ブルーヘブン   作・網代陸

【青峰幸子の「日記帳」より抜粋】


 ……木寺くんがいてくれてよかった。もしも、いてくれなかったら、わたしはどうしていいか分からなかっただろう。木寺くんがわたしに、この居場所をくれたんだ。


 青い光につつまれた、この楽園があるから、わたしは強く前向きになれる。そんな気がする。……




 *****




 お母さんは、二人いる。


「死ね! もう、嫌! 顔も見たくない」


 そう言うお母さんの顔を、わたしは泣きながら見つめていた。お酒のにおいがして真っ赤な顔のときの、もうひとりの方のお母さんは、いつも怖い。


「泣くな!」


 お母さんはグーの手で私の頭を三回たたいた。腕で頭を守ろうとしたけれど無駄だった。頭と心が、とても痛かった。とても悲しかった。


 お母さんはわたしの腕をつかんで引っ張って、わたしたちの部屋へ連れていき、ふとんの上に突き放した。


 わたしが泣きながら毛布の中に入ろうとすると、そこにはすでにお姉ちゃんがいた。


「バカ。お酒のときのあの人には近づかない方がいいのに」


 暗い毛布の中で、お姉ちゃんはそう囁いた。


 お姉ちゃんは私より二歳上の、小学五年生だ。とても優しいけれど、ときどきわたしに厳しい。


「でも、お母さんのこと好きなんだもん」


 せまい家だから、居間でお母さんが泣いている声が聞こえてくる。かわいそうだと思うけれど、わたしにはどうすることもできない。


 お姉ちゃんはため息をつきながら言う。


「あんな風にたたかれるのに、好きなわけ?」


「やさしいときもあるもん」


「……」


 お姉ちゃんは、何も言わなかった。お姉ちゃんも、お母さんがいつも怖いわけじゃないと知っている。


 そしてお姉ちゃんは、わたしのことをひき寄せて、ぎゅっと抱きしめた。わたしの目から、止まりかけていた涙がまたあふれ出した。


 お母さんのことは好きだ。ご飯はおいしいし、美人だし、わたしが三年生になってからは、学校の行事にもよく来てくれるようになった。わたしはほかの子たちとちがってお父さんがいないので、なおさらお母さんのことは大好きだ。だけど……。


「こわかった……」


 小さな声でわたしは言った。お姉ちゃんが、わたしの頭をなでてくれた。


 ひとしきり泣いた後でわたしはお姉ちゃんにありがとう、と言った。そしてふとんを出て、暗い机に向かい、ランドセルの中から「日記帳」を取り出した。


 この「日記帳」は、一年くらい前にお姉ちゃんがお小遣いで買ってくれたものだ。お姉ちゃんは、「何か不安なことや悲しいことがあったらこれに書きなさい」と言ってくれた。


 だから今日もわたしは、お母さんにたたかれて悲しかったということを書き記す。


 誰に見せるためでもない。自分の気持ちと向き合うためなんだ、とお姉ちゃんは言っていた。


 「夜の仕事」でお酒を飲み、顔を真っ赤にして帰ってきたお母さんは、ときどきわたしやお姉ちゃんのことを叩いたり蹴ったりする。だけど、そのとき以外のお母さんは大好きだから、わたしはお母さんといつまでも一緒にいたいと思っていた。




 次の日の朝。わたしが起きて居間に行くと、ご飯とお味噌汁とウインナーがちゃぶ台の上に用意されていた。


「おはよう、幸子」


 お母さんは笑顔で言うと、わたしに近づいてきて、ひざを曲げて、わたしのことを抱きしめた。今は、「やさしい方」のお母さんだ。お母さんがわたしを抱きしめる力はお姉ちゃんよりも強くて、わたしは少しだけ苦しくなる。


「昨日はごめんね……。もう、たたいたりしないからね」


 ホッとする声でそう言われたので、わたしはお母さんの肩をポンポンと叩いた。


「いいよ。だいじょうぶ」


 保育園の先生に教えてもらったんだ。「ごめん」と謝られたら素直に許してあげよう、って。


「お姉ちゃんは先に学校行っちゃったわよ」


「はーい」


 わたしは急いで朝ごはんを食べてから歯みがきをして、玄関へ向かう。家を出る前に、お母さんが「いってらっしゃい」と笑顔で手をふってくれた。


 昨日の夜、わたしをたたいた方のお母さんのことを思い出さないようにがんばりながら、わたしはお母さんに手を振った。




 *****




「青峰さん、また本を読んでいるの?」


 図書室のなかで顔をあげると、担任の上戸先生がいた。上戸先生は男の先生で、メガネをかけた若い人だ。いつも怒ったような顔をしていて、少しこわい。


「クラスの他の子といっしょに外で遊ばなくていいの?」


「こっちのほうが楽しいから、いいの!」


「そうか……」


 小学校には、ともだちがいない。


 だからわたしは、給食の時間が終わって昼休みになるといつも、図書室に行く。そしてそこで、おきにいりの本を読むのだ。


 本のタイトルは『青の園』だ。


 お父さんとお母さんが死んでしまい生活に困っているお兄さんと妹がある日、森で青い鳥を見つけ、その鳥を追いかける。いろんな冒険をしたお兄さんと妹は、森の奥ふかくにある楽園を見つける。その楽園は美しい青色の光で満ちていて、兄妹は森の動物たちといっしょに一生そこでなかよく暮らす。というお話だった。


 本にはさし絵もついていて読みやすかった。特に、キレイな青色の光に満ちあふれた楽園が描かれたページはほんとうに大好きだった。


「青峰さん」


 上戸先生にもういちど名前を呼ばれた。先生がそこにいたことを思い出したわたしは、先生に向かってこう言った。


「大丈夫だよ先生! 好きでこうしてるだけだもん」


 上戸先生は少しだけおどろいたような顔をしたあとに、にっこりと笑った。先生が笑顔になることはあまりなかったので、わたしもおどろいた。


 そして先生はすぐに、いつもよりも真剣な表情になって、わたしに話しかけた。


「何か困ったことがあったら、すぐ先生に言うんだぞ。例えば、お母さんの……」


 上戸先生が話している途中で、チャイムの音が鳴った。昼休みが終わる合図だ。


 急いで掃除場所に行かないと、用務員の佐山先生に怒られてしまう。


「じゃあね、上戸先生!」


 そう言ってわたしは席を立ち、図書室を出た。すると、ろう下で男の子とぶつかりそうになった。


「あ、ごめん!」


「ああ、こっちこそ……」


 男の子は、たしか隣のクラスの木寺くんという子だったはず……。


 木寺くんはわたしが出てきたばかりの図書室のほうをじっと見ていた。本を借りに来たけど、間に合わなかったのかな?


 そんな風に考えていると、木寺くんと目が合った。


 少し、ドキッとした。


 そして木寺くんは、すぐにこっちから目をそらして、歩き去っていってしまった。


 木寺くんの目は、わたしの心をすごく揺さぶった。その理由に、わたしはひとつ心当たりがあった。木寺くんの家も、お父さんがいないのだ。自分と似ているから、仲良くなりたいと思えたのだろう。


 木寺くんを追いかけるようにわたしはろう下の角を曲がる。だけど、結局そのすがたはどこにもなかった。


 わたしは立ち止まり、そこでしばらくぼーっとしていた。でも、掃除の時間を告げる音楽が鳴り始めたので、わたしは小走りで教室に向かった。


 走りながらわたしは、いつか木寺くんとお話することができたらいいな、と思っていた。




 *****




 その日の放課後。お母さんの様子が少し、おかしかった。


「ただいま……」


 玄関にお母さんの靴があるのを見つけたわたしは、そう小さく言って、そろりそろりと家の中へ入っていく。


 そんなことは珍しいけど、もしも昼間からお酒を飲んでいたら、「怖い方」のお母さんになっているはずだ。だからお姉ちゃんの言うとおり、近づかない方がいいのかもしれない、とわたしは思う。


 そんなことを考えながら歩いていたときだった。


「うっ……!」


 お母さんの声が聞こえてきた。


 なんだか苦しそうだ、と思う。


 リビングのドアが少し開いていたので、そこからお母さんの様子を覗き見る。


「っ……」


 お母さんは半分こっちに背中を向けて、口元を右手でおさえていた。その手から低い声が漏れている。それに、背中を丸めて、なんとか息を整えているようにも見える。


 さっき声を聞いてイメージしたよりもずっと、苦しそうだ。


 わたしはなぜか、とっさにその場面から目をそらして、逃げるように自分たちの部屋へと戻った。


 お母さんの身に何があったのだろうか、と考える。お酒を飲んであんな風に気持ちが悪そうになっているのを、わたしは見たことがない。


 ぞわっと、いやな予感がした。


 わたしが思い出したのは、『青の園』という本のことだった。その本のはじまりの場面では、主人公の女の子の両親が、重い病気によって死んでしまう。ちょうどさっきのお母さんのように……。


 もしもお母さんが死んでしまったら……。わたしの体はもう苦しまずに済むけれど、きっとすごくすごく悲しくなるんだろうな、と想像し、怖くなった。


 わたしは部屋に戻って、「日記帳」を開き、そんな不安な気持ちを書き記した。




 結局そのあと夜に姿を見たお母さんは元気そうで、ほとんど毎日行っている夜の仕事にも行かず、わたしとお姉ちゃんと一緒に人生ゲームをして遊んでくれた。お姉ちゃんは、はじめこそそんなお母さんを怪しんでいたけれど、結局とても楽しんでいたようだった。そしてもちろん、わたしもとても楽しかった。




 *****




 お母さんは、そこからしばらく、「やさしい方」のお母さんのままだった。夜のお仕事にもほとんど行かなかったし、行ったときにもお酒を飲まずに帰ってきた。


 だからわたし自身も、いつもよりずっと楽しく過ごしていたのだけど、その日学校で、とても嫌な気分になる出来事があった。




 帰りの会が終わり、帰る準備を始めようとしていたときのことだった。誰かがわたしの方をぽんとたたいたので振り向いたところ、それは同じクラスの百瀬さんという女の子だった。


「青峰さん、だいじょうぶ?」


 百瀬さんは、はきはきとした声で、わたしに話しかけてきた。百瀬さんは町で唯一の総合病院「百瀬病院」の一人娘だ。お母さんが言うには、院長先生である百瀬さんのお父さんは、「顔が広い」らしい。そんなにお顔が大きいとはわたしは思わなかったけど。


 百瀬さん自身も、明るくてスポーツも勉強もできるすごい女の子だ。そしてだからこそ、わたしとはあまり縁のない人でもある。


「だ、だいじょうぶ、って何が?」


 わたしは少しどもりながらも、浮かんだ疑問をそのまま口にした。


「あなたのお母さんのことよ」


 わたしはドキッとした。わたしたちがお母さんにひどいことをされていると、百瀬さんが知っているのかと思い、怖くなる。


「昨日、お父様の病院であなたのお母さんをお見かけしたの。とても不安そうな顔をされていたわ」


 百瀬さんが「怖い方」のお母さんのことを知らなかったことにひとまず安心したけれど、すぐにまた別の心配事ができた。


 お母さんが病院に? わたしやお姉ちゃんには何も言わずに……。たしかに数日前に見たお母さんは具合が悪そうだったけど……。


 もしかしたらお母さんはひどい病気なのかもしれない、という悪い予感が胸の中をかけめぐった。『青の園』という本のように。


「そ、そうだったんだ……」


 動揺しながらもそう返すと、百瀬さんはさらに言葉をつづけた。


「お母さんの健康、気遣ってあげたら? お母さんにもしものことがあったら大変よ。あなたのお家、お父さんいないんでしょう?」


 百瀬さんのその言葉にわたしは、自分でもよく分からないままに腹が立ったし、とても悲しくなった。


 気が付けばわたしは、百瀬さんの肩を手で突き飛ばしていた。


「ちょっと、何するの⁉」百瀬さんは甲高い声でそう言う。


「あ、ご、ごめ……」


 帰ろうとしていたクラスのみんなが、こちらの方を見ていることを感じた。わたしは慌てて机の上のランドセルを片手に持ち、走って教室から飛び出した。


 自分の感情がよく分からなかったけれど、今はとにかく一瞬でも早く、そこから逃げ出したかった。




 家に向かって走りながら考える。


 どうしてあんな態度を取ってしまったんだろう。百瀬さんは、ただわたしのことを心配してくれていただけなのに……。


 きっと、わたしの気持ちを何も知らないはずの百瀬さんに、家庭のことを話されたのが嫌だったんだろう、と自分で想像する。


 それに、お母さんが重い病気なのかもしれないと分かって、動揺していたんだ。「もしいなくなったら」絶対に考えたくないそんな未来のことを、百瀬さんは口にした。


 だけど、それでも、手を出すほどのことじゃなかった……。




 後悔の気持ちを抱えながら、家に帰り着いた。玄関には、またお母さんの靴があった。


「ただいま~」


 そう言ったけれど、返事はなかった。くつを脱いで、ろう下を歩いていき、居間に入る。そこでは、お母さんがまた苦しそうにしていた。


 ちゃぶ台のそばに座りこみ、頭に手を当てて、うんうんとうなっている。


「お母さん、だいじょうぶ?」


 お母さんに近づきながら声をかけるけれど、また返事はない。


「お母さん?」


 わたしがお母さんの肩に手を置きながらもう一度声をかけると、お母さんは怖い顔でこちらを振り返って、わたしの手を強く振り払って、叫んだ。


「うるさい! あっちに行って!」


 わたしは驚いて、その場に立ちすくんだ。お母さんの顔は真っ赤になっていなかった。「やさしい方」であるはずのお母さんが、わたしの手を振り払った。


「あ……」


 お母さんは自分でも驚いたような顔をしていた。


 そのときわたしは思った。さっき百瀬さんのことを突き飛ばした後のわたしも、こんな顔をしていたのかもしれない、と。自分でもよく分からないままに、人を傷つけてしまったときの顔……。


 お母さんのこと。お母さんが病気かもしれないこと。お母さんに似ている自分自身のこと。いろいろなことが怖くなって、わたしはまた逃げ出した。


「幸子!」


 お母さんが叫ぶのが聞こえたけれど、足を止めることはできなかった。ランドセルを背負ったまま、わたしは家を飛び出した。




 走って走って、わたしは近所の公園にたどり着いた。大きなお椀をひっくり返した形をした遊具が公園の真ん中にはあって、それを貫通するように作られた穴の中に、わたしはもぐりこむ。


 さまざまな感情が自分の中にあることだけを、わたしは感じていた。悲しかったり、不安だったり、怖かったり……。


 だから、それらの感情と向き合うために、わたしは「日記帳」を取り出そうとランドセルを開く。


「あれ……?」


 ランドセルの中身は、ほとんど空っぽに近かった。わたしはそのときになってようやく、百瀬さんから逃げるように学校から出てきたために、帰りの準備をまったくしていなかったことを思い出した。


「日記帳」は、学校の教室にある、机の中だ。




 *****




 下校時刻を過ぎたあとの学校にしのび込むのは、ドキドキした。けれど思っていたよりも簡単だったので、安心したのと同時に、少しがっかりもした。


 足音を立てないように、ろう下を歩いていく。


 お母さんにまつわるいろいろな感情は、わたしの中から消え去ってはいなかった。けれど、先生に見つからないようにしなければ、という緊張感は、それらの感情を少しだけ薄れさせてくれたような気がした。


 一階にある教室のドアを開き、中に入る。わたしの机がある位置に目をやると、そこには思いがけない人がいた。


「木寺くん……?」


 わたしが小さく呼ぶと、木寺くんはこちらを振り向いた。少しだけ驚いたような表情を見せた木寺くんの手には、わたしの「日記帳」が握られていた。


「そ、それ、わたしの……」


 わたしはそのとき、怒るべきだったのかもしれない。自分の持ち物を勝手に開かれているのだから。だけど、そんな気にはならなかった。それはやっぱり、木寺くんとわたしがどこか似ているからかもしれなかった。


「ごめん。勝手に読んじゃった」


「そうなんだ……」


 数秒間、二人とも何も言わなかった。雲が流れて、教室の窓から真っ赤な夕日がさしこんだ。そのせいで、木寺くんの表情が見えづらくなった。


 先に口を開いたのは、木寺くんの方だった。


「好きなんだな、お母さんのこと」


 わたしは恥ずかしさで顔に血が昇るのを感じた。わたしがどんなことを思い感じたのかは、「日記帳」にすべて書き記している。そしてそれらを、木寺くんは読んだのだ。


「うん、好きだよ……」


 わたしは、恥じらいながらもそう言った。さっきはお母さんのことを怖がってしまったし、今でも不安に思うことはたくさんある。だけど、好きという気持ちは、本当のものだった。


「そうか……」


 また雲が流れて、夕日を隠した。そうして見えた木寺くんの表情は嬉しそうでもあり、わたしのことを、かわいそうに思っているようでもあった。


 そして次に木寺くんは、わたしにとって絶望的な言葉を、口にした。




「青峰は、もうお母さんと一緒には暮らせないかもしれない」




 言っている言葉の意味が、よく分からなかった。


「それって、どういうこと……?」


 足が震えているのを感じた。怖がっていた、正体の分からない何かが、音を立ててこちらに近づいてくるような感覚だった。


「お母さんが、青峰たちに暴力をふるっていることが、たぶんバレているんだ」


 数時間前、百瀬さんに話しかけられてたときにわたしが不安に思っていたことだった。


 でも結局、百瀬さんはそのことについて、何も知らなかったはず……。


「俺、このまえ偶然見ちゃったんだ。上戸先生と、青峰のお母さんが何か話しているところ。どう見ても普通に世間話をしているようには見えなくて、言い合いになってた」


「上戸先生と、お母さんが……」


 たしかに、上戸先生はわたしのことをよく気にかけてくれていた。でも……。


「そのときはどうしてだろうと思ってたんだけど、この『日記帳』を見て納得した。上戸先生は、青峰のお家の事情を、何かのきっかけで知ってしまった。それこそ『これ』をどこかで読んだのかもしれない」


 わたしは、数日前に、図書館で上戸先生が声をかけてくれたことを思い出した。今思い出せば、あのとき先生はたしか、お母さんのことについて何か私に話を聞こうとしていたかもしれない……。


 木寺くんは続ける。


「お母さんの具合が悪そうって『日記帳』に書いてあったけど、虐待がバレたことについてお母さんは悩んでいただけなのかもしれない」


 わたしは動揺しながらも、必死に考える。そしてその言葉に反論したくなった。


「でも、そんな悩みで、病院にまで行くかな?」


「病院?」


 そうだ。今日百瀬さんから聞いたその話はまだ「日記帳」に書いていないから、木寺くんが知っているはずがない。そのことを説明すると、木寺くんは。はっとしたようにこう言った。


「それはきっと、心の検査に行ったんだ」


「心の……?」


「虐待をしてた親に、心の病気が認められれば、有罪じゃなくなるかもしれない。だからそれを調べに行っていたんだ」


 重い病気じゃないかもしれない、という可能性は、わたしにほんの少ししか安心感を与えてくれなかった。


 お母さんが、捕まる……。わたしは、さっきまでよりもずっと怖くなった。もしもお母さんを一緒に暮らせなくなってしまったら、わたしとお姉ちゃんは世界に二人きりになってしまうような、そんな気がしていた。


 わたしはなんとか正気を保とうと、木寺くんとの会話を続ける。


「き、木寺くんは、どうしてそんなことに詳しいの?」


 窓の外の景色は、もう暗くなり始めていた。うす暗い教室の中で、木寺くんが悲しそうに笑った。


「俺もおんなじだから」


「えっ?」


「こっち来て」


 わたしはドキドキしながらも、言われるままに木寺くんの方へ近づいていく。そして木寺くんは着ていたTシャツをめくった。そこにはいくつもの青いあざがあった。


「これって……」


「俺も母親から虐待されてた」


 やっぱり、どこか似ていると感じたのは間違いじゃなかったんだ、と思う。訳も分からず流れそうになる涙をこらえながらわたしは、疑問に思ったことを尋ねる。


「されてた、ってことは、今は……?」


「母親は捕まったよ。だから俺、明日からは施設に行くんだ」


 わたしは衝撃を受けた。木寺くんが何でもないようなことのようにその事実を告げたことに対してもだし、何より、わたしやお姉ちゃんもそんな運命をたどるかもしれない、ということに衝撃を受けた。


「だから俺さ、今日、青峰の……」


 そう話していた木寺くんの言葉を最後まで聞くことはできなかった。


「誰かいるのか?」


 用務員の佐山先生の声だった。教室の外から聞こえてきたけれど、とても近くにいることが声の大きさから分かった。


「逃げるぞ!」


 木寺くんは、右手にわたしの「日記帳」を持ち、左手でわたしの手を引いた。そして「日記帳」を持ったままの手で器用に教室の窓を開け、わたしたちは二人でそこから外に飛び出した。




 *****




 どれくらい走っただろうか。空はすっかり暗くなり、星が輝いていた。


 わたしたちは、町のはずれの、元は工場地帯だったという場所にたどり着いた。聞いた話によると、動いている工場はほとんどないらしい。まわりには茶色い雑草ばかりが生えていて、古い建物そこら中にあった。


「ここに、青峰を連れてきたかったんだ」


 木寺くんは、わたしと手をつないだまま、まじめな顔でそう言った。お母さんと離れ離れになってしまうのが嫌で、泣きそうになっているわたしは、ただひたすらに木寺くんの手を強く握りしめていた。


「こっち」


 引っ張られるままに、わたしは歩いていく。途中で「立ち入り禁止」という看板のついた鎖があったけど、わたしたちはそれを無視して、鎖をくぐりぬけた。


「昨日、町を出る前にいろいろ見ておこうと思ってここを歩いてたら、見つけたんだ」


 木寺くんは、ひとつの古い倉庫のような建物の前に、わたしを案内した。


「俺も分かるんだ。母親のことは好きだけど、辛いことはいっぱいあって、逃げ出したくなるようなときがある」


 わたしは、泣いているのを木寺くんに気づかれないように、そっぽを向きながらその言葉を聞いていた。


「だから、逃げたくなったときは、ここに来るといいよ。中は少ししか見てないけど、ちょっと家出するには十分そうだったし。今から青峰やお母さんがどうなるにしろ、まだこの町にいる時間は残ってるだろうからさ」


「……うん」


 わたしは、そう短く返事をすることがやっとだった。嬉しさと悲しさが心の中で混ざり合って、もうおかしくなってしまいそうだった。


「俺、今日の夜にはもう施設に向かって出発しなくちゃいけないんだ」


「……そうなんだ」


 せっかく話すことができたのに、すぐさよならをしないといけないなんて、悲しかった。しかもお母さんまで、わたしのもとから離れてしまうかもしれない……。


「だから今日の放課後、これを青峰の机に入れておこうって思ってたんだ」


 繋いでいた手を離し、こちらを向いた木寺くんがポケットから取り出したのは、小さな封筒だった。


「手紙……?」


「うん。でも、もう渡さなくていい。ここで言う」


 心臓が、どきりと跳ねた。




「青峰、好きだ」




 わたしはのどが熱くなって、ぽろぽろと目から涙が出てくるのを感じていた。わたしも今、気づいたのだ。自分が、木寺くんのことを好きだったことに。


 だけど、わたしの好きな人は、いつもわたしの前からいなくなってしまう。お父さん、木寺くん、それに、お母さん……。


 だからせめて、伝えようとした。


 好きだという、わたし自身の思いを。


「あ、ありがとう、あのね……」


「あ、俺もう行かなきゃ」


「え……」


 木寺くんの表情は、暗くてよく見えない。だけど、さっき教室にいたときと同じように、悲しそうに笑っているんじゃないか、と想像することができた。


「大人になって、また会えたらいいな」


 彼は持っていた「日記帳」をわたしに返して、その場から走り去っていった。




 わたしはあふれてくる涙を袖で拭いながら、倉庫の扉を開いた。重たかったけれど、なんとかわたし一人でも開けることができた。


 中はうす暗かったので、手探りで奥の方へと進んでいく。すると、何かにつまづいた。よく見ると、それは取っ手だった。


 ランドセルと「日記帳」を置いて、その取っ手を引っぱり上げると、地下室へと続く階段が現れた。そして驚くべきことに、そこからは淡い青色の光がもれ出ていた。


 わたしは急いで、だけど慎重にその階段を下りていく。


「うわぁ……」


 地下室は、一面が美しい青色の光で満ちていた。それはまるで『青の園』という本の、わたしが大好きなあの挿絵のような光景だった。


「きれい……」


 何かの機械から出る光だと分かっていても、わたしにはそれで十分だった。わたしは、その場で横になる。


 きれいな青い世界でわたしは、自分の心が少しずつ癒されていくことを感じていた。


 木寺くんはいなくなってしまったし、お母さんとも、もう長くは一緒にいられないかもしれない。だけど、その人たちを好きだという気持ちをずっと大事にしようと、そう思えた。


 あの本のように動物たちがいるわけではないけれど、この場所こそが、今のわたしにとっての楽園だった。




 わたしは起き上がり、ランドセルからえん筆を取り出す。


 お母さんへの思い、お姉ちゃんとのこれから、木寺くんへの感謝、自分の中のいろいろな感情と向き合うために、わたしは今日もまた、「日記帳」を開いた。

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