瓶詰めのクローバー   作・水彩度

「お邪魔しまぁす」


 私はそそくさと靴をぬぎ、勝手知ったる彼女の部屋の廊下を我が物顔で歩いて行く。


「いやいや! 流石に家主を置いていかないでよね~」


 背中の方で、そうあきれ声で呟く友人の声が聞こえるが、あいにく私は既にリビングへのドアに手をかけていた。もう何十回と来ているのに、何をいまさら。


 リビングは相変わらずこぎれいに整頓されていた。白で統一された室内は彼女の性格を表しているようだった。「今日は部屋が汚いから」と言われて、髪の毛一本でも落ちていたことは今までに一回たりともない。


 神聖さすら感じる部屋の様子にぼうっと立っていると、遅れて家主が部屋に入ってくる。


「仕事終わりにわざわざごめんね~。何かお礼はするからね」


 仕事用の鞄を定位置の棚の上におくと、彼女はいそいそとキッチンの方に行ってしまった。確かに仕事終わりだけど、別に忙しかったわけではないし、自分のマンションに戻ったところでやることなんてないのだから。そう毎回毎回言っているはずなのに、彼女はいつだって何かお礼をしようとしてくれる。前々回はちょっとおしゃれなクッキー、前回はカフェに連れて行ってもらったんだっけ。記憶の中の彼女はいつだってふわふわと笑っていた。


「ごめんね~今持ってくるから座ってまっててね~」


 キッチンから間延びした声が聞こえてくる。私は「うん、わかった」と返すといつものソファに座る。手持ち無沙汰なので横にあるクッションを掴むと、ふわりと柔軟剤の優しい香りがした。感触を確かめながらキッチンの方を見やると、ちょうど目的のものを見つけたのか、彼女が「あ、これこれ!」と言いながらこちらへ向かってくるのが見えた。


「あ、誕生日にくれたそのクッションすごくさわり心地いいよね! 私もすっごく気に入っちゃって、テレビ見ながらずっと触っちゃうんだ~」


 あげたのは私の方なのに、「えへへ」と少し照れくさそうに彼女が笑う。「それはよかった」と私もそれに微笑み返すと、入れたばかりの紅茶とともにビンが目の前に置かれた。


「紅茶も飲んでね~。そしてこれが今日お願いしたいやつ! 駅横のお店で買ったんだけど全然開かなくて・・・・・・」


 彼女は申し訳なさそうに眉毛を下げた。差し出されたビンの中は液体で満たされていて、カラフルな野菜がつけられているように見えた。


「これ、ピクルス?」


「そう! カラフルで素敵だし美味しそうだったんだよね~。けど買ってみてびっくり! 全然私じゃ開けられなくって・・・・・・」


 会社でも同じ説明を聞いていたが、改めて聞かされるとどうにも素っ頓狂なお願いで思わず苦笑してしまう。「わかったわかった」と彼女をなだめて、ビンを手に取る。私だって力が強い方ではないんだけどなぁと思いつつ蓋に手をかけて力を込める。


 うーん、確かにちょっと固いな。けど滑る感覚はないし、このままもうちょっと粘れば・・・・・・


 ガコン


「わぁ! 開いたね! 流石だよ~」


 力任せにねじっていると、大きめの音と共に蓋は開いてしまった。中身をこぼさないようにあわててビンを水平に保つと、少し私の手に飛び散った液体をティッシュで拭き取りながら、彼女は「ありがとう~」と微笑んだ。


 思いのほかあっけなく終わってしまった頼み事に、二人して少し沈黙する。三秒まっても五秒まっても彼女は少しうつむきながら何も続きを言い出さなかったので、代わりに私が話を切り出すことにした。


「会社でなんかあった?」


 その言葉に、はじかれたように彼女が私の方をみる。さっきよりも眉尻を下げながら、彼女は申し訳なさそうに「やっぱ気づいちゃった?」とか細く返事をした。


 何をいまさら。これまでに何回もあったことじゃないのと彼女の言葉の続きをまつ。言いにくそうにしながら、彼女はぽつぽつと話し始めた。


「営業に松谷くんっているじゃん? ちょっと前に用事があって話してから何回かご飯にも行ったんだけど・・・・・・あ、もちろん会社のみんなでのご飯だよ? それでこの前「前から気になってたんです。よかったらお付き合いしませんか」って言われちゃって・・・・・・全然そんな風に考えてなかったらどうしたらいいかわかんなくて・・・・・・」


 なんとなく予想はしていたが、案の定「それ」に関する話だった。こんな風な相談を受けるのは一回や二回ではない。学生時代のころから幾度となく言い寄られてきた彼女は少々男性不信気味で、何か別の用事と称してその手の相談を受けることも少なくなかった。申し訳なさそうに「今日うちに来てくれない? 頼み事があって・・・・・・」という彼女の姿を見てそういうことだろうなとは感じていたが、あまりの的中ぶりにため息をつきたくなる。もちろん実際にはつかないが。


 確か前回の相談は二ヶ月前で、このスパンは歴代最短だぞと頭のどこかでぼんやりと思いながらいつも通り当たり障りないことをつらつらと言っていく。「その気がないなら始めに断るべきだ」だの「ちゃんと言えばわかってもらえる」だの、あとは、


「彼には既にお付き合いしている人がいる」だとか。


 彼女は私の言葉にみるみるうちに悲しげに表情を歪ませると、しまいには「そっか・・・・・・やっぱりそうだよね・・・・・・やっぱりちゃんと相談してよかった」と、ぽつりと言葉をこぼした。私はそれに適当に「そうそう、その場で返事するのはよくない」などそれらしいことを付け加えると、彼女は納得してくれたようだった。それに「私たちの年齢なら、付き合ったら結婚のことも考えなきゃならない」と、いつものごとく付け加えると、かわいそうなくらいさっと彼女の顔が青ざめるのが見えた。


「うん・・・・・・そうだよね・・・・・・いつも相談にのってくれてありがとうね」


 いったんは落ち着いたのか、彼女はそう私に笑いかけてくれた。


「そうそう。あんたはこういうの疎いんだから、ちゃんと私に相談するのよ?」


 これも決まり文句。計何十回目の台詞、それでも彼女は嬉しそうに「ありがとう」と微笑むのだった。


 そのあとは紅茶を飲み干すまで適当におしゃべり。相変わらず角砂糖を大量に入れる私に彼女は驚いていたが、彼女の方だって私がいくら進めてもストレートを譲らないのだった。


 明日も仕事なのでもうそろそろ、といつものように切り出すと、彼女はいつものように玄関まで私を見送ってくれた。そういえば経理課の同期は今度結婚するのだと、靴を履きながら何でもないように切り出す。「あなたは結婚しないの?」と声色を変えずに尋ねると、彼女は困ったように「結婚は、したくないなぁ」と苦笑した。その表情を目に焼き付けると、「最後に変なこと聞いてごめんね。また呼んで」と告げる。彼女が嬉しそうに「うん」と返事するのを聞いて、私は扉を開けた。


 


 ドアを閉めて、鍵が掛けられた音を聞いて、私はそっとドアに背を預けて寄りかかる。左右をちらと見て、近隣の人がいないのを確認すると、そのままずるずると地べたに座り込む。今このフロアには誰もいないが、私は誰にも見られないように口元を押さえた。口の端がだんだんとつり上がっていくのが押さえられない。くつくつと笑いだしそうになるのを必死でこらえる。片手で口を隠しながら、震える手でポケットにあった小型のボイスレコーダーを取り出すと、私にだけ聞こえる音量にして耳におしあて再生ボタンを押す。


「「結婚は、したくないなぁ」」


 数秒前の彼女の顔を思い出して、私はうずくまりながら気持ちを抑える。かわいらしくて、愛らしい、そして男性不信なのに誰にでも言い寄られるとびっきりかわいそうな彼女! ああ、どうして彼女は毎度毎度したくもない恋愛に、結婚に悩まされなきゃいけないんでしょうね! 整頓された綺麗な室内を、彼女の紅茶の癖を、彼女の歪んだ表情を私だけが知っている。一目みたら、一言交わしたら間違いなく惹きつけられる。そんな彼女の隣に立つことを私は許されている。私だけが、唯一許されているのだ。薄暗い優越感のままに、私は携帯を取り出すと、「松谷」と表示されたメッセージの通知を、軽く親指をスライドさせて削除した。



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