの練習じゃよ」


 と言った。


「スプーン曲げ、というと、手品か何かですか」


 手品、と言った瞬間それまで温泉に浸かったサル山のおサルさんのように柔和だった老人の表情が一変した。


「たわけ! 超能力じゃよ、超・能・力! よく見んか、スプーンは地面に置いとるじゃろうが。こうしてわしは全く、指一本ふれとりゃせんのじゃぞ。イカサマできるわけがないじゃろが!」


「す、すみません」


 あまりの老人の迫力に、俺はたじたじと後ずさった。


「いいか、ああいうインチキはなあ、テコの原理を使ったり、手のひらにあらかじめ曲がったスプーンを用意しておいてこすってるふりして曲がってないスプーンと曲がっておるスプーンを入れ替えたりしよるんじゃ。わしはそんなこと一切できんようにこうして! 手から離してやっておる。見たらわかるじゃろうが、このアホンダラ! ボケ、カス、ラッパ!」


 見かけによらず、博識なじいさんである。老人は俺のことなどもう眼中にないと言った様子で、また


「ほぉーれ、ほぉーれ」


 をやり始めた。俺は阿呆のように口を開けて、その白昼夢のような光景に見入っていた。


「曲がりそうですか」


 三十分くらいたっただろうか。俺はまた老人に話しかけた。


「なんじゃ、まだおったのか」


 そう言いながらも、老人の目はまたさっきの甘納豆に戻っていた。


「いや、だめじゃ。今日はもうこの辺で勘弁しておいてやろう」


 老人はスプーンを拾い上げて立ち去ろうとする。俺は慌ててその後を追いかけた。


「なんでついてくるんじゃ」


 老人はうるさそうに俺を手で追い払う仕草をした。


「なんでって……その」


 俺は、もごもごしながら言い訳を探した。


「超能力に興味があるんです、俺も」


 老人は、立ち止まり、目をシパシパさせた。よく見ると、目尻に向かって下がった白い眉毛が何となく儚いようにも感じた。


 老人は、近くの川原に腰を下ろし、体育座りをした。俺も、少し躊躇いながらその横に座った。


「なんでこんな寒い日にスプーン曲げの練習をなさってるんですか。だいたい、スプーン曲げることができたって何の得にもならないと思うんですけど」


「そう思うかね」


「だって、例えば、もし、仮にですよ、俺がスプーン曲げしかできない超能力者だとするでしょう」


 風が吹いて、河原の草がザアッと揺れた。


「……だとしても、人に見せたってスプーン曲げしかできないんじゃインチキだと思われるし、そんなものなんの役に立つのかと訊かれればそれまでです。こんなに役に立たない能力ならない方がよかったと思ったり、自分は普通じゃないんだと悩んだりするんじゃないですかね」


「スプーン曲げは役に立たんか」


「立ちませんよ! ——と、思いますよ」


 老人は、ニカッと笑って、


「そうかな? 例えばほら、イヤガラセに使える」


「イヤガラセ、ですか」


「目の前で自分の気に食わん男が小指を立てて小粋に熱いスープをすすっとるとするじゃろ。そういう時に、スプーンをぐにゃりと曲げられたら、男の顔にあつーい汁がぼたぼたっとこぼせる。さっきまでオツにすましておったやつがぎゃーぎゃー叫ぶ。それを見て笑いながらスープを飲むという……ああ、考えただけで胸がスカッとする」


 爺さんはヤニで汚れた黄色い歯をむき出しにしてひひひひひ、と笑った。まるで、バナナを手にしたサルである。


「それは、ちょっと新しい発想ですね」


 また、風がザアッと吹いた。


「でも、そんなことするためにスプーン曲げの練習してるんですか?」


「チッチッチ、違うな。それはわしが天邪鬼だからじゃ」


「天邪鬼、ですか」


 老人は満天の星空を見上げて、うんうんとうなずきながら


「わしは子供のころからへそ曲がりでな、親がしてはならんということをし、教師がしろということはしなかった。みんながやっていることなんかやりとうなかったんじゃ。高校を中退し、親父に勘当され、家から盗んだ金でインドに行って死にかけた。日本に帰って来てもまともな職にもつかず、その日暮らしでぶらぶらしとったらいつの間にかこんな年寄りになっとった。だからどうせなら、最後はデッカイもの、つまりこの社会に盾突いてから死んでやろうと思ったのよ。今の世の中科学じゃろ。それでそれに対抗すべく超能力を身につけようと練習しとったんじゃ」


 俺は、先ほどの老人の豹変ぶりを思い出した。つまり、自分はつむじ曲がりのへそ曲がりのくせに、曲がらないスプーンを曲げようということか。難儀な爺さんだ。


「でも、練習して身に着くものではないでしょう、超能力って」


 老人はカカカッと笑った。


「だから、わしは天邪鬼なんじゃ。できんと言われたことに反発したくなるんじゃ。一度やると決めたらテコでも動かん。ただなあ、もうかれこれ三年は練習しとるのに、ちっとも曲がらんからなあ。このままでは死んでも成仏できんわい」


「はあ」


 俺は、しばらく黙って老人と並んで空を見上げていた。その内だんだん夜空が白み始めてきた。明けていく夜空を見上げていると、俺にある考えが浮かんできた。


「さあ、どっこいもう行かねば」


「お帰りになるんですか」


 しかし、俺はそれを実行に移すかどうか決めかねていた。おそらく、この爺さんは今まで他人に反抗し続け、こんなに落ちぶれて、この年になってもいたわってくれる妻子も帰る家もないんだろう。社会から鼻つまみ者にされ、他人から笑われてきたんだろう。せめて、最後に一度くらい連中の鼻を明かすことができたっていいじゃないか、そう思った。


「みんな朝起きて夜寝るからな。わしはその逆を行く。不良老人昼夜逆転生活じゃ。カカカ」


「待ってください!」


 呼びとめたものの、まだ俺は迷っていた。何か言わなければ、と思いとっさに


「……本当に、曲がると思いますか、スプーン」


 と訊いた。


「フン、わしの反骨精神はなあ、そんじょそこらの電信柱なんかより、よっぽど硬いんじゃ。そっちを曲げるより、超能力でスプーン曲げた方がよっぽど容易いわい」


 その言葉を聞いて、俺の心は決まった。


「待ってください、もう二度とスプーン曲げはしないほうがいいと思います」


「何?」


 老人の顔がまた豹変し始める。よし、バッチリ掴んだ。


「絶対に、しないほうがいい。いや、するな。いくら練習したってできっこない。超能力なんてこの科学の時代に馬鹿げてる」


「うるさいうるさいうるさーい、何の権限があってお前にそんなこと命令されにゃいかんのじゃ。ようし、やってやる、やってやるぞぉ。今すぐここで」


 老人はポケットからスプーンを取り出し、ペッと地面に投げつけて


「ほぉーれ、ほぉーれ」


 とやり始めた。俺は、それと同時に全神経を集中し、スプーンに気を送った。曲がれ、曲がれ、曲がれ……すぐに、ぐにゃり、とスプーンが曲がり始める。


「おっ、おおっ、曲がっとる、曲がっとる」


 老人は、喜んでパワーを送り続けた。しまいにねじれ切ったスプーンはポトンと、首がもげてしまった。


「見たか! わははは、ざまみろ、ざまみろ。曲がったぞ、曲がったぞ——」


 老人は、そう言ってうれし涙を流しながらスプーンに駆け寄った。その時、川の向こうからその日最初の陽光が一直線に俺たちを照らした。あまりの眩しさに、俺は手の平で目を覆った。


 すると、かざした指の隙間から老人の体がだんだんと透き通っていくのが見えた。ぎょっとして目から手を外すと、あとはもう声もなく、嬉しそうにスプーンを握りしめる老人を見守った。やがて老人の持っていたスプーンがポトリと落ち、その姿は朝の町の風景と完全に同化してしまった。


「幽霊、だったんだ」


 俺は、昇る朝日を見つめながら、茫然としてつぶやいた。


「スプーン曲げ、役に立ったじゃねえか……」

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