3、あがりが見えない(1)

「テレビ、壊れたみたいだ」


 僕はそう言ってテレビのリモコンから電池を抜いた。咄嗟の行動だった。もちろん本当にテレビが壊れてしまったわけではない。でもそうした。そうしないといけない気がした。


 目の見えない美沙希にとってはテレビが映るかどうかは問題ではなかった。ただ僕がいない間、部屋が無音になるのを美沙希は嫌がった。


「急に壊れることなんてあるの?」


 トイレから帰ってきた美沙希はストンと床に座ると、残っていたカップ焼きそばを啜りながら首を傾げた。ソースがはねたのか両目に巻いている包帯に茶色の点がついていた。


「壊れたもんは仕方ないだろ」


 そう言って言い聞かせるしかなかった。


 美沙希は思っていた以上に聞き分けが良かった。それは今日に限ったことじゃない。一緒に住み始めてからずっとそうだった。美沙希は情緒が安定しておらず、急に泣き出したり我儘を言い始めることが多かった。でも僕がそれを指摘すると瞬時に元に戻った。美沙希が道を外れようとしても僕が一言何かを言えば美沙希は正しい道に戻ってくるのだ。


 正直に言うと、気分が良かった。僕の思う通りになる美沙希を見て、僕は優越感に浸ることができた。過去数年間の負の感情を忘れてしまうくらいに、僕は美沙希の前で笑顔になれた。しかし美沙希には僕の笑顔は届かない。それどころか美沙希の前にいる僕は、美沙希にとって僕じゃない。


 嶋という、僕の知らない男だ。


「ねぇ、嶋くん。今日は何時に帰ってくるの?」


 日は跨がないことだけを伝えて、僕は美沙希に軽いキスをすると玄関を出た。振り返ると美沙希は僕に向かって右手を振っていた。僕が手を振り返したところで、美沙希には伝わらない。だから。


「いってくる」


 言葉にしてそれを伝えた。


 今日もこの国は平和だった。戦争があるわけでもないし、飢えた子供がそこらに転がっているわけでもなかった。幸か不幸か、誰かがたくさん死ぬような事件や事故もどうやらないらしい。


 だから、なのだろう。


 もし、イかれた老人が通学途中の小学生を何人も轢き殺したり、施設に侵入して障碍者を複数人殺害したりする奴が現れたりなんかしたら、今日の朝にテレビであれを見ることはなかったのだろうと思う。


 この国で一年間の内に自殺する人の数は二万人を超えるという。今朝見たニュースはそんな自殺の一件に過ぎないのだ。二万分の一の、国という規模で見たら些細なものに過ぎない。自殺した人には各々の思いがあって、そして死を選んだ。それだけ生きることが苦痛だった。だからどの自殺が特別とか、どの自殺はしょうもないものだとか、そういう区別があるわけではない。でも今回、この自殺がマスコミにこれだけ騒がれるようになったのには、わかりやすい理由がある。


 取り上げることで、盛り上がるから。


 ただ、それだけだった。


 僕は今朝、テレビから流れる音声で初めて平沼先輩の下の名前を知った。学生時代の平沼先輩の写真が何枚も映し出されていた。その写真の中には美沙希と撮ったであろう写真もあった。平沼先輩以外の人物にはモザイクがかけられていたが、僕にはそのモザイクの向こうにいる美沙希が鮮明に見えた。


 昨夜、平沼先輩はこの世を去っていた。かつて美沙希に告白をして、美沙希の彼氏の座を我が物とした平沼先輩だ。


 数年前、僕は彼と会っている。一目でわかる程のブラック企業に勤めていて、それでも「大切な人がいると頑張ろうと思える」と、その時ばかりはポジティブなことを吐かしていた。大切な人というのはきっと当時は美沙希のことだったに違いない。それがいなくなって、どうなったのかとは思っていたが、彼は頑張れなくなっていたらしい。大切な人がいなくなってしまったから、という馬鹿みたいに単純な理由だけで自殺を決めたわけじゃないだろうが、それも少しくらいは関係しているのかもしれない。


 平沼先輩は会社の営業室の中で手首を切り、その後、首を吊って死んでいたらしい。朝、社員の一人がそれを発見したらしくその時には既に死亡。ホワイトボードに書かれたノルマと実績を記すグラフは、平沼先輩の血液が大量に付着していたとのことだった。彼が遺した遺書には会社への抗議の文が綴られていたが、最後は「数字が足りなくて申し訳ございませんでした」という謝罪の言葉で締められていた。会社への不満と成績を上げられない自責の念とが交錯してこのような結末を迎えたのだろう、というのが番組に出演していたコメンテーターの見解だった。


 平沼先輩の名前と行く末を美沙希に聞かれたくなくて、僕はテレビが壊れたことにしたのだった。美沙希は勝手に部屋から出ることはないし、テレビさえ奪ってしまえば外の情報は一切遮断される。知られる心配はなかった。


「お疲れ様です」


 バイト先のコンビニに到着すると、レジにいた愛ちゃんがいつも通りの暗い口調で僕にそう挨拶をした。お疲れ様ですと返すとそっぽを向かれた。いつものことだった。

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