3、あがりが見えない(2)

 時給九九〇円。僕は大して仕事ができるわけではなかった。ミスはするし、人当たりが良いわけでもない。九九〇円でももらいすぎなんじゃないかってくらいだ。こんな僕を受け入れてくれるところなんて他にありはしないだろう。以前より人間として質が悪くなっているのを感じていた。高校の頃、大学生の頃、就活していた頃、漫画喫茶を転々としていた頃、そして現在。時が経つにつれて心身共にダメになっていた。あの時できたことも今ではできないし、あの時できなかったことが努力でできるようになることだってない。


 ゴミがゴミのまま腐っただけの存在が今の僕だった。


 十六歳で女子高生の愛ちゃんの方がよっぽと仕事はできるだろう。人当たりは僕同様良くない。いや、むしろ悪いくらいだが仕事はテキパキと熟すのだ。ただ、不似合いな丸メガネの奥の死んだような目つきがどうにも僕に似ていた。

愛ちゃんはきっちり夕方の六時まで働くと「先にあがります」とお辞儀をして、そそくさと退勤した。


 交通の弁が悪いからか、このコンビニは客入りが良いとは言えない。夕方以降となると店内に一人も客がいないということもザラだった。店内を流れるBGMを聞いていれば時間なんてあっという間に過ぎた。


 夜の二十三時。髪を明るく染めた大学生の男店員とレジを交代する。「暇人なんだから夜もお前がいろよ」と悪態を吐かれたが、いつものことだ。暇人なのは学生のお前も同じだろうが。心の中で反論したところでどうにもならない。世間は彼を学生、そして僕をただのフリーターだと認識する。事実そうだからだ。みんな肩書きだけで人間を見ている。


 僕の肩書きは「元風俗嬢で盲目の彼女を騙して同棲してるフリーター」だ。ただのフリーターなんかじゃない。やっぱり僕はゴミだった。


 こうして一人で夜道を歩いていると自己嫌悪に陥る。平沼先輩の自殺の記事をスマホで漁りながら、死ぬべきなのは僕の方なのではないかと苦しくなる。でもきっと僕が死んだところで世間は騒がない。死んだところで僕は平沼先輩の足元にも及ばない。


 ネット上で見る大半の意見は平沼先輩が働いていた会社の体制を批判するものであった。しかし中には平沼先輩を批判する意見もあった。「営業マンがノルマに追われるのは当たり前、こいつ自身が弱すぎる」「自分が仕事ができないのを会社のせいにしているだけの甘え」「収益を生まない人間に給料を与えている会社の方が被害者」等々。


 僕はあの会社の惨状の一片を垣間見ている。だから平沼先輩がこういった結末を迎えたとしても不思議はないように感じた。可哀想だとも思ったし同情だってした。それなのに、僕はこうして攻撃の矛先が平沼先輩に向けられているコメントを見るたびに、安心感に似た感情がよぎっている。平沼先輩の死体を蹴って嘲笑っているやつらと僕は同等なのだ。平沼先輩は僕になにか悪いことをしたか。いや、していない。それなのに僕は平沼先輩を嫌いでいる。美沙希のことが好きだったから平沼先輩のことが嫌いだった。今こうしてようやく美沙希のことを嫌いになったというのに、僕はまだ平沼先輩のことが嫌いなのだ。ただただ嫌いな人間が増えていく。僕はもうみんなが嫌いだ。詩穂も実紀も平沼先輩も美沙希も、もちろん僕自身も、みんな、みんな大嫌いだ。


 そんな嫌いな人間の一人である美沙希が、家に帰れば待っているのだ。僕のことを嶋という男と勘違いしたバカ女が、汚い包帯を頭に巻いて、暗闇の中でもがいているのだ。僕の人生をめちゃくちゃにした張本人がなんの悪ブレもなく僕に抱きついてくるのだ。


 こんな滑稽な話があるだろうか。


 僕が嶋でないことを知ったら、美沙希は何を思うだろうか。僕はただそれだけを考えて生きている。それだけを糧に今を生きている。


 平沼先輩。聞こえますか。僕は今生きています。あなたと違ってこの世界で呼吸をして心臓を鼓動させて、そしてあなたの大切な人と一緒に暮らしております。もちろん美沙希は僕にとっても大切な人間です。美沙希がいなくなったら僕は糧を失うのですから。だから美沙希が大切です。自分のために美沙希が大切なのです。死んで解放されましたか。楽になりましたか。もしそうなったのだとしたら羨ましい限りです。ですが僕は死にません。僕はあなたみたいにはなりません。美沙希と一緒にいる僕を、地獄から見上げていてください。そして僕を羨ましがれ。狡いと感じろ。嫉妬しろ。その気持ちは僕が学生の頃抱いた気持ちと一緒だ。


「ただいま」


 玄関を開けると美沙希が部屋の隅で体育座りをしていた。


「遅い」


 身動き一つせずに口だけを動かして美沙希は拗ねたように言う。時計を見ると深夜の十二時は回っていた。


「言ったろ、日は跨がないって。約束は守ってる」


 十五分程過ぎていたが、どうせ美沙希にはそんなのわからない。そういう嘘をつくことは日常茶飯事だった。


 それでもあまり機嫌が良くなさそうだったので何か褒めるべき点を探してみる。机を見るとカップ焼きそばの容器が三つ並んでいた。


「一人で作ったんだな」


 たった一言それを言っただけなのに、美沙希は「えへへそうなの、頑張った」と僕の隣に座って僕に寄りかかるのだ。目が見えない分、何をやっても褒める対象になりうる。美沙希の機嫌なんてコントロールするのはいとも容易かった。


アルバイトをして、帰ったら美沙希の相手をする。僕の一日は毎日同じことの繰り返しだった。

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