4、一回休み(3)

 俺が知らない美沙希のことは彼が知っていた。彼の家に住み着いていたこと。美沙希は包帯を巻いて生活していたこと。彼は何かを隠しているようにも見えたが、彼が言いたくないことをわざわざ根掘り葉掘り聞いてやろうと思う程、俺は彼にも美沙希にも興味はない。


 彼はそして言うのだ。美沙希のことは僕が殺すつもりだった。美沙希を中から、心から、ぶち殺してやるつもりだった。それくらい嫌いだった。恨んでいた。美沙希のせいで自分の人生は台無しになった。僕は美沙希が大嫌いなんだ。


 駄々をこねる小学生みたいな低俗な言葉を並べて、彼は美沙希への想いを俺に伝えていた。


 想像以上につまらない時間だった。俺に声をかけたのはそんなことを俺に伝えるためだったのか。俺は美沙希の右目を潰した話を彼にしたのだ。俺がした話の対価として、彼の話は不釣り合いだった。


 まるで惚気話を聞いているみたいだった。彼はずっと美沙希の話をしていた。彼は美沙希と住み始めてからの自分の話をしようとはしなかった。まるで彼本人はそこにいなかったみたいに、ただただ美沙希のことだけを淡々と話す。


 だから俺は言ったんだ。


 君は本当、美沙希とよく似ているね。と。


 すると彼の目つきは変わった。そう言われるのは彼にとって嫌なことだったのだろう。わかりやすいやつだ。


 美沙希のことが嫌いだなんて自分自身にも嘘をついて、自分の本当の気持ちが自分でもわからなくなっている。こんなの美沙希と同じじゃないか。嘘をついて、本当がどれだかわからなくなっている。これを美沙希と似ていると言わないで何を言えと言うのか。好きだから嫌いになったんだろう。好きだから他の男といる美沙希を嫌いになって、好きだから美沙希のことを恨んで、好きだから嘘をつく美沙希を嫌いになって、好きだから君の人生はめちゃくちゃになったんだろう。全部美沙希のことが好きだったからこうなったんじゃないか。好きだから嫌いになったんだろう。美沙希が嫌いだなんてくだらない嘘をつくために、死んだ美沙希を残して、俺を追いかけたのか?気づいているか?君は俺と話している間、美沙希の話をしている間、どれだけ笑って、どれだけ泣いていたか。自分で気づいていたか? 無意識に拭った涙で君の右手の甲はもうぐっしょり濡れているじゃないか。それが全てを物語っているじゃないか。もうやめたらどうだ。嘘をついて生きるのはやめてみたらどうだ。本当のことを話してみろよ。それとも美沙希みたいに、嘘をついて、嘘を重ねて、嘘まみれのまま死ぬつもりなのか?


 彼は席を立った。両手は机の上に置いたまま、何か言いたげだ。何だ言ってみろよ。本音で話してみろよ。美沙希の右目を奪った俺が憎いか? 大好きな美沙希の大切な右目を奪った俺が、憎いだろう。嫌いだろう。これが本当の嫌いってやつなんだよ。お前が美沙希に抱いている気持ちは……今お前が俺に抱いている気持ちと同じか?


 すると彼は言った。


 だとしたら、嘘つきはあなたも同じでしょう。


 そして彼はこう続ける。


「返します、長い間ありがとうございました」


 彼は俺に背を向けて、喫茶店を出ようとする。その背中に俺は呼びかける。


「返すって……何をだよ」


 外ではパトカーのサイレンが鳴っていた。赤色灯の光が、こちらを振り返った彼の顔を真っ赤に染めていた。


「名前を、お借りしていたので」


 彼はそう言い残すと喫茶店の扉を閉めた。


 それからというもの、俺が彼のことを見かけたことは一度としてない。

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