礼に始まり礼に終わる

阿宮菜穂み

礼に始まり礼に終わる

 早朝の冷え切った道場の入り口で礼をする。

 誰かいるわけではない。ただ闃寂げきせきとした空気の中、ひっそりと道場の正面に佇む神前に向かって行う。

 これは武道で1番に習うことだ。長年剣道をやってきた、浩康ひろやすにとっては手慣れたものだった。


 浩康は道場に入るとバケツと雑巾を用意して、掃除を始めた。これはいつも練習前にやるものである。

 掃除が終わると竹刀を持って来て素振りをする。何回とかは決めていない。いつも、次に誰かが入って来るまで行う。誰かが来ると、その人に元立ち(練習で打たせてやる人のこと)をお願いして、自主練をする。

 ガラガラ。

 道場の扉が開き、男が入ってきた。その男は神前に礼をせず、ズカズカと浩康が掃除した道場に足を踏み入れてきた。

 雅之まさゆきだ。

 雅之は入って来るなり、浩康を一瞥した。

 「毎日毎日、よくやるな」

 ――強くなれる訳ないのに。

 最後の一言は浩康にギリギリ聞こえる声量で言っているあたり、わざとらしい。

 この剣道という部活は実力が全ての世界であるため、「強いものが正義」みたいな風習がある。

 雅之は浩康の1つ下の後輩で、表向きでは浩康に対して敬ってはいるものの、裏ではだ。

 「1年たちが言ってましたよ。早く部活に行ったら、あんたの練習に付き合わされて大変だって」

 雅之のその言い方と、顔に張り付いた笑顔には明らかに毒があった。

 「それは、1年に済まないことをした。今度からはしないよ」

 「今度って…、あんた明日で終わりだろ」

 明日は浩康にとって、最後の中体連が控えていた。

 「明日、勝てば終わりじゃないよ。勝ったら、県大会に行ける」

 「はあ?うちのチームが勝てると思ってんのか?ムリだろ。明日は全国大会常連の北条ほくじょう中がいるんだぜ。しかも、北条の歴史上最強と謂われてる木下がいたんじゃ勝ち目なんか、残ってねえよ」

 ――ましてや、俺に勝てないあんたが個人戦で勝てるとも思えないしな。

 「……やってみないことにはわからないだろ」

 「じゃ、やってみろよ」

 ――相手してやる。


 勝負はすぐについた。

 雅之が1分とかからずに、浩康から2本取った。(剣道は基本3本勝負で面、小手、胴のどれかが気剣体きけんたいの一致で決まるとそれが1本となる)

 「わかったか?あんたには才能がない。今回、チームに入れてもらえたのは先生の情けだ」

 浩康は何も言えなかった。


 練習の時間が迫ってきて、部員が続々と道場に入ってきた。

 「雅之先輩。今日も早いですね」

 声をかけてきた1年生に対して雅之は、まあな。と軽くあしらったのち、言葉を続けた。

 「今日はオーダーを決める試合があるからな」

 オーダーとは剣道の団体戦において、出場する順番のことである。

 「雅之先輩なら余裕で大将ですよ」

 先輩に対して明らかに上目遣いをして話す後輩に、そうだな。と軽くうなずいた雅之はなぜか上の空であった。

 

 「メエェェェン!!」

 打突の時の発声が響き渡る。オーダーを決める試合が始まった。

 試合は総当たり形式で、選ばれた5人で行われた。

 浩康は勝つことができず、3回連続で引き分けた。対する雅之は3連勝していた。最後の試合は浩康と雅之の試合だ。

 互いに礼をして開始線まで3歩歩いて蹲踞そんきょする。

 「はじめ!」

 審判の号令がかかって試合が始まった。

 竹刀の剣先が触れ合う。次の瞬間、雅之の素早いメンがとんできた。その打突を浩康は竹刀で受け、鍔迫り合い《つばぜりあい》に持ち込んだ。

 しかし、その後も決まる技はなく時間がきて引き分けとなった。


 そして試合がすべて終わり、オーダーが発表された。

 その内容は驚くべきものであった。

 「は?」

 ――なんで俺が中堅なんだ……。

 誰もが大将になると思っていた雅之は中堅であった。そして……。

 ――俺が……、大将!?

 浩康はまさかのことに声が漏れていた。

 呆気にとられているのもつかの間、チームのメンバーを先生が集合させた。

 「今回のオーダーに異論のあるものもいるだろうが、明日はこれでいく」


 試合当日、空はあいにくの雨模様で会場内はジメジメしていた。

 試合は個人戦の部からはじまって、午後から団体戦の部である。個人戦は1年生から2年生、3年生と順番に行われる。2年生の雅之はどんどん勝ち上がって、あとは最後に行われる決勝戦を待つだけである。

 3年生の部の第1試合が浩康の試合である。そして相手は、去年も一昨年も楽々と優勝した木下だ。


 始まる前に体育館の正面に礼をする。そして、相手に礼をして3歩前進して蹲踞する。

 「はじめ!」

 審判の号令がかかった瞬間、木下は浩康の間合いのヌルリと入ってきて剣先が触れた。

 と思った次の瞬間、とてつもないスピードの竹刀が目の前に飛んできた。それをどうにか自分の竹刀で振り払い難を逃れた。

 初手で決めきらなかった木下は、すかさず間合いを切った(間合いの外にでること)。

 木下は攻防を完璧に心構えているようで、攻めのタイミングも引きのタイミングも最適である。それに加えて、間合いを切ったあとの構えも隙がなく堂々としていて威圧感がある。

 下手な打突は命取りだ。と浩康は考えながら、相手との間合いをジリジリと慎重に詰めた。浩康は相手の打突後のわずかな隙を狙うつもりだ。いわゆるカウンターであるが、攻防を弁えている木下相手では難易度が高い。

 しかし、その他の隙は無いと言っていいほどで、浩康が勝つにはカウンターが1番可能性があった。

 木下と浩康の間合いは縮まっていき、ついに両者とも打突可能な間合いとなった。しかし、2人とも動かず相手を待つ。

 先に動いたら負けると知っているからだ。

 緊張の糸が張る中、それを先に切ったのは木下だった。

 明らかにメンを狙う大きな振りかぶりで、踏み込む。

 それを狙っていた浩康は、しめた。と思いコテを狙った刹那、浩康の竹刀は叩き落とされメンを打たれた。

 「メンあり!」

 主審の声が響く。

 ――やられた。

 木下は浩康がコテを狙うのをわかっていて、大きく振りかぶって浩康の思い通りになったように見せて、綺麗な相小手面あいごてめん(コテを打ってくる相手に対して、同時にコテを打って相手の竹刀を撃ち落とし、連続でメンを打つ連続技)を決めやがった。

 そこからは、相手のペースで浩康は1本も取り返すことができずに時間が来て負けてしまった。


 浩康はこの敗退で、落ち込むことなく次の団体戦があると前向きに考えるようにした。


 団体戦は、そもそもチーム数が少ないため総当たり戦である。5チームあるうち1チームしか県大会には行けない。

 つまりは、4連勝しなければ県大会には行けないということだ。


 チームは順調に勝ち進み、残るは北条だけである。北条も3連勝しているようで、県大会を争う1試合となる。

 北条との試合までの間、残りの3チームが試合のようで時間があった。

 「おい。アンタ」

 浩康が振り向くと雅之がいた。

 ――ちょっとつら貸せ。

 いつもより感情の無い雅之の表情を見て、浩康は黙ってついて行った。


 人気無い体育館の裏に着いて、雅之は捻り出すように浩康に問いを投げかけた。

 「なんでアンタが大将かわかるか?」

 浩康にはなぜ自分が大将なのかは分からなかった。自分に実力がないのは昨日の試合の結果を見れば明らかであるし、実力のある雅之が大将になるのが妥当であった。

 ただ、自分が大将になった立場で大将になる予定だった雅之に何を言っても逆撫でするようで良い言葉が見つからなかった。

 何も言わない時間が流れる。いつの間にか雨は小雨になっている。聞こえるのは初夏の蝉の鳴き声と、体育館から漏れる試合中の発声と声援だけである。

 ふと目線を足下に落とした雅之が言葉を選びながら話しだした。

 「わからねえよな。それは俺もだった。だけど、今日の個人戦が終わって結果を監督に伝えに行ったときに、言われたんだ」

 ――おまえは、今回のオーダーが不満だろうがうちのチームが勝つにはどうしても北条が厄介だ。だが、北条は1人ひとりの強さの幅が大きい。木下は圧倒的だが他はそこまででもない。つまり、木下はどれだけの実力の差があっても引き分けに持ち込める浩康に相手してもらう。雅之、おまえには絶対に勝ってもらいたいからな。

 「だとさ。」

 下を向いていた雅之の目は哀しげに空を見上げた。

 「アンタは次の試合では勝てない。誰からも期待されてない」

 空から目線を落として、雅之は浩康の目を真っ直ぐと見つめた。

 「アンタの今まで、毎日毎日やってきた素振りも、打ち込みも、努力も何もかも無駄だった訳さ。誰からも期待されず、1番に道場に来て毎日掃除も何もかもしてるのに誰からも感謝されない。しまいには後輩からバカにされて……アンタ……悔しくないんか?」

 浩康は何も言えなかった。すると雅之は目を逸らして話を続けた。

 「オレが悔しいんだよ……。世の中は不公平にできてる。真面目にやってもできないやつはできない。けど、テキトーにやってできるやつはできるんだ。俺は真面目やれば、できるようになる人間だっただけさ。だから、練習に早く来て練習もしてた。だけど、毎日俺より早くくるやつがいる。は俺より努力しても強くならない。だからアンタはそもそもこんな努力しても無駄なこと辞めるべきだったんだ。なのにアンタは続けた。誰にも知られずにずっと努力をしてバカみたいだ。アンタは誰からも勝つと期待されてない。だから」

 ――勝て。そしてもうちょっと俺と一緒に努力しようぜ。

 その時、浩康は思い出した。浩康が2年の頃からほぼ毎日、稽古前に一緒に練習をしてた後輩はほとんど雅之だった。

 浩康の目の前がボヤけた。水の中にいるようだ。その水をゴシゴシと擦ってとり、おまえこそ勝てよ。といった。

 雅之は目元を少し赤くしたまま、ああ、もちろん!と軽快に一笑した。


 そして、北条との試合が始まった。

 先鋒と次鋒はあっという間に2本取られて負けてきた。北条も序盤で勝負を決めるために先鋒と次鋒に重心を置いていたようだ。しかし、大将は依然として木下である。

 中堅の雅之はあっさりと勝ってきた。

 が、副将が試合時間終了直前で1本取られてしまった。

 チームに絶望が走る。

 団体戦では単純な勝ち数の多いほうが勝ちになる。つまり、5戦中すでに3勝している北条の勝ちは決定しているのだ。

 もう負けが確定している中、浩康の心の内は穏やかであった。

 相手を前に深呼吸をする。そして、一礼してコートに踏み入る。

 いつもは相手の初動などをごちゃごちゃ考えてる頭も今は静かである。

 試合が審判の号令と共に始まる。

 浩康は何も考えていなかった。ただ体が相手の打突に対して勝手に動くのである。まるでゲームのチュートリアルのような不思議な感覚で相手の攻撃を難なく避ける。

 どれくらい経っただろう。

 どちらも決定打に至らず、時間だけが過ぎて行く。それと共に木下の焦りと苛立ちが募る。

 すると突然、浩康の目の前が真っ暗になった。それと共に感覚という感覚がなくなり浩康一人が暗闇に立っていた。

 ――なんだあれ。

 暗闇の中に眩しいほどの光が差していた。そこになぜだか行くべきだと思った浩康はその光に飛び込んだ。

 同時に現実では木下がメンを打ってくる瞬間、浩康は今まで何万何億と繰り返してきた動きで浩康の竹刀が空中で弧を描く。

 パコン。

 浩康の竹刀が木下のメンに当たって音が鳴った。同時に試合時間終了を知らせるアラームが鳴り響いた。

 綺麗な一本である。

 会場があり得ないことに静まり返る。木下は茫然としている。審判も驚きで判断が遅れたようで、1テンポ遅れて「め……メンあり」と言った。

 最初に拍手しだしたのは雅之である。

 一度関が切れると、一気に会場が沸いた。


 なぜか浩康は涙が溢れてきて崩れ落ちそうになった。

 しかし、これは試合である。

 何より今は剣道の精神に基づいて……。

 

 「ありがとうございました」

 浩康は木下に向かって一礼した。

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礼に始まり礼に終わる 阿宮菜穂み @AmiyaNaomi0322

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